第33話 「やっぱり、あたしを見張りに来ていたのね」
「向島の桜が三分咲きになりましたよ」
そう言う母親の話を聴きながら、恒一郎が遅い朝飯を食べているところへ使いが来た。昨夜、嘉吉らしい男が竹屋の渡しを渡るのを見たという知らせと、その後の足取りは定かではないが、町方は取り敢えずおみねの処へ出張っているとのことだった。
嘉吉こと寺崎源之進が姿を現したと言うことは、探索に一応の決着が付いたと言うことだった。
恒一郎は聖天裏に在るおみねの長屋へ向かって、彼女の対応を見定める為に、直ぐに家を跳び出した。来るべき日が来た、という思いが恒一郎の胸を掠めた。
長屋の前には町方が張り番をしていた。
軒に立つと上手い具合に格子窓から家の中が見通せた。女ひとりの住居らしくきちんと片付いていて自堕落な気配はない。おみねは粗末な木綿物を着て化粧っ気のない素顔だった。店へ出ている時とは別人のように若くきりっとして、町方同心の問いにはきはきと答えていた。
「もし、嘉吉が訪ねて来たら必ず自首させるんだぞ」
同心が懇々と説得していた。
突然、路地の奥で赤ん坊の泣き声が起こった。
時が時だけに同心がさっと表に出て来て辺りを見た。続いておみねの顔が覗いた。
恒一郎とおみねの視線がぶつかった。
おみねの顔から血の気が引いた。
「やっぱり!・・・」
おみねの唇がわなわなと震えた。
「やっぱり、お役人だったのね、あんた・・・」
最早、どう仕様も無かった。
恒一郎はゆっくりおみねに近づいて行った。
「あたしを見張りに来ていたのね・・・」
おみねの眼が火を噴きそうになった。
「違うんだ!・・・俺は・・・」
恒一郎は後の言葉を吞み込んだ。役目柄、言ってはならないことであった。
声にならない叫びを挙げておみねが泣き出した。身体を柱に叩きつけて激しく慟哭した。
「おみね・・・」
肩にかけた恒一郎の手をおみねは振り払った。
「誰が・・・誰が、あんた達の言うことなんか聞くもんですか・・・嘉吉が訪ねて来たら自首させろ?・・・冗談じゃない。自首したらあの人はどうなるんです?無罪にでもなるって言うんですか?あの人はあたしに惚れているから、捕まればお仕置きされるって解っていて江戸へ帰って来たんですよ。あの人はあたしを棄てなかった。あの人は真実に命懸けで帰って来たんだ・・・誰が、あの人を訴人するもんですか・・・殺されたって、磔にされたって、あたしはあの人を裏切らない・・・惚れたら、女はいつだって命懸けなんだよ!この大馬鹿野郎・・・」
聖天長屋や「ゆめ半」は無論のこと、嘉吉の立ち回りそうな場所には八丁堀の指図で岡っ引きが張り込んだ、が、嘉吉の足取りは町方には杳として掴めなかった。
おみねは変わり無く店へ通って大酒を飲み、酔っ払って悪たれていた。
恒一郎が「ゆめ半」へ訪れた時、おみねは店に居なかった。酔っ払って裏の川縁で風に吹かれていると言う。
恒一郎は裏へ廻った。
土手にしょんぼりと腰を下ろしている女の姿が小さかった。近づいてもおみねは振り向こうともしなかった。夕暮れの光の中でおみねの顔が酷く荒んで見えた。恒一郎はおみねの背後に腰を下ろした。
「お前ぇには言いたいことも、言えないこともいっぱい有るんだ。だが、これだけは聞いてくれ。俺はお前ぇの心を弄んだことは決して無い。お前ぇと向き合っている時は、俺はいつも真実だった。いつも真剣にお前ぇと付き合って来た心算だ」
土手の上を風が通り抜けた。
「俺は、真実に、お前ぇを連れて花見に行こうと思っていた。旨い弁当を持って、酒をぶら下げて・・・お前ぇの喜ぶことなら、俺に出来ることなら、何でもしてやりたいと考えていたんだ」
「出来ることなら何でも、ですって?」
不意におみねが顔を捻じ曲げた。
「だったら、旦那、あたしをおかみさんにしてくれますか?」
眼の中で嘲笑っていた。
「出来やしないでしょう、れっきとしたお侍さんが淫売女なんかを奥方に出来るもんですか」
くるりと顔を背け、背中で叫んだ。
「巧いことを言うのは止めておくれよ!あたしに大事なのは、たった一人、真実惚れ合った男だけなのさ」
泣いているおみねの後姿に眼を留めて、やがて、恒一郎は立ち上がった。と同時に、何時もと感じの違うおみねの髪型にはっと気付いて、息を呑んだ。
緑色の錺簪が無い!・・・
恒一郎は直感した。
売ったのだ・・・おみねは嘉吉と逢い、江戸を逃げる旅支度の為に路銀を用意したのだ・・・
町方の厳しい追及に「ゆめ半」の女の一人が口を割った。
「嘉吉さんは三日間、うちの二階の押入れに隠れていました」
「嘉吉がこの店を出たのはいつだ?」
「五日前です。張り込んでいた親分衆が大川へ総出で駆け付けて行った後、直ぐに・・・」
「おみねも一緒に出たのか?」
「いいえ、一緒だと目立つから、後日、何処かで落ち合うんだ、と言って・・・」
落ち合う場所は知らない、と女たちは口を揃えて言った。
恒一郎が覗くと、聖天長屋のおみねの家は綺麗に片づけられていた。
神棚に一枚の紙片が載っていた。おみねの手紙だった。宛名は無かったが、それが自分宛だと言うことは恒一郎には直ぐに判った。
「あたしはあの人を信じます。信じたからおっ母さんの形見の簪を売って路銀を作りました。一緒に江戸を逃げると目立つので、落ち合う場所を決めて、別れ別れに行くことにしました。あの人はきっと来てくれる、あたしを棄てたりしない、そう信じてあたしはあの人を待つんです」
恒一郎はおみねの手紙を握り締めた。
嘉吉が江戸へ舞い戻って、「ゆめ半」の二階に隠れているとの繋ぎを受けた俺は、嘉吉が町方の手に落ちないように、偽りの情報を流して捕り方の眼を大川へ集中させ、彼を逃した。
おみねよ、俺はお前ぇを裏切ったりはしていねえぜ、俺は、役目としても人としても、お前ぇを庇っていたんだ。お前ぇは嘉吉を信じて匿い、一緒に逃げる為に形見の簪まで売った。良い女だぜ、お前ぇは・・・
嘉吉よ、否、源之進よ、お前ぇもおみねに惚れているから戻って来たんだろう。お庭番の屋敷に潜んで居りゃどうってことも無いものを、わざわざおみねに逢う為に危険を冒してまで姿を現した。おみねは嘉吉の素性を知らねえんだぜ。お庭番と言うのはれっきとした武士だ。いつまでもおみねがそれを知らずに過ごせる訳は無かろうぜ。お前ぇが真実、おみねを妻女にするのなら、彼女を俺の家の養女にして、そして、みっちり行儀作法を仕込んでからお前ぇの処へ嫁がせるぜ。叶うことなら生涯おみねを愛しんでやってくれ。あいつは、この世でたった一人、心底、お前ぇを信じているんだからな・・・
手紙からふと逸らした恒一郎の眼に、白い花が映った。夜の中で桜が固まって咲いていた。
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