桜降る、ひそやかなお茶会の先に

雨伽詩音

第1話桜降る、ひそやかなお茶会の先に

 わたしは保健室のベッドに臥しながら天井を見上げる。そこに、狐の影が横切った、と思えば、あなたがその繊細な指を狐の形にしてわたしを覗き込む。

「こん、こん、おはよう、すみれ」

 文芸部の先輩にして、近寄りがたい空気をまとったあなたは、ここにいる間だけ少女らしい顔を見せる。

 養護教諭の先生が出払っている間に、わたしたちはずいぶんと好き勝手なことをしてきた。太宰の小説をベッドに持ち込んで、即席の読書会をしたり、先生の目を盗んでコーヒーを淹れたり。ほろ苦い香りのブラックコーヒーをあなたは好んだ。

「あなたは紅茶派だけど、あいにくと切らしてるみたい。コーヒーでいい?」

「はい……がんばって、飲みます」

「お茶菓子は……と。クッキーがあるみたいね。お茶にしましょう。起きていらっしゃい」

 わたしたちは他にひと気のない保健室で、あなたの淹れるコーヒーの香りを味わいながら、先生のお気に入りのヴィクトリアアクッキーをつまむ。渋いコーヒーの味はやはり苦手だ。

 あなたはブラックコーヒーをすすりながら、一向に減る様子のないわたしのマグカップを見つめる。

「ミルクがいるようね」

「……ちょっとチャレンジしたかったんですが、どうしてもその……」

 あなたは戸棚にしまってあるミルクのポーションを一つつまみ上げて、弧を描くようにして混ぜてゆく。狐の形をしていたうつくしい指先は、小さなポーションを扱う所作まで洗練されている。

 その指先は、かつて私立の中学校でソプラノサックスを奏でていたとわたしは聞き知っていた。将来を嘱望されるようなソロプレイヤーで、ソプラノサックスはあなたの自費であがなったものだと聞いていた。

 その夢が破れたのは、吹奏楽部での不協和音、つまるところあなたに嫉妬した部員たちによるいじめが原因だったらしい、と風の噂に聞いた。あなたは何も語らず、ケースの奥にソプラノサックスを秘めたまま、中学校を学年トップの成績で卒業し、そしてこの女子校である白藤高校に入った。

 そこからの成果も中学に引けを取らないほど眩しいもので、文芸部では部長に就任するとともに、新人賞への投稿もすでに行っていて、最終候補にまで選出されたという話は聞いていた。

「どうしたの?」

「いえ……。るり先輩は、大学でも文芸サークルに入るのかなって……。そうしたら、学生小説家になったりして……と思って」

「そうね。でも、あと一歩でどうしても手が届かないみたい。私って」

「あ、その……すみません」

「謝らなくていいわ。これも自分の実力よね、結局」

「だ、大学は……聖桜大学に決まったって……。ご連絡いただき、ありがとうございました。おめでとうございます」

 聖桜大学といえば、女子校の諸大学の中でも最高峰に位置づけられる学校だ。この二年間というものの、保健室にいることが多く、出席日数でギリギリのところをさまよっているわたしには、とても望むべくもない大学だった。

「わたしは……大学に行けるかどうか、わからないですが、その、応援してます」

「すみれはまずちゃんと食べること。朝ごはんは食べてきた?」

「ええと……食欲がなくて」

「じゃあ、もうひとつあげる」

 手渡されたヴィクトリアクッキーを受け取って、わたしはゆっくりとそれをかじる。クッキー生地の中央にあるストロベリージャムの甘さに、ほっと心がほどけ、カフェオレとなったコーヒーの入ったマグカップを口に運んだ。甘やかなマリアージュが口の中に広がり、このひそやかなひとときに彩りを添える。

「大学では文化祭があるから、いらっしゃい。文芸サークルはその時に合わせて部誌も出しているみたいだし、きっといい作品を載せてみせるわ」

「約束、ですね」

「ええ。秘密のヴィクトリアクッキーと、そして約束。餞別にはうってつけでしょう?」

「あ……桜……」

 風にこぼれた桜の花びらがひらひらと保健室の窓の外を舞う。長い髪をあたかもその風になびかせるようにそよがせて、あなたはふわりと微笑んだ。

「たとえここで道が別れても、きっとまた会えるわ」

 それはあなたが自らに言い聞かせるように語りかけたメッセージだった。あなたの過去の傷も、今のわたしの痛みも、そうたやすく癒えはしない。それでも、どこかできっと道は通じているのだ。

 その先でふたたび巡り会うとき、わたしは今よりももう少し大人びているのだろうか。あなたの傷は、あなたを新たな道へと導いているのだろうか。今はわからない。それでも、花散る桜の下で交わした約束は、今陽の光を浴びてかがやいていた。


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