第2話 一人の警察官

 しかも、支援者の代表ということで出てきているので、皆の期待を裏切ったという意識が強いのだった。

 だから、彼らもある程度までは分かっていたが、

「結局は、どうせ、公務員の仕事の一つ」

 というだけで、勝ち負けは関係ないということだったのだ。

 それが、

「温度差」

 というもので、かたや、

「やる気のない連中」

 と、

「いかがしても、入賞したい」

 と思っている人たちとの熱い思いの差は。その差が激しければ激しいほど、審査委員には分かるというもので、そういう意味では、、審査委員に対して恨みを持つのは逆恨みというもの、それくらいであれば、仲間なのに、簡単に仲間を見捨てるという連中に、情けないという言葉だけで片付けられるというものであろうか?

 それが、

「公務員」

 というものなのだろう。

 この城には、そんな思惑があり、城の管理は、

「県」

 ということになっているが、実際には、

「有志のボランティア私設」

 としての、

「城郭保存委員会」

 という団体が、財団法人として認可を得て、やっているのであった。

 県とすれば、

「やってくれるのであれば、それに越したことはない」

 ということであり、有志団体としても、

「腫れて県に雇われている」

 ということで、その存在意義も、

「県からお墨付きをもらっている」

 ということで、お互いに、損のないことということであった。

 特に、

「城内の清掃であったり、治安というものに関しても、委員会のボランティアの人が、順次警備に回り。城内を管理していた。

 もちろん、県としても、警察としても、治安という意味では、団体だけに任せておくわけにはいかず、若干、人数を割かなければならないが、それでも、かなり、人足を取られることはないということになるのだ。

 夜になると、この辺りは、静かすぎるのだが、季節によっては、

「カップルが多い」

 ということから、

「痴漢」

 であったり、

「スリ」

 などというのも現れるということで、警察も目を光らせていた。

 だが、ボランティアとの絡みもあり、早朝は、ボランティアが、

「出てこれる人は全員」

 ということで、清掃に当たることになっている。

 だから、朝のパトロールは、警察の管轄外ということであった。

 もちろん、何かあれば、直通の通報が、警察に入るようになっている。

 この城址公園は、お濠のまわりが、ジョギングコースになっていて、城郭といえる惣構えの外は、人が結構いるのだが、大手門から中の、三の丸から内側は、めったに人が入ってくるところではなかった。

 人が来るというと、

「桜の時期」

 ということで、三月から、四月の頭くらいの数週間くらいは、花見ということで、早朝でも、人が一定数いるというものであったが、それでも、夜明け前ともなると、まず人がいない。

