第五話 本気(二)


「ここ、って」


 舞台に上がると、開いた状態の冊子を手渡された。台詞が沢山書いてあるのを見るに、さっき稽古で使っていた台本らしい。園さんは微笑みながら、その中の一行を指差す。


「ここ」


「え……」


「ちょっと園さん!それはさすがにいきなりすぎませんか」


 硬直した私を見て、茉矢さんが慌てた様子でこちらに駆け寄ってきた。

 しかし当の園さんは茉矢さんを見てぽかんとするだけで、なぜ止められたのかさっぱりわかっていない様子だった。


「え、演技するだけ……」


「いや、『だけ』って……。今日来たばっかの子にいきなり初見の台本で演技しろなんて、いくらなんでも無茶ですって!」


「そ、そうかなあ」


 あはは……と園さんはいつものように笑った。


「ごめんね琴理ちゃん、急に無理言って」


「あ、いや、全然……」


「でも、演って」


「え?」

「は?」


 私と茉矢さんの声が重なる。


「えっ。園さん、私の話聞いてました?今日来たばっかの子にいきなりなんて……」


「いいから」


 にっこりと笑っているのにも拘らず、ただならぬ圧を感じる。いつもの弱々しさは何処へ消えたんだ。


「は、はい……」


 なんなんだこの人。


「台本見ながらで大丈夫だから、客席のほう向いてやってみて」


 私は園さんの言葉を受けて、ぎこちなく観客席のほうへ向き直る。真っ赤な椅子たちがまるで観客のように目に映った。遠い天井、無数の照明。

 私は今、舞台の上に立っているんだ。

 この席にたくさんの人が座ることを想像して、思わず背筋が伸びた。


『わ、私は……』


 誰もいない赤い世界に、私は言葉を投げ入れていく。


『ずっと、夢って叶わないものなんだって思ってた。小さい頃の自分が無邪気に願った未来なんて、大人の私にはもうとっくに忘れられてるんだろうなって、思ってた』


 はじめは緊張で震えていた声が、まっすぐ出せるようになってくる。


 だんだん、気分が高揚してきた。


 恥ずかしさなんて微塵も感じない。寧ろ、一つ一つの言葉に感情を乗せることがこんなにも楽しいのかと驚いた。


 一気に身軽になった気分だった。普段の私なら絶対に、こんなに生き生きと話せない。


『だけど、周りの人がどんどん夢を叶えてるのを見て思った。私の考えは、間違ってたんだって』


 この人は、どんな人なんだろうか。年齢、職業、外見、性格。そのすべてを想像して、なりきってみる。


『だから私、頑張ってみようと思う。今からでも昔の自分の夢を叶えてみる。それが、子供の頃の私にしてあげられる唯一のことだから』



 台詞せりふを読み終わって振り向くと、園さんと茉矢さんの茫然とした表情が見えた。 


「あ、えっと、これで大丈夫でしたか……?」


「あ、うん……」


 思ったより反応が薄い。私の演技、どこか変なところあったかな……。もしかして、読む台詞間違えちゃった?


「琴理ちゃん、演技未経験なんだよね……?」


 園さんからの問いかけに、私は頷く。


「あの、琴理ちゃん。僕本当はこういうことあまり言いたくないし、簡単に言っちゃいけないってわかってるんだけど……」


「え」


 不穏な前置きに思わず顔が強張る。しかし、続けて園さんの口から出たのは、不穏さとは無縁の怒涛の褒め言葉たちだった。


「て、天才だよ!!僕の無茶振りに答えてくれて、それにあんなに上手くできちゃうなんて信じられない。え、本当に演技未経験なんだよね!?あ、あまりの才能に失神しそうなんだけど、ね、茉矢ちゃんもそう思うよね!?この子大天才だよね!!発声とかの基礎を磨けばもっと上手くなるはずだよ!」


 もはや大袈裟すぎるくらいに褒め倒されてもお世辞だと思わなかったのは、私自身も手応えを感じていたからだ。


「え、えへへ……」


 突然、園さんが姿勢を正して私のほうを見て、そして言った。


「琴理ちゃん……いや、日隈琴理さん!うちの劇団に入ってください。ぜひ!」


「え……」


「私からも、お願いします!!!」


 さらには隣の茉矢さんに頭まで下げられてしまった。


 人に、こんなにキラキラした目で見られたのは初めてだった。思わず舞い上がりそうになるほど嬉しい。


 でも。


 返答は、もう決めていた。


「あ……あの、褒めていただけたのはすごく嬉しいんですけど、劇団には入れません」


「えっ……いや、さっきのは本当にお世辞とかじゃなくて」


 私はかぶりを振る。


「今日は、体験だけやって気が済んだら帰るって決めてたんです。演劇は、やらないって。たしかに、演技をすることは楽しかった。でも、私はそれを『本気』でやれる自信がない」


「本気……?」


 園さんたちの困惑した表情が目に映る。私はすぐに目を逸らし、そのまま言葉を続けた。


「こ、怖いんです。もし本気でやっても、その頑張りが報われなかったらどうしよう、って」


「琴理ちゃん……」


「本気でやらなかったら、失敗したときに『本気を出さなかったから』って言い訳ができるんです。でも、本気で取り組んじゃったら……自分の才能や実力の無さに真っ正面から向き合わなくちゃいけなくなる。それが怖いんです。そのせいで、せっかく楽しいって、好きだって思えた演劇のことが、嫌いになってしまうかもしれない。そんなの、いやだ」


 自分はなんて弱い人間なんだろう。言いながらそう思った。園さんにも茉矢さんにもきっと軽蔑されている。直さなきゃいけないってわかっているのに。こういう自分のネガティブで弱いところが、大嫌いなはずなのに。


「じゃあ……」


 園さんの声は驚くほど落ち着いていた。


「琴理ちゃんは、これからの人生でいつ本気になるの?」


 彼の言葉が、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。


「それ、は……」


 狼狽える私を見て園さんは優しく、しかし凛々しい声で続けた。


「琴理ちゃん。自分の心に嘘をついちゃ駄目だ。舞台を下りたんだから、もう演技しなくてもいいんだよ。君は、本当はどうしたい?」


 私は。

 自分の心に、嘘ついてなんか……


 本当に?


 私の中の私が問いかける。


 本当に全部、それでよかったの?


 人と話すのは苦手。

 でも、本当はもっとたくさんのことをたくさんの人と話してみたい。


 演劇部はあのままでいい。

 でも、私はあの時、悲しげな表情をした白沢先輩になんて言いたかった?


 劇団には入らない。

 でも、舞台に立って演技をしたときのあの感覚を、また確かめてみたい。


 本気になるのは怖い。

 でも、本気で頑張った先にある景色を見ることのないまま、一生を終えたくはない。


 私は、本当は……


「本当は、演技がやりたいです」


 園さんの目を真っ直ぐに見つめて言葉を放つ。


「やっと、本当の言葉が聞けた」


 園さんは満足そうに言った。


「じゃあ改めて……琴理ちゃん、劇団『雨のち晴れ』にようこそ。これから一緒に頑張っていこうね!」


「はい!」


 こんなに清々しい気持ちになったの、いつぶりだろう。


 なんの後ろめたさも感じない。きっと、自分の心に正直になったからだ。


 私の未来が、光り出している。

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