## 【禁書架の誘惑】俺にだけ語りかける古の書物
「面白い発見をしたようだね、グレイソン君」
振り返ると、オルドリッチ館長が無音で部屋に戻ってきていた。老人の眼鏡の奥の瞳が、俺の手にある古書に注がれている。
「館長、これは…」俺は本を示した。「書架から落ちていたのですが、不思議なことに読めるんです。古代語なのに」
館長の表情に、一瞬だけ驚きの色が走った。それからすぐに穏やかな微笑みに戻り、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「ふむ、見せてごらん」
俺が本を差し出すと、館長は慎重にそれを受け取った。ページをめくりながら、時折小さく頷いている。
「これは…『星継の書』だ」館長は静かに言った。「最も古い時代の魔法書の一つで、古代アストラリス文明の貴重な遺産だ」
「星継の書…」
「通常、この言語を読める者はほとんどいない。マーカス教授でさえ、断片的にしか解読できていない」館長は意味深な目で俺を見た。「君に読めるというのは、非常に興味深い現象だ」
「なぜ読めるのか、自分でも分かりません」俺は正直に答えた。「でも、意味が自然と頭に浮かんでくるんです」
館長は考え込むような表情をした後、決断したように言った。
「グレイソン君、特別に許可を出そう。この本を研究に使っていいよ。ただし、図書館から持ち出すことはできない。第三書庫の利用許可も出しておこう」
「本当ですか!?」俺は思わず声を上げた。こんな貴重な機会を得られるとは思っていなかった。
「ただし、条件がある」館長の声は厳かになった。「この本の存在と、君が読めることは秘密にすること。そして、本の内容を実践する場合は必ず私に報告すること」
「分かりました」俺は頷いた。「約束します」
「では」館長は「星継の書」を俺に返した。「君の研究に役立ててほしい。特に、最近の実技試験のことは聞いている。この本が何かのヒントになるかもしれないね」
館長の言葉に、俺は一縷の望みを感じた。もしかしたら、この本が俺の魔法が使えない理由と、その解決策を教えてくれるかもしれない。
「ありがとうございます、館長。大切に扱います」
「さあ、もう遅い時間だ。今日はここまでにしよう。明日からは、閉館時間まで第三書庫を使っていいよ」
俺は丁寧にお礼を言い、図書館を出た。胸の中で希望が芽生えていた。初めて見つけた、可能性の光。
---
数日後、俺は毎日の授業が終わると図書館に籠もり、「星継の書」を読み進めていた。実技の授業でもゼイガー教授の嘲りに耐えながら、この本から得た知識を少しずつ試していた。
「古代魔法は意思と感情が鍵…か」
俺は第三書庫の隅に設けられた小さな実験スペースで呟いた。館長の計らいで、ここでなら簡単な魔法の実験が許されている。
これまでの研究で分かったことがある。現代魔法は魔力を外部から取り込み、詠唱と魔法陣で形を与える。一方、古代魔法は術者の内なる魔力と外界の魔力を共鳴させ、意思と感情で形を与える。根本的に異なるアプローチだ。
「俺の問題は…」俺は思考を整理した。「現代魔法のフレームワークでは、俺の魔力が正しく機能しないということか」
もしかしたら、俺の体内の魔法回路は現代魔法とは相性が悪いのかもしれない。だとしたら、古代魔法なら…?
「試してみるか」
俺は「星継の書」に記された最も基本的な魔法に挑戦することにした。光を生み出す単純な魔法だ。現代魔法の光生成術に相当するものだが、アプローチが全く違う。
本を開き、そこに記された古代語を心の中で読み上げる。
『*エスタリス・ルミノーサ*』(星よ、光あれ)
俺は右手を上げ、掌を天井に向けた。目を閉じ、内なる魔力を感じ取ろうとする。そして、この場の魔力と共鳴させようと意識を集中させた。
「マナの流れを感じろ…感情をマナに乗せろ…」
本に書かれた通り、俺は光への憧れ、闇を払う希望、明るさへの願いを心に描く。すると—
かすかに、だが確かに、手のひらが温かくなった。
「できるのか…?」
目を開けると、手のひらの上に小さな光の粒が浮かんでいた。拳一つ分ほどの大きさだが、確かに光っている。魔法の光だ。
「やった…」俺は震える声で呟いた。「俺にも、できたんだ…」
小さな成功だが、これまで一度も成功したことのなかった魔法だ。光は数十秒で消えてしまったが、確かに俺は魔法を使ったのだ。
興奮のあまり、俺は書庫内を走り回りたい気分だった。しかし、すぐに冷静さを取り戻す。これはまだ始まりに過ぎない。二週間後の実技試験で最低でもD評価を取るには、もっと安定した魔法の使い手にならなければならない。
「もっと練習が必要だ」
その日から、俺は放課後のすべての時間を第三書庫での研究と練習に費やした。「星継の書」を読み進めるほどに、古代魔法の奥深さと、現代魔法との根本的な違いが分かってきた。
さらに不思議なことに、練習を重ねるほど、本の内容がより鮮明に理解できるようになる。最初は単に読めただけだが、今では細かいニュアンスまで感じ取れるようになっていた。