 しかも、夜桜見物において、花見ともなれば、ごみがかなり散乱しているのは、これまでの覚悟の上であるが、なるほど、

「これは、ひどいものだ」

 と目を覆いたくなることも、少なくはなかった。

 こんなものを審査委員に見られると、なるほど、

「日本100名城」

 などに選ばれようなど、おこがましいことなのかも知れない

 と思うのだった。

 だが、このような惨状は、他の、

「日本100名城」

 であっても同じことであろう。

 彼らの方でも、

「他の100名城のところに見られると恥ずかしい」

 という思いがあるのは必定で、何といっても、

「100名城ともなれば規模が違う」

 ということで、その荒れようもハンパではないだろう。

 ただ、これも、言い訳できるくらいに大きなところであれば、いざ知らず、

「中途半端な規模のところで、ひどいというのは、市民の心構えが最初からひどい」

 ということで、そうなると、

「俺たちボランティアが頑張るしかない」

 ということだったのだ。

 当然、

「ごみは持ち帰るように」

 などという立て札を建てても同じこと、

 何といっても、酒に酔っている連中には、何ができるわけでもない。

「俺たちがきれいにしたって、他の連中が荒らすだけだ」

 とばかりに、昔の漫才師が言っていた言葉が思い出されるというもので、

「赤信号、皆で渡れば怖くない」

 という、

「一種の集団意識の悪いところ」

 というべきであろう。

 そんな中で、

「有志のボランティア」

 は、どんどん集まってくる。

 最初は、数人から始めたものだったが、ここ数年の間に、数十人となり、その成果もだんだんと現れてきた。

 特に地元のケーブルテレビのインタビューを皮切りに、最近では、民放の地元コーナーとして、彼らがレギュラー出演し、

「城址公園の近くにて、毎日朝と夕方に、天気予報を中継する」

 ということで、その天気予報の中で、宣伝もさせてくれるということで、昨今の、

「お城人気」

 と相まって、

「公園のボランティアに参加したい」

 という人が増えてきたということであった。

 それを思えば、

「地元の放送局の力も、まだまだ侮れない」

 ということであった。

「県のような公務員に比べれば、地元法相局の、マスコミとしての力は、それこそ腐っても鯛」

 ということであろう。

 一時期、マスコミは、

「マスゴミ」

 と言われ、世間から総すかんを食らっていた。

 何といっても、

「風見鶏的な態度を取るところが多い」

 ということは、昨今のいろいろな事情から分かるのであった。

 特に、数年前に起こった、

「世界的なパンデミック」

 というのは、そのひどさが、あまりあるほどだと言ってもいいだろう。

 政府に踊らされ、世間のデマや誹謗中傷にも踊らされ、しかも、デマを自分たちで流すという体たらくであった。

 それを知った政府は、どうすることもできずに、

「何とか自分たちの保身を」

 と考えるだけで、本来であれば、

「この危機を政府が陣頭指揮を執って、混沌とした世の中を正す」

 ということをしなければいけないのに、

「この時」

 とばかりに、

「まるで、時代劇の悪代官のように、自分たちがいかに営利を貪るか?」

 ということだけに賭けているということであった。

 特に、世界的に何も分かっていない」

 ということで、政府は、手探り状態であるが、逆にいえば、

「世界的に、何も分かっていないのだから、政策に失敗しても、自分たちが責められることはない」

 と思っていて、たかをくくっていたかも知れない。

 しかし、実際に蓋を開けてみると、本当に、

「やることなすことが、あまりにも後手後手に回っていて」

 素人が見ても、

「誰がこんな情けないことをするんだ」

 というようなお粗末なことしかできないというほどひどい政府であれば、救いようがないというわけだ。

 実際に、政府がやった政策で、

「バレない」

 とでも思ったのか、

「ある業者に不足しているものの手配をさせた」

 ということであるが、実際にその製品は、ひどいもので、

「不良品による、返品の山だ」

 ということになった。

 しかも、良品であっても、小さすぎるなどの理由で、実際に利用価値のないものを作っていたということであった。

 要するに、

「国家予算を、しっかり使わなければいいけないという。国民の命に係わるものを、原価の安い。しかも、政治家のお友達といえるような業者に作らせるということをするのだから、これほどひどいものはない」

