人魚の海

鷲巣 晶

第1話 人魚の海


あの夢を見たのは、これで9回目だった


故郷の瀬戸内海にある村の鳥居がある小さな洞窟を抜けた向こうに、美しい海が見える浜辺が広がっている


その浜辺は海の神『綿津見神わたつみのかみ』を祀った浜辺であり、観光客は入れず、地元の人間でも、洞窟を管理している神主以外は年に一度の夏の祭りの時にしか入れず、誰の手にも汚されない美しい浜辺が広がっている


私は夢の中でこの浜辺を妻『華魚カオ』を車椅子で乗せながら洞窟を抜けて、浜辺に足を踏み入れる


朝日が照らして青く輝く海を見つめながら彼女と二人で浜辺を歩く


すると海から妻の名前を呼ぶ声が聞こえてくる


見ると海の中から女たちが微笑みながら私たちに手を振っている


よく見ると、彼女たちの下半身が鱗の生えた魚になっている


すなわち、人魚である


私が驚いていると車椅子に座っている妻は私の袖を引っ張ってくる


「私も、みんなの元へ行かせて」


見れば車椅子に座る彼女の足は、人魚たちと同じ青い鱗の生えた魚のものになっていた


「ああ」


夢の中の私は頷くと彼女を抱き抱えて輝く海に向かって歩いてゆく


朝の日差しは私たちを歓迎してくれているようだった


人魚たちに迎えられながら、私たちは青い海へと潜ってゆく


海の中には美しい光景が広がっており、人魚たちと一緒に私たちは青い宝石のような海の中を泳ぐのだ


それはそれは、天国の最奥である至高天へたどり着いたような・・・そんな気分だった





ーーそこでいつも、目が覚める



次に向き合うのは現実だ


痩せ細って骨と皮のようになってしまった妻は病室のベッドで眠っていた


私は、彼女の顔に顔を近づける


これも毎日、続けていることだ


呼吸をしているかどうか


「よかった。まだ生きている」


寝息がきこえる。


しかし、消えてしまいそうな、か細い呼吸だ


この呼吸を聞いて、いつも私は彼女の生存に安堵の息を吐く


妻は原因不明の難病で3年間、入院している


最初は風邪だと思っていたが、日に日に、彼女は弱っていき、最近では三日に一度、目が覚めるような意識の状態だ


医者はなんの病気か、わからないという


妻はこれまで何度も検査をした


何が彼女の命を脅かしているのかを、何度も検査したのだ


彼女の命を脅かす原因。


それはコロナなどのウイルスによるものなのか、悪性の腫瘍によるものなのか、何かの毒なのか・・・


しかし、検査しても、答えは出ない


血液も、内臓も健康そのものなのに、彼女の体だけが弱ってゆくのだ


彼女の体が原因不明に衰弱していますと、医者はそれだけをいう


ふざけるな


私は医者に怒鳴りつけた


華魚がこうして弱っているのに、病名さえ、原因さえ、突き止められないのに、それでも医者なのか?


しかし、容態は良くはならず、悪化を続けている


ついには医者からは体力的に、もって1月と言われてしまった


なぜだ?


私は苦しそうな妻の顔を見るたびに心の中で私は誰かに問いかける


なぜ、私たちにこんな不幸が降り掛からなければならない?


世の中には人を殺したり、騙したり、盗んだりしても、ヘラヘラと刑務所に入って生き残っている奴らがいるのに、なんで神様、仏様は私の妻にこんな酷いことをするんだ?


