## 【裏切りの予感】信頼は最も脆い魔法

茶館での会談から三日後、俺とエリナは図書館の第三書庫で研究を続けていた。テーブルの上には「星継の書」と、マーカス教授から借りた古代魔法に関する研究書が広げられている。


「シルヴィアの話、どう思う?」俺は本から目を上げて尋ねた。


エリナは研究ノートに何かを書き留めながら答えた。


「整合性はあるわ。でも、いくつか気になる点もあるの」


「例えば?」


彼女はペンを置き、まっすぐ俺を見た。


「まず、彼女が古代魔法に関して持っている知識は、一般的な研究者が持つレベルを超えているわ。祖父の研究だけでは説明がつかないほどよ」


「確かに」俺も気づいていた。「彼女は星の痣のことも知っていたな」


「それに」エリナは指を折りながら続けた。「ヴィクターとの関係も不自然よ。彼女が言うように政略結婚だとしても、あの二人の間には何か…通じ合うものがあるように見える」


確かに学院では、彼らは完璧なカップルとして振る舞っている。単なる演技なのか、それとも本当の感情があるのか。


「そして最も気になるのは」エリナの声は低くなった。「彼女の目的よ。古代魔法の知識を得たいというのは分かるけど、それだけじゃない気がする」


「何か別の意図があるというのか?」


「直感よ」エリナは少し申し訳なさそうに言った。「女性の直感」


俺は少し考え込んだ。エリナの直感は鋭い。これまでも何度か危機を察知してくれた。無視はできない。


「とはいえ」俺は現実的な判断を下した。「今は彼女との協力が必要だ。『黒翼の結社』についての情報は貴重だし」


「そうね」エリナも同意した。「ただ、彼女に何を教えるか、何を隠すかは慎重に選ぶべきだわ」


「ああ」俺は頷いた。「『星継の書』の存在や、精霊との契約については明かさないようにしよう」


二人は研究を続けた。「星継の書」の複雑な内容を解読し、現代魔法との接点を探る作業だ。エリナの理論的知識と俺の直感的理解が組み合わさると、驚くほど効率的に進む。


「これを見て」エリナは一つの図を指差した。「この魔法陣のパターンは現代魔法の基本構造と似ているわ。でも、エネルギーの流れ方が全く異なる」


「確かに」俺はページを覗き込んだ。「現代魔法は外から内へ魔力を集める。でも古代魔法は内と外の魔力を共鳴させる」


「この違いが効率性の差を生み出すのね」エリナは理解した。「だからレインは少ない魔力で大きな効果を出せるのよ」


研究に没頭する二人は、時間が経つのを忘れていた。窓の外は既に暗くなり始めていた。


「もう閉館時間か」俺は時計を見て言った。「今日はここまでにしよう」


資料を片付け、「星継の書」を安全な保管場所に戻す。オルドリッチ館長が特別に用意してくれた魔法鍵付きの書棚だ。


図書館を出ると、夕暮れの空が広がっていた。学院の塔に最後の陽光が当たり、金色に輝いている。


「綺麗ね」エリナが空を見上げた。


「ああ」俺も頷いた。「平和な景色だ」


しかし、その平和は長くは続かなかった。寮に向かう途中、俺は急に背後に視線を感じた。振り返っても誰も見えないが、確かに見られている感覚がある。


「どうしたの?」エリナが俺の様子に気づいた。


「誰かに見られている気がする」俺は小声で答えた。


エリナは自然に髪をかきあげるふりをして、周囲を確認した。彼女の目が僅かに細まる。


「右側の建物の影…誰かいるわ」


確かに、教会棟の影に人影が見える。俺たちが気づいたと分かると、その影は素早く動いて消えた。


「追いかける?」俺は尋ねた。


「危険よ」エリナは冷静に判断した。「罠かもしれない。それより、寮まで一緒に行きましょう」


二人は互いを警戒しながら歩いた。途中、何度か後ろから足音を感じたが、振り返るとすぐに消える。まるで猫と鼠のゲームだ。


エリナの寮に着くと、彼女は心配そうに言った。


「あなたも今夜はこの寮の客室に泊まったら?男子寮まで一人で戻るのは危険よ」


「大丈夫だ」俺は彼女を安心させようとした。「俺には火精霊との契約がある。危険な時は呼び出せる」


実際、左手の痣を通じて火精霊イグニティウスと結んだ契約は、緊急時の保険になる。


「それでも…」


