第31話 つまらないね、生きるっていうことは・・・

 それから、おみねは生まれ持った美貌に磨きをかけて「初音」という大きな料理茶屋に住み替えた。

おみねにはもう、こうしたい、ああしよう、という前を向いた気持はなかった。

若い男も年老いた男も、所詮、男ってのはあんなもんさ・・・

おみねはまたその時々の感情のままに刹那的にその日その日を過ごした。唯、妙に何かに刃向う逆立つ憤怒だけが在った。おみねはその滾る憤怒の赴くままに生きた。

 或る日、おみねは、厠へ立った客を導いた店の手水場の前で、三十代半ばの背の高い男に出くわした。

「あらっ、若旦那、こんばんわ」

おみねは艶っぽい声で挨拶すると、男の眼をじっと見たまま、全身で精一杯の姿を作った。

男は、やあぁ、という顔付きで少し恥にかんだが、その眼は暫しおみねを凝視していた。

男は太物問屋の一人息子だった。今は未だ父親に就いて仕事を覚えている最中だが、その内に、いずれ将来は主の座に着くだろう。客を連れてしょっちゅう店にやって来て、おみねも二、三度その席に侍ったことがあった。

 翌日、客の乗った辻駕籠を見送ったおみねが店の方へ踵を返すと、丁度、昨日の若旦那が駕籠から降りて店へやって来るところだった。雨がしとしと降り続いていた。おみねは直ぐに男に傘を差しかけた。

「やあ・・・どうも、有難う・・・」

「丁度良かったわ。若旦那と相合傘だなんて、あたし幸せだわ」

おみねは濡れないように出来るだけ身体を寄せて歩いた。男が身体を少し固くするのが解った。

歩きながらおみねが訊ねた。

「でも、今日は、およしちゃんはお休みよ」

「ああ、それは良いんだ・・・」

およしと言うのは、いつも若旦那の席に侍っている馴染みの酌女だった。

店に入った男をおみねは奥の小さな座敷に案内し、素知らぬ振りで身体をくっつけて男の横に座った。

女将が挨拶で顔を出し、小女が酒と料理を運んで来て、二人だけの時間が流れ出した。

が、男はそれほど擦れてはいなかった。手さえ握ろうとしない。初心な男だ、とおみねは思った。おみねは横座りにぴったりと身体を寄せると、男の手を掴んで自分の胸元へ入れた。

「若旦那と注しで気分良く飲んだものだから、ほら、こんなに酔っ払って胸がドキドキしているわ」

男の手はおみねの胸の中で、一度ぴくりと引っ込められそうになったが、やがて恐る恐る乳房を掴んで来た。するままにさせながらおみねは黙って男の眼をじっと覗き込んだ。男も眼を逸らさずにおみねの眼を凝視した。乳房を握る手に力が籠もった。おみねには自信があった。もう半分手に入れたようなものだった。金に不自由しない新しい男が手に入るのだ・・・

おみねが甘え声で囁いた。

「およしちゃんには内緒よ、ね」


 一年後・・・

「無理しちゃ駄目、ね」

「初音」の開店前に入った夕暮れの小さな水茶屋で、おみねは男を説得した。男は、父親が病に倒れ商いが急速に細って、店を畳むことになったあの太物問屋の若旦那だった。

「そりゃ、あんたに逢えなくなるのは辛いけど・・・」

俯いてそう言ったおみねの目から涙が零れ落ちた。上手い具合にほろりと落ちた涙だった。勘どころで涙を零すなど造作も無いことだった、手馴れたものだった。

「あれこれ算段して苦労して集めたお金を使ってまで、来てくれなくて良いの。そんなあんたを見るのはとても辛いし、おかみさんや子供さんにも申し訳ないわ」

それとなく家のことを思い出させようとしたが、それは上手く通じなかったようで、男は暗い目でおみねをじっと見た。

「俺は真剣だった、遊びじゃなかったよ」

「勿論、あたしも、よ。唯の遊びなんかじゃなかった。お客と酌女の仲でも、あっ、この人だ!って思うことはあるのよ。あんたと初めて逢った時、胸がどきどきしたのを今でも覚えているわ」

「・・・・・」

「だから、あんたのことは大事にしたいの。商いも家も捨てさせるような野暮はしたくないの」

「・・・・・」

「また盛り返してお金が出来たら来て頂戴、ね。あたしは待っているから・・・」

「お前、俺に金が無くなったんで、態よく追っ払う心算じゃないのか?」

懐が寒くなった男は疑い深く言った。

「何を馬鹿なことを言っているの!」

おみねは鋭く言い返した後で、男の手をそっと握った。

こんな愁嘆場はこれまでに何度も踏んでいる、訳も無いことだった。

 男と別れた後、おみねは、上手く切れてくれると良いが、と思った。

金の無くなった男には、もう興味は無かった。そのことを解からずに帰って行った男の後姿が煩わしかった。男が初めておみねの前に姿を現した時には、男の店は繁盛していて覇振りが良かった。おみねがその金を貢がせつぎ込ませて吸い上げた。もう用の無い男だった。が、用の無い男でも別れ際が大事だった。金を使い果たして愛想尽かしを喰った男が逆上して刃物沙汰になったりしては面倒だった。後腐れ無くけりを付ける必要があった。

また金回りの良い男を探さなくっちゃ!・・・

この世界では、多少の無理を言っても気前良く金をつぎ込んでくれる馴染客を掴まえることが大事なのだ。やっと工面した僅かの金を持って駆け込んでくる男は、客とは言えない。金を持たない男に興味は無かった。好いた、惚れたということには、おみねは気を惹かれなかった。

 

 その夜の深更・・・

肌寒さに身震いしておみねは眼が覚めた。酔って帰って来てそのまま表の間で寝てしまったようだった。慌てて起き上がったが、当然ながら、部屋には誰も居なかった。男から搾り取った小金でおみねは聖天裏に長屋を一軒借りて独り住まっていた。「初音」は通い勤めになっていた。

奥の寝間に入って眠らなきゃあ・・・

おみねは立ち上がったが、その前に台所へ行った。少しふらついたが、頭が少々痛むだけで、気分はそんなに悪くは無かった。ただ、身体が重くて節々が痛かった。おみねは暗い台所で、水瓶から柄杓で水を掬って二口、三口飲んだ。喉を滑り落ちる冷たい水が、この上なく美味かった。

 おみねは表の間に戻った。もう何時なのか?・・・窓の外は闇だった。

それから、徐に寝間に入って行ったおみねは、鏡台に向かって、自分の顔を覗き込んだ。少し顔に浮腫みが来ていた。

つまらぬことをしちまったなぁ・・・

ぼんやりとそう思った。

これで別れた男は何人目になるのか?・・・

近頃はもう数えることもしなくなっていた。

突然、おみねは自己嫌悪に襲われた。

「しかし・・・」

おみねはふと、独り言を言った。

つまらないね、生きるっていうことは・・・妾になって、身体を売ってまでして、あんな嫌な思いまでして、生きる為に金を稼いで、それが何になると言うのだろう?・・・

おみねは空しさに胸が塞がる思いがした。

二十二歳か・・・・・

娘の盛りを過ぎた齢二十二の女がたった一人、取り残されたね、と思った。

誰も居ない淋しい道に、ぽつんと一人で立っている自分の姿が見えた。その姿は此方に背を向けて、途方に暮れているようである。

寂しさがひしと身体を締め付けて来て、おみねは自分の胸を強く抱き締めた。そうしないと心のすすり泣きが外に洩れてしまいそうだった。

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