 ということであった。

 特に、

「マスゴミというのは、こういう非常事態の政府には、目を光らせていることだろう」

 ということで、実際に、

「デマを流す」

 ということでは、あまり褒められたことではないが、

「政治家を見張る」

 ということでは、役に立っているということで、ありがたいといってもいいだろう。

 そんな政府において、このマスゴミ、それこそ、

「大同小異」

 ということで、

「どちらもお互い様」

 ということになるのであろう。

 そういう意味では、その時くらいから、国民の中には、

「マスゴミは、利用できるなら、利用すればいい」

 と思っている人も多かった。

 それだけ、

「ひどいことをする連中ではなるが、利用価値はある」

 というもので。もっといえば、

「利用するのは簡単」

 と言ってもいい。

 特に。

「特ダネ」

 などという言葉をちらつかせれば、

「勝手に寄ってくるハイエナのような存在だ」

 と言ってもいいだろう。

 やつらを利用するのは、お城の保全委員会のようなボランティア組織にとっては、

「赤子の手をひねるも同様だ」

 と言ってもいいだろう。

 そんな連中であったが、今のところは、

「民間の地元番組で地道に活動する」

 ということが一番だと思っていた。

「いい情報網さえ見極めることができれば、自分たちの考えを、よりたくさんの人に分かってもらい、自分たちの計画をスムーズに進めることは容易なことだ」

 と思っていた。

 だから、パンデミックの時の政府のように、

「追い詰められて、焦った行動に出てしまうと、却って目立ってしまい、誹謗中傷を受けたりして、何もできなくなってしまう」

 ということになるであろう。

 それを考えると、

「自分たちのこれからをどうすればいいか?」

 という道しるべは、ある程度見えていると言っても過言ではないだろう。

 今のところ、城の保全に関しては、心配することはいらない。

 かつての、落選から県の方でも、反省があるようで、それはポーズに過ぎないかも知れないが、それだけではないということを示しているようにも思える。

 ただ、それでも、まだ県とボランティアの間に溝があるのは事実で、これを埋めるには、少し時間が掛かると思えるのであった。

 そんな城址公園において、最近変なウワサが立つようになった。

 というのは、

「何やら、薬物を扱うチンピラまがいの連中がたむろしている」

 という話であった。

 夜の城址公園ともなると、人がいたとしても、お忍びのような連中ばかりで、カップルのように、下手にかかわることを嫌う人ばかりなので、却って安全だという話であった。

 ただ、中には野次馬のようなやつもいて、たまにそういう人間がいることが、厄介に思えた。

 しかし、それでも、誰が何かをできるわけではない。警察としても、せめて、

「警備を増やす」

 ということくらいしかできないのだろうが、これも、ボランティア団体との絡みがあることから、その時間、警察が余計な介入をすることもできない。

 だから、城址公園というのは、このウワサが出るようになってから、微妙な立場の場所になったといえるだろう。

 そんな中において、警察官の中には、そんなウワサ自体が、

「あまり信憑性のあるものではないな」

 と考える人もいるようになってきた。

 かなり曖昧な話で、

「学校を退学になった連中が、チンピラとつるむようになって、公園で薬をやるようになり、そのまま、薬欲しさに、チンピラのいうことを聴かされるということで、取引がこの公園で行われる」

 ということであった。

 確かに警察官のパトロールの時間は決まっていて、それ以外は、ボランティアの見回りがあるくらいだ。

「ボランティアの人たちとすれば、何かの喧嘩であったり、暴行現場に出くわせば、見て見ぬふりもできないかも知れないが、薬物の取引であったり、陰に隠れての接種などが、見回り程度で分かるわけもないので、逆にいえば、やりやすいということにもなるだろう」

 それを考えると、

「取引現場とすれば、チンピラが考えたにしては、うまい方法だ」

 といえるだろう。

 しかし、

「この公園を、ボランティアの人と、警察とが、交互にパトロールしている」

 などという情報を、よく街のチンピラが知っていたというものである。

 組織ぐるみで何かをする時に、その情報を使うというのであれば、分からなくもないが、組織とは、一線を画したところでの取引ということでないと成立しないような取引に、実際の組織しか分からないような情報が流れているというのもおかしな話だった。

 そのことを分かっているのは、この公園のパトロールを管轄している交番勤務の巡査であった。

 彼は名前を田島巡査という。

 田島巡査も、実は高校時代までは、警察の少年課にお世話になることの多かった、昔でいえば、

「札付きのワル」

 とでもいえばいいような男で、万引きだったり、恐喝などを、仲間と一緒に繰り返していた。

 彼は家庭環境に問題のある生徒ということで、学校側からマークされていた。本当は、彼はまじめな学生だったのだが、教師や保護者団体から、偏見によって白い目で見られることで、その立場が怪しくなってきた。