「心配しないで」俺は微笑んだ。「それに、もし誰かが俺を尾行しているなら、その正体を知りたい」


エリナはまだ不安そうだったが、最終的には頷いた。


「でも、何かあったらすぐに連絡して。これを持って」


彼女は小さな青い結晶を俺に手渡した。


「通信用の魔力結晶よ。割れば、私のところに信号が届くわ」


「ありがとう」俺は結晶をポケットに入れた。


エリナの寮を後にした俺は、男子寮への最短ルートではなく、あえて中庭を通る遠回りの道を選んだ。もし誰かが追跡しているなら、姿を現す可能性が高い。


予想通り、中庭に入るとすぐに足音が聞こえてきた。今度は隠れる気配はない。


「誰だ?」俺は振り返って声を上げた。


足音は止まった。月明かりの中、木々の影から二つの人影が現れた。学院の制服を着た学生だ。よく見ると、ヴィクターの取り巻きの一人、カレンとその仲間だった。


「よう、グレイソン」カレンが不敵に笑った。「こんな夜更けにどこへ行くんだ?」


「それはこっちの台詞だ」俺は冷静に返した。「なぜ俺を尾行している?」


「尾行なんてしてないよ」カレンは明らかな嘘をついた。「たまたま同じ方向だっただけさ」


「そうか」俺は彼らの目を見つめた。「じゃあ、俺は行くよ」


振り返ろうとすると、カレンが俺の肩を掴んだ。


「ちょっと待て。話がある」


「どんな話だ?」俺は彼の手を振り払った。


「お前と図書館の女、何を研究している?」カレンの声はより威嚇的になった。「毎日第三書庫に籠もって」


そういうことか。ヴィクターの指示で監視していたのだろう。


「学院の課題だよ」俺は平静を装った。「何か問題でも?」


「嘘をつくな」カレンの仲間が前に出た。「お前、急に魔法が使えるようになった。何か裏があるだろ」


二人は俺を取り囲むように立っていた。単なる脅しか、それとも本気で襲うつもりか。いずれにせよ、このままでは危険だ。


左手の痣がわずかに熱を持ち始めた。いざとなれば古代魔法を使う準備はできている。しかし、それは最後の手段だ。学院内で魔法による争いは重大な違反となる。


「俺に用がないなら、行かせてもらうぞ」


「いや、まだだ」カレンが俺の前に立ちはだかった。「ヴィクターさんが知りたがっている。お前の秘密を教えろ」


「秘密なんてないよ」俺は肩をすくめた。「ただ勉強を頑張っただけだ」


「そうはいかない」カレンが拳を握りしめた。「力ずくでも聞き出す」


状況は悪化していた。彼らは本気で俺を脅している。魔法は使いたくないが、自衛は必要だ。


その時、背後から声が聞こえた。


「何をしている?」


振り返ると、シルヴィアが立っていた。銀白色の髪が月明かりに照らされ、幻想的な雰囲気を醸し出している。


「シ、シルヴィアさん!」カレンは明らかに動揺した。


「ヴィクターの使いならいいところで来た」彼の仲間が言った。「このグレイソンから情報を…」


「私がヴィクターに命じたとでも?」シルヴィアの声は凍えるように冷たかった。「おこがましいわね」


彼女は優雅に数歩前進し、二人の間に割って入った。


「カレン、あなたたちの行為は学院規則違反よ。夜間の威嚇、集団での嫌がらせ…報告したら最低でも停学ね」


「でも、ヴィクターさんが…」カレンは弱々しく抗議した。


「ヴィクターの名前を勝手に使わないで」シルヴィアの紫紺の瞳が鋭く光った。「彼がこんな下劣な手段を使うと思ってるの?」


二人の学生は互いに不安げな視線を交わした。


「もう行きなさい」シルヴィアは命令した。「この件は黙っておくわ。でも二度とこんなことをしたら…」


彼女は言葉を途切れさせたが、その沈黙には明確な脅しが込められていた。


「す、すみませんでした!」


カレンたちは慌てて中庭から走り去った。彼らの足音が遠ざかると、シルヴィアはため息をついた。


「大丈夫?」彼女は俺に向き直った。


「ああ」俺は頷いた。「助かった。でも、なぜここに?」


「偶然よ」彼女は言ったが、その目は何か別のことを示唆していた。「夜の散歩が好きなの」


「偶然には見えないな」俺は率直に言った。「俺を見ていたのか?」


シルヴィアは一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに取り繕った。