神を罵り、仏を憎む言葉をいつも私は心の中で叫ぶ


しかし、それで何か、事態が好転するわけもなく、妻は弱っていくばかりだ


いつ、妻の身に何が起きてもいいように余命宣告が出てから、会社には有給休暇をもらっている


何が起きるというのか、いや、何が起きるかわかっているからこそ、私はそのまもなく迎える事実が恐ろしくてたまらない


彼女は生きて来月を迎えられないという事実が私には耐えられそうにない


来月は4月、桜の咲く季節だ


4月は華魚の誕生月であり、桜は華魚の一番好きな花であった


病気になる前に二人で、奈良の吉野に桜を見に行こうねと約束したのだ


その約束を果たす前に彼女がこんな病気になる、あの時は想像もしなかった


彼女がまもなく、私の目の前で息を引き取ってしまう、動かなくなってしまう


もう、あの、愛らしい声も、笑顔も、私の前から永遠に消えてしまうのだ


この有給休暇は結局は彼女を助けるための、休暇ではなく、彼女を看取るためのさよならを言うための休暇である


私は医者ではない、ただのしがない水産会社の事務員である


だから、そんな私がそばにいても特に何ができるわけもなく、彼女の弱ってゆく顔を眺めていく日々が続くだけであった


治る見込みがなく大切な妻が痩せ細って弱ってゆく姿を見るのは私にとって魂を焼き尽くされる煉獄の日々だった



私と彼女の出会いの話をしよう


彼女と私は瀬戸内海にある漁村で育った


村のほとんどが漁師か、それに連なる仕事をしている小さな村だ


村では毎年6月に『綿津見神』に奉納する舟祭りが開催される


船に神輿を乗せて『綿津見神』の洞窟のある浜辺から瀬戸内海に浮かぶ2km先の無人島の神社まで渡るのだ


私の父は漁師で、小学校の頃に一緒にその奉納祭に連れて行かれた


父と他の漁師たちと一緒に神輿を担いで町内を練り歩き、神輿ごと船に乗って無人島まで船で運ばれてゆく


その船の中で、船に乗る歳をとった漁師から恐ろしい話を聞いた覚えがある


この辺りの岩礁には人魚が住んでおり、4月の満月の夜に、『綿津見神』が祀られた洞窟の向こうの浜辺にやってくるという


人魚たちは陸に上がると、人間の足が生えるそうだ


そして、人魚たちは人間に化けて、村の若い漁師たちをあの手この手で誘惑する


人魚たちは人間の女よりも美しく魅力的だ


しかし、誘惑に負けてはならない


誘惑に負ければ、たちまち、海に引き摺り込まれて、海の世界から出られなくなってしまう


漁師にとって海というものは恩恵をもたらす場所であると同時に、極楽浄土や地獄につながる異界だと信じられていた


僧侶たちもまた、昔、補陀落渡海という海にある極楽浄土に向かって船を出し、僧侶たちは帰れぬ船旅に出たのだから、海の向こうには異界があると、昔の人も、漁師も信じているのだ


