空で再会する俺と貴女

ささきほさか

空で再会する俺と貴女

 六月。灰色の雲は雨を降らせることなく、西から東へ流れていく。そのもっと西の空からは、深い闇のような雨雲が迫ってきている。

 皆が浮足立つ週の終わり、金曜日の放課後。中学三年生の湊は、引退が間近に迫ったサッカー部でボールを追いかけている。湊の通う中学校のサッカー部はきつい練習が多く、三年生の最後の大会前ということもあり、一際厳しい練習が行われていた。

 ここ数日雨が続いていたため、久しぶりにボールを使った練習が出来ると、部員たちは張り切って臨んでいる。今は練習最後のミニゲームの時間だ。湊の操るボールはすぐに奪われ、シュートはゴールの枠から外れ、パスはあらぬ方向へと転がっていく。しかし、湊は半袖のスポーツウェアを汗が絞れるほどにしながらも、最後まで諦めないで走り続けた。

 練習が終わり、湊が部室で着替えていると、部長がタオルで汗を拭きながら湊に話しかけてきた。同性の湊から見ても、白いタオルで頬についた汗を拭う仕草は絵に描いたようにかっこいい。

「湊、お疲れ。今日の塾はどうする?一緒に行く?」

 湊は肌に張り付くスポーツウェアと格闘しながら、部長が今日も声をかけてくれたことに心の中で感謝をする。

「一緒に行く。今日も公園の前でいい?」

 湊は笑みを浮かべて返事をする。端から見ると、湊が喜んでいるのはわかりやすかった。

 平日の部活終わりに塾がある日は、湊と部長は一緒に行く事が多い。家が近所同士なので、いつも部長がさり気なく誘ってくれていた。

「オッケー。雨が降りそうだし、歩きだな。帰ったら速攻で集合ね」

 部長はきらりと嫌味がない笑顔を見せる。

「了解」

 湊は自分とは違うそのかっこよさに少し嫉妬してしまう。

「部長、湊じゃあなー」

 部員たちは口々に挨拶して部室から出ていく。

「また明日!」

「おう、おつかれさん」

 湊と部長は一人一人に笑顔で挨拶を返していく。


 部長が部室の鍵を返却した頃には、ポツポツと雨が降り始めていた。

「湊、急ぐぞ!」

「オッケー!」

 傘がない二人は走って帰る。幸い雨足は弱く、あまり濡れずに済んだ。



 塾でのクラス分けは、湊が普通クラス、部長が進学校クラスだ。部長はそのクラスの中でも模試の結果はいつも上位に位置している。それに加えてサッカーがとても上手く、学校ではいつも頼られていた。湊は部長がスーパーマンのように活躍をしていることに嫉妬をしていたが、それ以上に憧れていた。

 なにしろ湊が塾に興味を持ったのは、部長が塾に通っているからだ。少しでも憧れに近付きたいという思いがあり、二年生の頃の梅雨時のちょうど今頃に自分も行きたいと親に直談判した。

 行くことを許してもらえたものの、行き帰りは自力で行うという決まりになった。それくらいなら大丈夫だと思ったが、駅前の塾までは自転車で約十分。雨の日は歩いて三十分ほどかかる。悪天候の日に徒歩で通うのはとても大変だった。

 塾でのクラスが違う部長とは時間が微妙に噛み合わないことが多いため、帰りは大抵一人で寂しかった。さらに休みの日は行きも一人なので心細い気持ちになってしまった。

 そんな中、湊が塾への道のりを楽しむことが出来るようになったものがある。

 音楽プレイヤーを親に買ってもらったのだ。

 湊の中学入学を見届けて亡くなった祖父は、人生の大半の時間と金銭を洋楽につぎ込む程に音楽を好んでいた。その魂を孫の湊は受け継いでいる。

 一緒に暮らしていた祖父は、湊が幼少の時から数十年前のレコードを聴かせた。ジャンルは洋楽のロックンロール。そのめちゃくちゃクールな音楽に湊はすぐにのめり込んだ。しかし、自分で演奏することには興味はわかなかった。目の前に超絶的な技巧で心にギンギンに響くかっこいい音楽が収録されたレコードがあるのだ。ひたすら祖父とレコードを聴き漁る毎日を送っていた。