「鋭いわね」彼女は少し微笑んだ。「そうよ。エリナと別れた後、誰かがあなたを尾行しているのに気づいたの。心配になって」


「なぜ彼らを止めた?」俺は慎重に尋ねた。「ヴィクターの側につくべきじゃないのか?」


「何度も言ったでしょう」彼女は少しいらだったように言った。「私とヴィクターは政略結婚の関係。彼の行動すべてに同意しているわけじゃないわ」


彼女の言葉は誠実に聞こえたが、内心では警戒心を解くことはできなかった。


「それより」彼女は話題を変えた。「あの二人、何を知りたがっていたの?」


「俺と『エリナの女』が何を研究しているか知りたかったらしい」俺は事実を伝えた。「俺の魔法力の上達の秘密を探っているんだと思う」


「ヴィクターのプライドが傷ついているのね」シルヴィアは哀れむように言った。「彼は学院首席の座を脅かされることに慣れていないわ」


「俺は彼の座を奪うつもりはない」俺は正直に言った。「ただ自分の道を進みたいだけだ」


「でも結果として、あなたは彼の敵になってしまった」シルヴィアの声は柔らかくなった。「気をつけて。ヴィクターは見かけによらず執念深いから」


「分かってる」俺は頷いた。「君も大丈夫か?俺と話しているところを見られたら…」


「心配しないで」彼女は自信たっぷりに言った。「私はちゃんと説明できるわ。『学院の模範生として問題を仲裁した』でいいもの」


彼女の機転の良さは感心するべきか、警戒すべきか迷うところだ。


「さて」彼女は周囲を見回した。「もう遅いし、それぞれの寮に戻りましょう。次回の会合まで、これまで通り普段は接触しないほうがいいわね」


「ああ」俺は同意した。「その方が安全だ」


別れ際、シルヴィアはためらいがちに言った。


「あの…古代魔法について、もっと知りたいの。次回の会合で、私に基礎を教えてくれる?」


「約束したとおりにする」俺は頷いた。「ただし、理論だけだ」


「ありがとう」彼女は満足そうに微笑んだ。「それじゃ、おやすみなさい」


シルヴィアは優雅に立ち去った。彼女の銀髪が月明かりに照らされ、幽霊のように見える。


男子寮に戻る途中、俺は今夜の出来事について考えていた。カレンたちの尾行、シルヴィアの「偶然の」出現と救出。すべてが計算されたシナリオのようにも思える。


寮の自室に入ると、窓から夜空を見上げた。無数の星が輝いている。その中のどれかが、俺の運命を導いているのだろうか?


「何が真実なんだ…」


エリナへの連絡は明日にしよう。今夜は十分な休息が必要だ。枕に頭をつけると、すぐに意識が遠のいていった。


---


夢の中で、俺は見知らぬ古代都市の上空を飛んでいた。七つの塔を持つ美しい都市。中央には青く輝く巨大な湖がある。「星の都アストラリス」。かつて栄えた魔法文明の中心地だ。


都市の中心部に降り立つと、白い石造りの神殿があった。中に入ると、星型の大きな魔法陣が床に刻まれている。その中心に立つと、俺の左手の痣が輝き始めた。


「星の継承者よ、汝の使命を知れ」


声は聞こえるが、話者は見えない。古代語だが、完璧に理解できる。


「何の使命だ?」俺は問いかけた。


「古き力を守り、新たなる調和を生み出すこと」声が答える。「闇の翼は再び広がり、星の力を求める。汝、警戒せよ」


「どうすればいい?」


「内なる星を信じよ。そして…友を選びなさい。全てを信じるは愚かなれど、誰も信じぬは更に愚かなり」


魔法陣が明るく輝き、俺は目が眩んで…


目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。朝日が窓から差し込み、新しい一日の始まりを告げている。


夢は鮮明に覚えていた。単なる夢なのか、それとも何か意味があるのか?魔法陣、星の都、そして警告の言葉…


「友を選びなさい」


シルヴィアは本当に信頼できる味方なのか?それとも密かに敵なのか?


朝食を取りながら、俺はこの問いについて考え続けた。信頼という魔法は、最も強力で、同時に最も脆いものなのかもしれない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る