 しかも、本人は、学校でタバコを吸ったと言われ、それが濡れ衣かも知れないと思っている人も少なく無いという、実にグレーな状態の中で、

「臭い者には蓋」

 という勝手な考えのせいで、学校からも、親たちからも、要するに、大人たちから勝手なレッテルを貼られ、学校でのその場所がなくなっていったのだ。

 そこで、結局は、同じような立場の連中とつるむしかなくなり、結局は、学校を退学するしかなくなったのだ。

 それでも、彼は、

「学校で疑われることはあったが、実際に何かをして、処分を受けた」

 ということもなければ、もちろん、警察で罪に問われるということもなかった。

 少年課の世話になることはあったが、それはあくまでも、

「夜間俳諧などでの注意勧告を受ける」

 という程度だったのだ。

 そんな彼だったので、退学ということにはなったが、それからどこで、どう改心しかのか、思い直して、通信制の高校にて、卒業することができた。

 そんな彼が目指したのは、警察官だったのだ。

「俺のように、世間から白い目で見られるいわれもないのに、偏見の目で見られる人を少しでも救いたい」

 という思いがあったのかも知れない。

 彼だって、

「信念を持った警察官がひとりいるくらいで、何かができるなどということは思ってはいない」

 しかし、それでも、

「何かができる」

 と考えれば、警察官というのは、自分にとって一番いい仕事ではないかと思うのだった。

 実際に、警察官になると、それまでのわだかまりは少しずつ消えていった。

「警察官になるために、生まれてきたのかも?」

 と思うようになり、交番勤務も、嫌ではなかったのだ。

 家を出て、警察の寮に入ると、

「今までの自分を知っている人はいない」

 という安心感と、

「仕事の同僚や先輩を相手にしている」

 ということで、

「もし、過去を知っている人がいたとしても、そこは、ある程度水に流す」

 ということになるだろう。

 だが、それは、

「平時」

 ということで、もし、昔の知り合いが何かをやり、自分と関係があったなどということになると、立場は一気に悪い方に向かうかも知れない。

 それも分かっていることではあったが、だからと言って、

「今できることをきちんとする」

 ということしか、自分にはできないのだ。

 何といっても、世の中の理不尽さというものを、曲がりなりにも分かっているつもりだ。完全に、拭い去ることのできない過去であるが、その経験から、少しでも、その場になれば、できる対応もあるだろうと思うのだった。

 警察官になってからは、昔の仲間とは、縁がなくなった。やつらとしても、

「警察官になった昔の仲間に構っているほど、暇でもないだろう」

 ということであった。

 もちろん、情報を流してもらえれば、それがありがたいのだが、それは、警官側にその意志がなければ無理なことだ。

 少しでも、

「警察官になってしまった」

 という相手であれば、どんなに脅そうが、説得しようが、立場を考えると無理なことであろう。

 それこそ、

「警察官として逃れることのできない」

 という何かの弱みでも握っていないとうまくいかないことに違いない。

 そんな田島巡査は、交番勤務三年目になっていたのだが、まだまだ警察官として認められるわけではなかった。

 ただ、それは、

「どうしても、警察のような公務員であれば、昔からの、年功序列なるものは、厳格に存在している」

 ということになり、経験でもなければ、ある程度の年数がいかない限りは、

「一人前ということで認められない」

 というのも当たり前ということで、一般の会社のような、

「業績」

 という形で、ハッキリ現れるわけではない警察官というのは、それこそ、

「昇進試験」

 なるものに合格し、昇進の道を歩まない限りは、その上下関係に変化がないということになるのだ。

 だから、逆に、

「昇進試験」

 というれっきとした結果が求まることで、

「その人は昇進し、昇進すれば、年齢は関係ない」

 ということになる。

 しかも、警察というところは、絶対的な、

「階級社会だ」

 と言ってもいいだろう。

 完全に階級によって、捜査権であったり、権力という力がモノをいうのだ。だから、普通のサラリーマンの肩書よりも、刑事の階級の方が、ハッキリしていると言ってもいいだろう。