ある晩、深夜まで図書館に残って研究していると、俺は本の中の特に興味深い一節を発見した。
『星の継承者は、古の魔法の血を引く者なり。内なる星の力を目覚めさせよ』
その下には、複雑な星形の図形と、詳細な魔法の手順が記されていた。「内なる星の力」を覚醒させるための儀式らしい。
「これは…」俺は息を呑んだ。「試してみる価値があるかも」
しかし、時計を見ると、もう午前1時を回っていた。明日は早朝から魔法史の授業がある。今夜はここまでにすべきだろう。
「明日、この儀式について館長に相談してみよう」
俺は「星継の書」を慎重に元の場所に戻し、第三書庫を出た。館長は特別に深夜まで滞在することを許可してくれていたが、さすがにこれ以上は迷惑をかけられない。
廊下を歩いていると、誰かの気配を感じた。こんな時間に?俺は立ち止まり、周囲を見回した。
「誰かいるの?」
返事はない。しかし、確かに何かの気配がした。気のせいだろうか?それとも…
「…監視されている?」
そんな考えが頭をよぎった。最近、自分が古代魔法を研究している事実は、何人かの学生に気づかれているはずだ。特に、ヴィクターの目は鋭い。
「気にしすぎだ」俺は頭を振った。「今は休んで、明日に備えよう」
寮に戻る道すがら、俺は空を見上げた。満天の星空が広がっていた。一瞬、星々が俺に語りかけているような錯覚を覚える。
「星の継承者…か」
その言葉の意味を考えながら、俺は寮への道を急いだ。
---
翌日、俺は図書館に向かう前に、一度自分の部屋に戻った。「星継の書」に記された儀式に必要なものを準備するためだ。
本によれば、「内なる星の力」を覚醒させるには、静かな場所で、満月の光を浴びながら特定の詠唱を行う必要がある。そして術者の血を一滴、特殊な図形の中心に落とす。
「血?」
それはやや不安な要素だったが、古代魔法では血が魔力の触媒として重要だというのは、魔法史の授業でも習ったことだ。現代魔法では禁止されている手法だが…
「でも、たった一滴なら大丈夫だろう」
俺は小さなナイフと、儀式に必要なチョークを用意した。幸い、今夜は満月だ。第三書庫の窓から月光を取り込めば、儀式の条件は整う。
授業が全て終わり、夕食も済ませた後、俺は図書館に向かった。オルドリッチ館長に儀式のことを相談するつもりだったが、カウンターには館長の姿がなかった。代わりに若い女性の図書館員がいた。
「館長はどこですか?」俺が尋ねると、彼女は申し訳なさそうに答えた。
「オルドリッチ館長は今日、緊急の用事で外出されています。何か伝言を承りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとう」
これは困った。儀式について相談できない。しかし、時間は限られている。実技試験まであと10日しかない。
「よし、自己責任で」
俺は決心し、第三書庫へと向かった。許可は出ているので、問題なく入室できた。書庫に入ると、すぐに「星継の書」を取り出し、儀式の詳細を再確認した。
窓際のスペースを片付け、チョークで床に星形の図形を描く。五芒星の各頂点には、古代文字で「火」「水」「風」「地」「霊」と記す。中心には「星」の文字。
「これでいいはず…」
俺は満月が窓から見える位置に図形を配置した。時計を見ると、午後9時。図書館の閉館時間だが、俺には特別許可がある。
深呼吸をして、準備が整ったことを確認する。ナイフを取り出し、かすかに震える手で指先を軽く切った。小さな痛みとともに、一滴の血が図形の中心に落ちる。
そして、「星継の書」に記された古代語の詠唱を始めた。
『*エスタリス・ノクタム・イルミナレ。ステラ・アンティクァ・レスルゲレ。サングイス・メウス・ポンテム・クレアーレ。*』
(夜の星々よ、光を放て。古の星よ、蘇れ。我が血は橋となる。)
声に出さずとも、心の中で唱えるだけで十分だった。詠唱を繰り返すうちに、図形がかすかに光り始めた。月の光が増幅されているようだ。
「これは…」
突然、激しい眩暈に襲われた。部屋が回転し始め、星形の図形が俺の視界で踊っている。そして—
「うっ…!」
左手の掌に鋭い痛みが走った。見ると、そこには青い光を放つ小さな結晶状の痣が浮かび上がっていた。星型に似た形だ。
さらに不思議なことに、部屋の空気が変わったように感じた。より濃密で、魔力に満ちている。今まで感じたことのない感覚だ。
「これが…古代魔法の力?」
痛みはすぐに引いたが、左掌の痣は消えなかった。むしろ、青い光が脈動しているように見える。
試しに、先日練習した光魔法を唱えてみた。
『*エスタリス・ルミノーサ*』
すると、前回よりはるかに大きな光球が掌の上に現れた。部屋全体を照らすほどの明るさだ。
「すごい…!」
興奮のあまり、俺は集中力を失い、光球は消えた。しかし、確かな手応えがあった。魔法が、俺の意思に応じて働いたのだ。
