第8話 お艶と絵師春良の出逢い

「あら、そこで何をしているんですか?」

お艶が、酒が回って火照った顔を少し覚まそうと、勝手口へ行くと、男が一人、小上がりに腰かけ背中を丸めて紙に筆を走らせていた。髷は結っておらず長い髪が肩の近くまで垂れ下がっていた。

「ああ、師匠が座敷に上がっているので、帰られるまで此処で待っているんだよ」

振り向きもせずに答えたのは、今売り出しの絵師、柳本春慶の弟子の春良だった。

お艶が覗き込むと、春良が描いていたのは女の絵姿だった。墨一色の下絵のようだったが、描かれている線は流麗で、絵には何処か気品が漂っているように見えた。お艶は、これに幾つかの色が付けられると美人画の錦絵になるのだろうか、と思った。ふと見ると、脇に銚子と小鉢が載った小さな盆が在った。既に飲食し終えた様子だった。お艶は黙って立つと調理場へ入って肴を適当に見繕い、銚子に熱い燗酒を入れて、また引き返した。

「此処に置いておくから、熱い内に飲むと良いよ」

えっ、と言う表情で初めて向き直った春良の眼は、其処に立つお艶の貌姿を凝視して張り付いた。春良はお艶の類い稀な美貌と妖艶な姿に暫し見惚れた。

「それじゃ、あたしはこれで・・・」

お艶が立ってからも春良が自分の後姿をじっと見詰めているのがわかった。

 

 慌しく日が過ぎてそんなことを忘れてしまった頃に、不意に、春良が店にやって来てお艶を名指しした。

「絵が売れて銭が出来たので、あんたに逢いに来た。その節は世話になったな」

そう言って春良は座敷に上がり込んだ。

「覚えていてくれたのね、嬉しいわ」

春良の隣に横座りになったお艶は、精一杯の笑顔と姿を作って酌をし始めた。

慣れた物腰と伝法な口利の割には、春良は初心だった。話は下世話だったが、口説きの文句ひとつ言わなかった。それが初手の装いかどうか、お艶には直ぐには判らなかった。

「なあ、お艶さん、あんたを描かしちゃ貰えまいかね」

銚子が三、四本空になって酔いが回り始めた頃、春良が唐突に切り出した。

「俺ぁあんたを一目見た時から、どうしても一度描いてみたいと思って居たんだ。何と言うか、こう、沸々と胸に滾って来るものが有るんだな。駄目かね?」

「えっ、あたしの姿が絵になるのですか?まさか?」

そうか、こんな口説き方も有ったんだ、強かなもんかも知れないね、この人は・・・

「あたしなんかを描いたって、どうせ売れはしませんよ、世間様に恥をさらすのはご免だよ」

そう答えはしたものの、お艶は然し、自分でも良く解らないままに、心の中が浮き立つのを覚えた。

「否、売れなくても良いんだ。銭儲けの為じゃなくて純粋にあんたの姿を絵に残したいんだ、唯それだけだよ、お艶さん」

お艶は、直ぐに返事はしなかった。

「考えておきますよ」

そう言ってその日は帰した。春良の銭の使い方はお艶の想像を超えて綺麗だった。

もしあたしの名が世間に知れたら、もっと良いお客が着いて、もっと楽な暮らしが出来るかも知れない、或は、銭が溜まってこんな暮らしから抜け出せるかも知れない、そんなことをお艶は漫然と考えた。

 春良は暫く姿を見せなかった。

お艶は特段、心待ちにしていた訳ではなかったが、来なければ来ないで、気懸かりにはなった。調子の良いことを言っておいて、焦らせているのか?このあたしを、と思ったりもした。


 忘れかけた頃に春良はやって来た。二ケ月も経っていた。

酒肴は後にして直ぐに描きたい、と言う。紙も絵筆も絵の道具も全て揃えて用意して来ていた。

お艶は面食らった、と同時に、少し腹立ちを覚えた。

「来る早々に何を勝手なことを言っているんですか、いい加減にしてよ!」

だが、春良は意に介さなかった。

「その怒った顔がまた良いね。凄艶で、男心をぞくぞくっと、そそり立てるぞ」

「うん、もう・・・」

腹が立ったが、お艶は負けた。相手は客である。機嫌を直さざるを得なかった。

横座りになったり、斜めに構えて立ったり、後ろ髪に手を添えたり、寝転んでみたり、そうした姿をお艶にさせながら、春良は手早く墨筆一本で一気に何枚かの粗絵を描きあげていった。そして、選んだ一枚に色着けを始めた春良の眼は、狂気が溢れんばかりに見開かれ、身体からは熱気が迸り出た。

 暫くして春良が、ふう~っ、と息を吐いたとき、一枚の絵が描き上がったようだった。

それは、絵には薀蓄も造詣も無いお艶が見ても、なかなかのものに思われた。女の立居振る舞いの一瞬が逃さず捉えられ、初めて絵に写される女の躊躇いが見て取れもした。

今夜は其処までだった。

「後はまたの日にしよう。あんたも慣れないことで疲れただろう」

春良はそう労って絵筆を収めた。

 その次にお艶の眼を射たのは、部屋のひと隅で垣間見せた休息姿を描いたような絵だった。日稼ぎの疲れが滲み出ているような不思議な絵だった。客の前でそんな姿を見せたことは皆目無い、と強がって来たお艶にとって、それは妙に心に引っ掛った。

 

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