「警察官になったからには、昇進して、上にいくんだ」

 ということをあからさまに考えている人も多い。

 逆にそれくらいの考えでなければ、

「何のために警察に入ったのだ?」

 ということになる。

 よくテレビドラマなどで、警察組織を叩くようなドラマがあるが、どこまでが、本当のことで、どこからが、誇張しているのかということは分からないが、

「火のないところに煙が出る」

 ということもないので、ある程度の信憑性はあるだろう。

 だからと言って、

「すべてが本当のことだ」

 というのは、あまりにも言いすぎというもので、結局は、

「中に入らないと分からない」

 ということになるのだろうが、どうしても、警察などというところは、

「まわりから見えないように、ベールに包まれている」

 と言ってもいいだろう。

 田島刑事は、そんな警察組織というものを、だいぶ分かってきた気がした。入ってから三年の間にここまで分かったというのは、

「分かりすぎ」

 なのか、それとも、

「まだまだ分かっていない」

 ということになるのかを分かるはずもない、それが、少し自分としては、不安に感じられるところであった。

 そんな彼も、

「城址公園のウワサ」

 というものは知っていた。

 しかし、そんなウワサに彼は、彼なりに違和感を覚えていたのだった。

 その一つとして、

「そのウワサの出所がハッキリしない」

 ということであった。

「どこかの組織から漏れてきたものなのか」

 それとも、

「警察内部から、出てきたものなのか?」

 あるいは、

「街でまことしやかにささやかれていることなのか?」

 ということが分からないのだ。

 それぞれに、

「どれも、あり得ることだ」

 と思うと、その逆に、

「決定的な証拠のようなものが、どれにもない」

 ということで、どうしても警察というところにいると、考え方というものが、

「疑わしきは罰せず」

 という発想から、

「信憑性がないと、信じられない」

 ということになるのであった。

 それを考えると、

「出所はハッキリとしないウワサ」

 ということで、そこに違和感を覚えるのだった。

 そしてもう一つは、

「薬物を扱う」

 ということが、そう簡単に表に漏れるのか?

 ということであった。

 もし、漏れているとすれば、そのウワサを少なくとも組織は消そうとするだろう。

 組織には関係ないとしても、変なところでウワサになって、警察が妙な動きをすると、他の場所で取引をしようとしていたとしても、警察の目が光っていることで、身動きができないということになるだろう。

 それを考えると、

「変なウワサが出ている以上、ほとぼりが冷めるまで、動くことができない」

 ということになるか?

「ウワサの元を探し出し、それを潰そうとするか?」

 ということになる。

 しかし、もしウワサというものを、どこかの組織が、故意にやっているとすれば、自分たち組織としては由々しき問題であり、

「今、動かずにやり過ごすことはできるが、いつまた、その組織が動き出しかねない」

 ということになる。

 自分たちが、その組織を確かめて、対応を考えないと、後々ややこしいことになり、

「手遅れだ」

 ということにならないためにも、少なくとも、ウワサの正体を突き止める必要があるというものであろう。

 そう考えると、ウワサというものに、少し変化があってもいいはずなのに、相変わらず、「信憑性が疑わしいウワサ」

 というだけで、

「進展も後退もしない」

 という状況であった。

 それを考えると、

「何かがおかしい」

 と田島巡査は考えるのだった。

「もしかすると、このウワサというのは、どこかの誰かが、故意に流しているものではないか?」

 という考えであり、しかも、その元になっているものは、

「ウワサを流されると困る」

 という、実際に、麻薬取引をやっていると言われているところだったりするということではないだろうか?

何かを隠す時、

「一番目立つところが、一番発見されにくい」

 という言葉もあるではないか?

「灯台下暗し」

 という言葉もあり、

「いつも目にしているものに、何か大切なものが隠れていても、意識することもない状態で通り過ぎる」

 ということになるのである。

 また、この発想は、

「石ころの心理」

 というものではないか?