「これで…俺も…」
喜びに震える中、背後で物音がした。急いで振り返ると、書架の陰から一人の少女が現れた。
「すごい魔法…あなた、一体何者?」
栗色の髪に緑色の瞳を持つ少女。図書館委員のバッジを付けた制服を着ている。確か…
「エリナ・ブライト?」
彼女は同学年の学生で、図書委員をしている優等生だ。成績優秀で、特に古代文明研究に詳しいという評判を聞いたことがある。
「そうよ」彼女はゆっくりと近づいてきた。「あなたが最近、第三書庫に入り浸っているって噂は聞いてたけど…今のは古代魔法だったわよね?」
彼女の目は好奇心に輝いている。恐れや警戒ではなく、純粋な学術的興味だ。
「ど、どうして君がここに?」俺は動揺を隠せなかった。「第三書庫は特別許可がないと…」
「私も許可を持っているの」エリナは当然のように答えた。「古代文明研究のためにね。今日は遅くまで資料を調べていたら、変わった魔力の波動を感じたの」
彼女の視線が、俺の左手の痣に向けられた。
「その痣…そして、あの本」彼女は「星継の書」に気づいたようだ。「古代魔法の実践を?しかも成功してる?」
「君には黙っていてほしい」俺は真剣に頼んだ。「これが知られたら、俺は…」
エリナは少し考え、それから微笑んだ。
「分かったわ。でも条件があるの」
「条件?」
「私をその研究に参加させて」彼女の瞳が輝いた。「古代魔法の実践例を観察できるなんて、研究者としては垂涎の機会よ!」
俺は躊躇した。誰かに知られるリスクと、彼女の知識が助けになる可能性を天秤にかける。
「君は…俺を告発しないんだね?」
「もちろん」エリナは真剣な表情で答えた。「私は研究者よ。知識の探求が第一。それに…」
彼女は少し言葉を選ぶようにして続けた。
「古代魔法に関する限り、学院の規則は時に過度に制限的だと思うの。理解するためには、実践も必要でしょう?」
彼女の言葉には説得力があった。それに、実際のところ研究のパートナーがいれば心強い。特に彼女は古代文明研究の専門家だ。
「分かった」俺は決心した。「一緒に研究しよう。ただし、オルドリッチ館長にも内緒だ」
「約束するわ」彼女は嬉しそうに微笑んだ。「それで、その本は何?どうやってあなたはそれを読めるの?」
「『星継の書』だ」俺は本を手に取った。「なぜか俺には古代語が読めるんだ。理由は分からない」
「信じられないわ」エリナの目が広がった。「私は古代語を何年も研究してるのに、まだ断片的にしか読めないのに…」
彼女は興味深そうに本を覗き込んだ。
「今やった儀式について教えて」
俺は儀式の内容と、その結果生じた変化について説明した。エリナは熱心にメモを取り、時折質問を挟む。彼女の知識は確かに深い。古代魔法についての質問は鋭く、俺自身が気づかなかった点も指摘してくれた。
「つまり、あなたの体内の魔法回路は、現代魔法とは相性が悪いけど、古代魔法とは相性が良いってこと?」エリナが整理した。
「そう思う」俺は頷いた。「理論的には理解できても、実践できなかったのはそのせいかもしれない」
「それで実技試験は?あなた、落第の危機だって聞いたけど」
「二週間後だ」俺は真剣な表情で言った。「最低でもD評価を取らないと退学になる」
エリナは考え込む様子を見せた後、決意に満ちた表情になった。
「協力するわ」彼女は力強く言った。「あなたの古代魔法の才能は貴重よ。それを失わせるわけにはいかない」
「ありがとう」心からの感謝を伝えた。
「でも注意が必要ね」エリナの声は真剣だった。「試験では現代魔法の形式で評価される。古代魔法をそのまま使うと、違反とみなされるかも」
「そうだな…」
「だから、古代魔法の力を使いつつ、見た目は現代魔法に見せる方法を考えないと」
彼女の提案は的確だった。確かに、試験官に古代魔法だと気づかれては意味がない。魔法禁制に抵触する可能性もある。
「分かった。現代魔法のフレームワークに古代魔法をどう適合させるか、研究しよう」
二人はその晩、図書館が完全に閉まるまでの数時間、さらに議論を続けた。古代魔法と現代魔法の接点、試験対策、秘密の保持方法などについて。
エリナは自分のノートを見せてくれた。古代文明研究の成果だ。彼女の知識は、俺の直感的な古代語理解を補完する。彼女の論理的思考と俺の直感的把握、互いに足りない部分を補い合える関係だ。
「明日からは一緒に研究しましょう」別れ際、彼女は提案した。「放課後にここで待ち合わせるわ」
「ああ、助かる」
エリナと別れ、寮への帰り道、俺は左手の痣を見つめた。青い光は落ち着き、普段は目立たなくなっていたが、魔法を使おうとすると再び光り始める。
「これが俺の本当の力…」
星空を見上げると、星々が今までより鮮明に、そして親しみを持って輝いているように感じた。
「俺は…やれるんだ」
初めて、本当の意味で希望を感じた夜だった。
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