そして、人魚たちに誘惑されて捕まれば、その海の異界に、おそらくはあの世へ連れて行かれる


話を聞いて怯えている私に年寄りの漁師はこう言った


「坊主も、人魚の女には付いて行かないことだな」


「どうやって、人魚と普通の人間の女を見分けるんだよ」


と私は震えながら尋ねた


「見分ける方法はあるぞ」


漁師が言うには人魚かどうか、見分けるには足を見ればいいらしい


どんなに上手く人間に化けても人魚の女の足には鱗が付いていると言うのだ


だから、人魚の女に誘惑されたら、必ず、足を触る


足を触って鱗があったら、速やかに、その場を立ち去ればいいとのことだ


そんな話をしながら、船はついに無人島に辿り着く


浜辺に神輿を下ろして、全員で神輿を担ぐ


わっしょい、わっしょい


石段を登り、鳥居を越えて神社に辿り着く


社には歳を取った(私の祖父ほどの年齢だった)神主と、巫女の姿をした私と同じくらいの年齢の少女が待っていた


この歳をとった神主が華魚の父であり、この巫女の格好をした少女こそは幼い頃の華魚だった


「私は華魚、君はどこからきたの?」


華魚は私を見るなりにっこりと、微笑んだ


それが、初めての出会いだった


彼女は鈴のついた榊を持って奉納の舞を踊る


一切の汚れがない巫女服に身を包み、奉納の舞を踊る彼女の姿を見て、私はこの世のものではないような美しさを彼女から感じたのだ


それが私の初恋だった


自慢ではないが、私は彼女以外の女性を異性として好きになったことはない


彼女は私にとって最初で最後の恋人であり、この世で何にも代え難い人間なのだ


後から聞いた話だが、彼女は神主夫婦の実の子供ではない


あの夢に出てくる『綿津見神』が祀られた洞窟の前で捨てられていた赤ん坊の華魚を、神主が拾ったそうだ


地元の人間でも滅多に近づかない洞窟になぜ、幼い華魚を捨てたのかはわからない


しかし、神主夫婦には子供がおらず、年老いた夫婦は実の子供以上の愛情をかけて育てた


その夫婦も華魚が高校を卒業する前に相次いで亡くなってしまった


華魚は高校を卒業したと同時に地元の漁港で働くことになった


漁港で漁師たちの世話をする彼女は、評判だった


それこそ、私たち村の若い男の間では、誰が最初に華魚を口説くか競争だった


私はずっと、好きだったので、当然、焦っていたのを覚えている


しかし、付き合おうと言ったのはどちらが最初だったのか


私は華魚が先だったと思うが、それを言うと華魚はあなたが先だったと頬を膨らませる


実際のところはなんとなく、そういう感じになったのだろうと思う


私は幼馴染の華魚が子供の頃から好きだったし、華魚もまた、そんな私のことを好いてくれているのだ


とにかく、高校を卒業してから付き合い始めた私は大学を卒業すると同時に彼女にプロポーズをした


結婚指輪は他の恋人たちよりも確かに安物だったかもしれない


しかし、そんな私の指を彼女は指に嵌めて、彼女は嬉し涙を浮かべながら、若い私のプロポーズを受けてくれた


実の親に捨てられ、育ての親に先立たれた天涯孤独の彼女を、私は絶対に寂しがらせないように誓ったのだ


子供がいない夫婦だったが、3年間はこの世界のどの恋人よりも幸せに暮らしたと私は思っている。


休日は、妻が好きだったアクアマリンによく、行ったものだ


水槽を覗き込み魚を目で追いかける彼女はどこか懐かし無用な、遠い目をしていたのを覚えている


私は彼女のその表情を見て、必ず華魚という女性を守ると誓ったのだった


それなのに、なぜ、こんなことに・・・


彼女が死んでしまう


私の元からいなくなってしまう


そんなことを考えると私は絶望で壊れてしまうそうだ



私は、その晩も、また海の夢を見た


10回目の同じ夢だ


その日の夢は少し、違っていた


私は車から、車椅子を下ろし、ぐったりとした彼女を車椅子に乗せるところから始まる


いつもは、洞窟を抜けるところから始まるのに、この日の夢は、車から彼女を下ろすところから始まる


そして、9回目までの夢と違うのは、彼女の顔がまるで、死んだように青ざめていること


私は、彼女の顔に自分の顔を近づける


ーーまさか・・・


私は愕然とした


彼女は息をしていない


「華魚、華魚」


彼女の手を握ると彼女の手は冷たく氷のようだ


あの柔らかく温かい彼女の手がまるで冷え切った石のようだ


私は何度も彼女の手を握り返すが、冷たい手は何も答えてはくれない


馬鹿な、これでは、まるで彼女が死んでいるようではないか


私の頬に涙が伝わる


前までの夢ではこんなことはなかった


生きて、彼女と話しながら、綿津見神の洞窟を抜けたのに


彼女の死体を乗せて洞窟を渡ることになるなんて・・・


それでも夢の中の私は動かない彼女の体を必死に車椅子に乗せる


そして、私は彼女の車椅子を押して海の神の洞窟に入る


洞窟の中は松明の火が付いてある


洞窟には十王の像と綿津見神が祀られている祠が静かに佇んでいる


なぜ、海の神と死後の世界を司る閻魔たち、十王が一緒に祀られているのか、ずっと疑問だった


だが、今ならわかる気がする


海と死後の世界である『異界』は同じ、意味を持っているからだ


海で死んでいった漁師たちの魂が死後に十王に、死後の裁きを軽減してもらうために、この場に十王を祀ることにしたのだろう


だが、そんなことは今の私には関係がなかった


ただただ、死んだ華魚の死体を乗せて浜辺まで乗せていってやりたかった


その日の海は朝日はなく、小雨が降っていた


暗黒のような暗い海が目の前に広がっている


いつも、この海にいるはずの人魚たちもどう言うわけか、今日はいない


「どこだ。彼女たちはどこにいるんだ」


暗闇の海を見つめながら人魚を私は探す


だが、波は揺れているだけで人魚など一人としていない


私は、彼女たちならば、この死んだようになってしまった華魚を救ってくれると思ったのだ


いつもは、夢の中で彼女たちが導いてくれて、光の海へと向かっていけた


彼女たちが導いてくれれば、妻は生き返ると思っていたのに


それにしても、この暗闇の海の夢は一体、なんなのだろう


一体、私に何をして欲しいんだ?


