臆病な薔薇王女の為のプロローグ ーガレトワ国薔薇譜(そうびふ)ー
Yura。
序章 無力な少女は、いつもの場所で
第1話
――無力な女は泣くことしかできない。
「……ひっ、く、……うぅ……っ」
無数の薔薇が彩る見事な庭園。その片隅で、ドレスを纏った少女がしゃがみ込み、泣きじゃくっていた。そのようにしてはドレスが汚れます、みっともないですよと叱る厳しい侍女は、今は近くにいない。それどころか、一国の姫君であるはずの彼女の周りには、誰もいなかった。
王城の自慢であるこの庭園は、迷路のように入り組んでいて広大な面積を誇る。この国ではことさら薔薇を大事にする為、どこもかしこも見事な薔薇が咲き誇っていた。この地に昔から根付く馴染み深い薔薇に、他国から仕入れた珍しい薔薇、研究の末に出来上がった新種の薔薇まで。どの季節であっても何かしらの薔薇が花開いているが、この春は最も薔薇が美しく咲き誇る季節であった。
茶会が頻繁に開かれる庭園は、いつも人でにぎわっている。彼らに気付かれない、1人になれる秘密の場所に辿り着いてから、少女はもうずっと泣きじゃくっていた。
しかし今日は珍しく茶会のない日で、そよそよと風が葉を揺らす音と、少女の押し殺したような泣き声が聞こえるだけ。春の日が照らす庭園はいつにも増して美しく、薔薇の芳香も瑞々しく匂い立つが、少女はまったく顔を上げない。
「――どうしたの」
その時、声が降ってきた。びっくりして、少女は顔を上げた。この時間、この場所には、いつも誰もいないというのに。
少女の大きな瞳に、灰色が映り込んだ。――生気のないその色は豊かな色彩の庭園には不釣り合いで、びくりとする。
「……誰?」
目に涙を浮かべたまま、少女は問うた。目の前に立っていたのは、知らない少年だった。年は自分と同じくらい。
少年は、質問には答えなかった。ただ、くっきりと青い、大きな瞳でこちらを見下ろしている。髪はほんのりと癖のある、珍しい灰色の髪。きっとにっこりと笑えば女の子と見紛うほどだっただろうが、少年の顔には何の表情も浮かんでいなかった。今まで少女が見てきた、どんな同年代の子どもとも異なる雰囲気を纏っている。少女は少年から目を離せなかった。
「なんで泣いてるの」
少年が重ねて尋ねてくる。そこで少女は、自分が泣いていた理由を思い出し、また世界を涙でにじませた。
「わ……たしが、17歳になったらね、」
少女は言葉を押し出した。
「父様が、……“茨の騎士”を、誕生日に授けると言うの」
少年が、わずかに首を傾けた。
「姫が騎士をもらうのは、普通のことでしょう?」
それはそうだ。騎士は、王族を守る為にいる。民を守る為にいる。
しかし少女は、顔を伏せてかぶりをふった。
「違うの」
自ら閉ざした暗闇の中で続ける。
「“茨の騎士”は、私だけの騎士で、……私の為に、死ぬのが役目だって、」
もうそれ以上は無理だった。少女はまた1人に戻ったかのように、泣き声だけを漏らし始める。
少女の押し殺した嗚咽。風が緩やかに葉を揺らす音。時には鳥の声。
すっかり涙の中に引きずり戻された少女は、少年のことを忘れたわけではなかったが、泣いてばかりの自分に呆れて、とっくにどこかに行ったのだと思っていた。
「……あんたは、それが嫌なの?」
しかし、少年は相変わらずそこにいた。ただ静かに、しばしの沈黙の末にそう尋ねてきた。
「……ん」
少女はやはり、顔を上げぬままうなずいた。それから、またしばらく、のどかな静寂が通り過ぎる。少年は、動かなかった。
「何で?」
「……私の為に、誰かが死ぬなんて、いや」
それは、稚いわがままだった。ただの幼い少女になら許されるわがままだったが、残念ながら、少女は幼くても王の娘だった。いつか必ず、彼女の為に人が死ぬ。……いや、もしかしたらもう、死んでいるかもしれない。
それ以上言葉が出てこなかった。少女の口からは、また泣きじゃくる声だけが、いくつも、いくつも、こぼれ落ちる。
少女はそのまま、泣き続けた。今度こそ、少年はこんな自分に呆れていなくなるだろう。誰もが、ため息を吐いてこんな自分の前からいなくなる。
――しかし、それでも少年は去らなかった。
「……なら、おれがなってあげるよ」
少女は顔を上げた。それは一時でも涙を止める、魔法の言葉。変わらず少年は、どきりとするほど青い瞳で、何の表情もなく少女を見下ろしている。
これが、ふたりのはじまり。何も持たぬ薔薇姫が、生涯ただ1人の、茨の騎士を得たのちに。
――何かを変える、物語。
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