 と、田島巡査は考えていた。

 田島巡査というのは、いつも、

「理屈を考えて、その理屈を自分が納得できないと、動くことができない」

 と考える方であった。

 だから、小学生の頃、算数の最初。つまり、

「基礎の基礎」

 というものを理解しようとして、できるわけもなく、そこだけにこだわったおかげで、

「最初から躓いた」

 ということになり、ずっと、算数は、0点だった。

 何しろ、最初から基礎というものが分かっていないのだから、応用が利くわけはないのだった。

 しかし、それも、ある時期をきっかけに、基礎が理解できるようになってきた。

 そのおかげで、どんどん応用が利くようになり、そして、利いてくる応用が楽しくなってきたのだから、あっという間に、他の人のレベルに追い付き、それでは満足できず、さらに先の勉強をするようになったのだ。

 だから、小学3年生くらいまでは、

「どうしようもない劣等生」

 ということで、先生も、最初こそ、

「何とかしないといけない」

 と思っていたが、

「突き放そうかどうしようか?」

 と悩んでいて、最後通牒を突きつけようとしたその頃に、急に理解できるようになったということであった。

 実は、田島巡査のような例は珍しいわけではない。どれくらいの頻度で、そんな生徒がいるのかということまでは分からないが、

「一定数存在している」

 ということは、教育者として、現場に何年もいれば、分かってくるというものであった。

 そんな生徒の一人である田島少年であったが、彼の悪いところは、

「変なプライドを持っている」

 ということであった。

 もっとも、そんな変なプライドがあるからこそ、

「納得できないと理解できない」

 という、他の人から見れば、

「凝り固まったような考え方しかできない」

 ということになるのだろう。

 しかし、そのプライドが、自分の中だけで完結できていれば、それで問題ないのであるが、

「他の生徒に対して、優越感を感じるようになると、余計に、プライドが邪魔をして、自分が一番偉い」

 という考えをもってしまうのだった。

 だから、

「優越感だけで人と話をするようになると、自分がまわりに対して、上から目線であるということに気づかない」

 それは、相手が小学生であれば、その態度を素直に受け取ることで、相手も、自分の考えに逆らうことができないと思ってしまうのだろう。

 そうなると、

「交わることのない平行線」

 ということだ。

 まわりから見れば、

「これほど、わがままな生徒はいない」

 と田島少年のことを思うだろう。

 一人孤立してしまっているのに、口では、憎まれ口をいう。

 確かに頭はいいのだが、相手を論破できるほどの話術があるわけでもない。

 しかも、小学生で、相手を論破できるような話術を持っていたとしても、それは、却って苛めの対象になるだろう。

 結果、

「論破できようができまいが、結果は同じで、どんどん孤立の道を歩む」

 ということにしかならないということであった。

 それが、その頃の、田島少年であった。

 田島少年は、小学生の頃、いじめられっ子であった。だが、それも、中学に入るまでに収まってきて、虐められることはなくなった。

 当時の、

「苛め」

 というのは、小学生でもあったのだろうが、田島少年がいじめられていたことに、

「理由があった」

 ということで、実際に、その苛めの理由というものがなくなってくると、苛めもなくなるというものである。

 しかし、

「本当の苛め」

 というものは、

「決定的な理由があるわけではなく、問題は自分にあるのだった。相手に理由があって、その理由がなくなれば、虐める方も、苛めを辞める」

 ということになるのではないだろうか?

 ただ、そのかわり、田島は孤立の道を選ぶことにした。

 その頃に家庭の問題などがあり、半分は誤解もあったのだが、次第に、田島が、

「素行が悪い」

 ということになり、まわりの大人からの誹謗中傷のようなもの、そして、無言の圧などがあり、結局、高校を退学して、今に至るという、ある意味、変わり種の警察官だといえるのではないだろうか?


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