私は車椅子から降りて彼女を抱き抱えると、靴を脱いで一歩、一歩と海へと向かってゆく


冷たい海が私の足を濡らす


だが私の足は止まらない


あっという間に、海は私を飲み込んだ


そして、その日も私は再び、彼女を抱きながら海の中へと沈んでゆく


9回目までと違って暗くて、冷たくて黒い海だ


一切の水面の光を通さない、まるでブラックホールである


ブラックホールに魂がまるで引っ張られて、彼岸に沈んでいくように感じる


この黒い海はあくまで私の夢だ


だが、このまま、目を覚ましたらどうなるだろう


現実に戻れば、こんな黒い海の夢はただの悪夢に過ぎない


私が恐れているのは、目を覚ませば彼女の死を待つ日々が待っているのだ


その現実こそが、まるで、底のない光の一切を退けた暗い海に沈んでゆく


それはそれは、まるで『一切の希望を捨てろ』と書かれた地獄の門を潜るようなダンテの気分だった・・・



死にゆく彼女に何もできない無力さに私の頬に涙が伝った



夜中に目を覚ます


「泣いていたのか」


私は頬に伝う涙を拭う


病室の電気をつける


ベッドには華魚が眠っていた


点滴が一滴、一滴、時を刻むように落ちてゆく


この一滴、一滴が華魚の命の頃、時間だと、なぜか私はそう思った


いつものように目覚めたら私は彼女の呼吸を確かめるために、彼女の顔を見にいく


「あっ」


私は思わず声を漏らした


3日間目を覚さなかった華魚が青い瞳を開けていたのだ


「華魚、目が覚めたのか」


「あな・・・た」


華魚は何かを言おうとして口をぱくぱくさせている


消えてしまいそうなくらいにか細い声だ


耳を澄ませておかないと聞き取れないくらいに、


「なんだ?言ってくれ」


私は顔を近づけてその声を懸命に拾おうとした


「海に・・・、海に行きたい・・・」


海、その言葉に私は瀬戸内海の海を思い浮かべた


彼女はあの『人魚の海』に行きたがっている


「故郷の瀬戸内海の海かい?」


彼女はコクリとうなづくとそのまま、再び目を閉じて意識を失う


「おい、華魚、華魚!」


声をかけてみるがそれ以降、彼女が意識を取り戻すことはなかった


私は彼女の言葉を聞いて、ある一つのことを思いついた


それは、他人が聞いたら気が触れていると思われても仕方がない


私は、正気だと思う


いや、あんな夢を10回も見るのならばもう、狂気の境に足を突っ込んでいるのかもしれない。


何が正気で、何が狂気か


何が正常で、何が異常か


何が正しくて、何が悪いのか、もう、私にはわからないのだ


だが、神にも仏にも絶望した私にはそんな妄想に従うしか他はないのだ


なぜ、私が10回も同じ『人魚の海の夢を見たのか』


なぜ、華魚があの海のそばの洞窟の前で捨てられていたのか


昔、あの船で歳をとった漁師の話した昔話を思い出す


あの浜辺では岩礁に住む人魚が、時折、人間に姿を変えて村の人間を誘惑するんだと



華魚、君は、本当は人魚なんだな?



妻が人魚なんていえば、他人は笑うだろう


お前は正気かと、私を精神病院に連れて行くだろう


しかし、なぜかその事実が、私にとって確信ができる事実だった


私は車椅子に彼女を乗せて病室を抜け出す


途中、ナースたちに見つかりそうになったが、なんとかやり過ごし、駐車場まで辿り着く


妻を助手席に乗せる


妻の顔はいつもよりも青白く、呼吸はいつもよりも静かだ


夢の中の死んでしまった彼女を思い出す


そして、感じるのだ


もう、残された時間は少ないことを


「神様、彼女をまだ連れて行かないでくれ。お願いだ」


神様?


私は鼻で笑い飛ばす


私は神様など信じていないのに、それどころか華魚をこんな運命を与えた神を恨んでいるのに、今更、どの神に祈るというのか


どの神でもいい


日本には八百万の神がいるならば、その一柱だけくらいは私の祈りを聞いてくれてもいいだろう


どうか、神様、彼女の命を持たせてくれ。


あの海にたどり着くまで


車で高速道路を走行する


今頃、病院では大騒ぎになっているだろう


先ほどから病院からの電話でポケットの中の携帯電話が震えている


私は車の窓を開けると、携帯電話を高速道路に捨てた


これで私は他人の繋がりを完全に絶った


今、この車にいるのは私たち夫婦しかいない


東の空がコバルト色に輝いてきた


もうすぐ、夜が開ける


そして、この車は、故郷の海に、たどり着く


開いた窓から潮風の匂いが入ってくる


広がる海が車からも見える


明け方の漁から帰ってきた漁船が帰ってくるところが見える


帰ってきた


ここは瀬戸内海だ


私と華魚が育った故郷に帰ってきた



子供の頃に通っていた小学校の前を通る


小学校のプールを見て、華魚がクラスの誰よりも泳ぎがうまかったことを思い出す


私は漁師の子供ということもあり、誰よりも泳ぎはうまかった


私の祖母などは私の泳ぎを見て、河童にも負けてねえと見たこともない河童と比べて自慢をしていたのを思い出す


しかし、私は一度も、華魚に泳ぎで勝ったことはなかった


彼女の泳ぎはクロールでも、バタフライでも、手に水かきでも生えているのではないかというくらいに速く泳げた


私は生来、負けず嫌いである


特に得意な水泳では負けられなかったのだ


私は、何度も彼女に泳ぎを挑むが、いつも格差で負けてきた


なんで、そんなに泳ぎが上手いのかと聞いたことがある


その時、彼女は勝気にこう言ったのだ


「私に勝ちたいのなら、水になることよ」


まるでブルース=リーの『水になれ』という言葉のようなことを言う


しかし、水になるということがどういうことかいまだにわからない


彼女は泳ぎが得意だったから、中学、高校と水泳部に入っていた


彼女は水泳で全国大会に出場していたし、両親が高齢でさえなければ、オリンピックだって目指せたはずだ


私も当然のように、彼女を追いかけて中学も、高校も水泳部だった


彼女に追いつきたくて、彼女のいう水になれという言葉の意味が知りたくてずっと彼女を追いかけていた。


何度も、何度もプールという場所で彼女を追いかけた


しかし、結局、高校と中学の間、彼女には泳ぎで勝てたことはない


華魚の泳ぎは水と一体化しているというような、そんな不思議な泳ぎだった


・・・それは私の手をすり抜けるような



車は華魚と何度も足を運んだ商店街を抜けてゆく


中学時代の私と華魚は部活帰りにこの商店街を歩いていた


華魚は商店街の肉屋で買うコロッケが好きだったな


彼女のコロッケに齧り付く顔を思い出す


もし、肉屋がやっていたら、コロッケを買っていきたかった


私と結婚してからも、休みの日には彼女と一緒にコロッケを作った


卵、小麦粉、水を混ぜ合わせたタネを、パン粉をまぶして油で揚げる


狐色をしてカリカリと揚がったコロッケを二人で齧り付くのだ


その味は、どんな料理よりも美味しかった


今ではもう、懐かしい思い出だ


華魚が病に倒れてこの三年、私はコロッケを食べることもしなかった


食べるならば、君と一緒に食べたかったから



海の神の洞窟に着いた時はすでに太陽が東の空から頭を出していた


助手席では華魚は死んだように眠っている


私は顔を近づけて彼女の呼吸を確認する


大丈夫だ。


まだ、呼吸をしている


私は彼女を車椅子に乗せると彼女の耳元で囁いた


「もう少しだ。もう少しで僕たちの故郷の海に、君がやってきた海に着くから」


車椅子を押し、鳥居を抜けて、洞窟に足を踏み入れる


電灯も設置されていない洞窟なので、夜の闇のように暗かった


私はライトで洞窟の中を照らしてゆく


洞窟は全長50mほどの短いものだ


舗装はされておらず、車椅子はガタガタと揺れる


私はできるだけ、彼女の体を揺らさないように、ゆっくりと車椅子を押してゆく


途中で十王と綿津見神の祠が建っている


私は少し、考えたが、祠の前で足を止めて柏手を打ち、掌をあわせて祈った


なぜ?


綿津見神は海の神であり、十王はあの世と呼ばれる異界の裁判官たちだ


彼らに私たちの旅路の無事を祈る


ここにきて、私はなぜか、神というものを信じてみたくなったのだ


洞窟を抜ける


洞窟を抜けた先は白い砂浜と、青い海が広がっていた


私と彼女は東の空から朝日が昇る白い浜辺を歩いた


世界を照らし出す太陽の光が海を青く色付け輝かせる


その光景はサファイアの宝石が輝くような、あの夢で見たのと同じ光景だった


砂浜には誰もいない


まるで、彼女と私しか、この世にいないみたいだ


繰り返される波の音だけが世界を支配していた


「行こう。みんな待っている」


私は眠り続ける彼女を抱き抱える


皮靴を脱ぎ捨てると白い砂浜に足をつける


足跡をつけながら、私は妻と一緒に青い海へと進んでゆく


海の冷たさが私の体を震わせる


もうすぐ4月になるが、水温はまだまだ、冷たい


氷水に体を浸かっているようだ


それでも我慢して私は海の中へと進んでゆく


「一緒に帰ろう。君が来た海へ・・・」


私と妻は青い海に抱かれるように、沈んでいった


君と離れない、離れたくない


私は海に沈みながら彼女の体をしっかりと抱きしめる


そして気泡と共に意識が次第に大きな海に溶けてゆくのを感じた



どちらが最初に告白をしたのか・・・



告白をしたのは、夏の海だった


大学の休みに私は、君を誘って海にきた


二人しかいない、秘密の浜辺だ


二人で海で子供のように水を掛け合ったり


岩礁まで二人で泳いだり楽しんだ夕方


「好きだ」


夕日の中で私は彼女にそう告げた


「えっ」


彼女は背中を向けて聞き返した


「俺は華魚が好きだ。ずっと、子供の頃から好きだった。ずっと、一緒にいてほしい。一緒にいてください!」


私は彼女に頭を下げる


「ふーん」


彼女は背中を向けたまま


これは、振られたか


そう思った瞬間だった


私の体を、彼女は勢いよく抱きしめた


「知っていたよ!君があたしを好きなことくらい!」


私の頬に自分の頬をくっつける彼女


その頬が濡れていることに気づいた


泣いているのか?


私は彼女の顔を見た


彼女は肩を振るわせて泣き笑いしながら私の方を見つめていた


「遅いよ。初めて会ったあの日から私は10年も待っていたんだよ」


「華魚、ごめん」


「謝るの禁止、その代わり、ずっとあたしを離さないでね!」


「ああ」


夕日の中で私の影と、華魚の影が重なる


唇と唇が重なった


私にとって、初めてのキスだった


そうだった


約束だったな


あの時の約束の通り、私は君を離さない



ーー沈んでゆく


沈んでゆく意識の中で私は夢を見た


君の足が光り輝く青い魚になってゆくところを




瀬戸内海の漁村の浜辺に若い男の死体が上がった


発見したのは地元の漁師だった


早朝に船を出そうとした時に、浜辺に流れ着いた男の死体を発見したのだ


漁師はすぐに警察に連絡した


小さい村では大騒ぎだった


男はこの村の出身者であり、彼の父が警察署に安置された彼の死に顔を見て本人だと確認した


男は5日前の深夜に大阪の病院から寝たきりの妻を連れて、行方不明になり、警察に捜索されていたのだ


彼の死は確認できた


問題は妻の方である


妻の方は依然として行方不明はわからなかった


男の車が綿津見神の洞窟のそばに止められていたのは村人によって発見された


洞窟の奥にある浜辺には、病院から持ち出された車椅子が海に向かって、いなくなった持ち主を待ち続けるように放置されていた


この状況から、意識のない妻を抱き抱えて男は海へと身を投げた無理心中だと考えられている


しかし、なぜ、男がそこに行ったのか地元の住人に尋ねても不明なのだ


綿津見神の洞窟とその奥の海は、地元の人々の中でも不気味がられていて立ち寄る人はいなかった


その理由は村人たちの間で語られる人魚伝説にある


この洞窟のそばの海は多くの岩礁があり、その岩礁の下には人魚が住んでいるとされる


今のような4月の満月の夜、人魚たちは岩礁から出てきて、海から浜辺に出てくる


そして、人間そっくりに擬態すると、人間の男を誘惑して岩礁の下へと誘い込もうとするという伝説があり、村人たちはその言い伝えを信じて祭りの日以外は、洞窟や、岩礁のある海には近づかない


そして、この海に続く、洞窟は普段は硬く閉鎖されているのだが・・・


洞窟は閉鎖されておらず、誰でも入れる状態になっていた


「ここを管理していた神主が死んでから、誰も管理するものがいなくなったせいだろう」


ここは町の駐在所である


警察の取り調べに元漁師の男の父はそう答えた


男の父は脳梗塞で片麻痺が残り、もう、漁に出られなくなっていた


今は、男の妹夫婦と漁村を離れて町で暮らしているのである


「現に、奉納祭も、神主が死んでから行われちゃあいねえ」


「なんでですか?」


刑事は尋ねた


この心中事件には謎が多い


なぜ、男が妻との心中にあの洞窟の奥の海を選んだのかわからないのだ


事件性を考慮して今、警察では捜査が行われていた


「あの村も少子化でもう、年寄りだらけだし、祭りの後継者がいないというのもあるんだが・・・。もともと、いわくつきの場所で、神主が主体となってやらなきゃあ、あんなところで誰も祭りなんてやりたくねえんだ。その神主も、10年前にそのカミさんも、あの洞窟の向こうの海で溺れて死んでいたのが見つかったしよ」


「え、神主さんがなんで?」


男の父は首を振るう


「わかんね、自殺ということにはなっているが、オラたちはきっと神主夫婦は人魚たちに海に引き摺り込まれたんじゃあねえかって噂しているよ」


「そんな、冗談ですよね」


ははは、乾いた声で刑事は笑う


しかし、男の父は眉ひとつ動かさなかった


その目の奥は怒りというよりも深い悲しみを讃えている


冗談でできる話ではないことが、その表情から窺い知れる


「さあな。神主はよく、海に向かって話しかけていたような奴だから、頭はだいぶ、おかしかったのは違いねえが・・・、やはり、原因は娘かねえ」


「その神主さんの娘さんは、あなたの息子さんの奥さんでしょう?あの浜辺に置き去りになった車椅子が発見されており、妻の病を気に病んだ息子さんが無理心中を図ったと見られていますが」


「華魚か・・・、いい子ではあるんだが、オラは息子との結婚には最初から反対していたんだ。・・・だから結婚した後はあまり、息子夫婦をそばに近づけなかった」


「なぜ」


「臭いだよ」


「臭い?」


「なんていうかな、わかるんだよ。あの子からはオラたちが食い扶持のために殺してきた魚の臭いがする。多分、あれは岩礁の人魚なんじゃあないかな・・・」


「そんなバカな」


刑事は背筋に氷を入れられたように背筋に寒気を感じた


神主夫婦の娘の華魚が人間ではない?


そんな話を本気で言っているならば、この老人、どうかしている


だが刑事は完全にはそう思えなかった


その話を信じてさせてしまうような、一つの証拠を溺死した男が持っていたのを聞いているからだ


あれは、一体、何の魚の・・・


「死んだ倅の手。何かを大切に握りしめていただろ。その手をオラは開いてみたんだ。そしたら・・・」


担当していた検死医に頼んで息子の手を開いてもらった


その手に大切そうに握られていたのは青い鱗だった


刑事は聞いている


あれが、なんの魚の鱗なのか、鑑識はまだ、答えを出せていないのだ


あれは、まさか、人魚の鱗なのか?


青ざめる刑事に男の父は口を歪めて笑った


「海ってのは異界に繋がっているのさ。だからあの洞窟には海の神とあの世の神様が祀られている。きっと倅は人魚に海の異界へ連れていかれちまったんでしょうな」


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