 そんな湊が、買い与えられた音楽プレイヤーにすぐさま好みの音楽を詰め込み、塾まで歩く日に音楽を楽しむのは当然と言える。その音楽プレイヤーのおかげで、塾の往復の道中も楽しめるようになり、雨の日の往復一時間は誰にも邪魔されない自分だけの時間になった。


 そんな湊にも音楽プレイヤーなしで楽しめる雨の日がある。部長と一緒に塾に行く時間だ。

 湊はうきうきしながら準備をし、家を出た。ビニール傘に当たる雨粒が絶え間なく音を奏でている、今はそれも愛おしい。

 そんな気持ちもすぐに霧散してしまう。

 待ち合わせの公園では、部長が紺色の傘を持ち既に湊を待っていた。それを見た湊はもやもやしたものが溜まってしまう。

 ――お互いの家から公園までの距離はそんなに変わらないし、同じ時間に帰っているはずなのに、なんで自分より早くいるんだろう。

 湊はそんな考えを打ち消したくて、雨に負けないように声を張る。

「おまたせ!」

 部長は湊にニッコリと笑いかける。そこには裏が全く感じられなかった。

「じゃあ行くか」

 どうしてこいつはこんなに優しいんだろう。頭上を覆う雨雲のようなもやもやが湊の頭の中に溜まっていく。

 どうやっても足元が濡れるような雨の中、ちょっとくすんだ透明な傘と綺麗な紺色の傘が並んで進む。二人は雨に負けないように少し大きな声で話す。その内容は、部活のことだったり、湊が好きな漫画のことだったりで、二人はこの時間を楽しく笑って過ごした。

 塾に行く途中にある狭い道を通る時は、湊が前に行く事が多い。湊が後ろにつきたくない理由は、湊の手入れがされていないくすんで錆が見えるビニール傘と、部長の手入れがされたとても綺麗でセンスの良い傘を見比べてしまい、それがなんだか、自分と部長との違いをまざまざと見せつけられたように感じてしまうからだった。


 塾の授業が終わり皆が帰宅する中、湊は一人で教室に残る。そのことを知っている部長は、違う教室にも関わらず帰る前に顔を出してくれる。

「また明日部活でな」

 部長はひらりとかっこよく手を振る。

「また明日」

 湊が感謝を込め笑顔で答えると、部長はきらめく笑顔を返し教室から出ていく。

 今から始まるのは、湊が壊滅的なまでに出来ない英語の個人授業だった。

 湊は二年生の時の一年間で、模試の英語の成績が全く上がらなかった。そのことに対して、父親が授業料の無駄だからこの塾はやめろと、三年生に進級する前に言ってきたのが始まりだ。父親からすれば、英語が三十点程度しか取れないまま何も変わりがないというのは、大丈夫なのかと心配になるのだろう。それはわかる。別の教科もそれくらい出来ないというのならまだしも、他の教科は九十点以上取れている結果がある上での悲惨な英語の状況なので、尚更その疑念は加速していた。

 それから約二ヶ月間、塾の授業が終わったあとに約三十分間の湊のためだけの勉強会が開かれている。これは英語の講師が湊の英語の成績が上がらないせいで塾をやめることになりそうだという話を知ったことで、自身の時間を削って行っている。

 湊の父親はやめたくないなら湊が結果を出せという態度で、六月までに成績が上がらなければ再度話し合うことになっている。しかし、現在の湊は成果が全く出ていない状態なので、おそらく話し合いは一方的に終わり、塾をやめることになるだろうとぼんやり考えていた。

 個人授業は湊のために一つずつ丁寧に進んでいく。この講師の授業は学生からはわかりやすく面白いと人気があり、この個人授業も素晴らしいものだった。それほどの授業なのに湊からするとちんぷんかんぷんで、今日も授業を受けたところは理解が出来ていない。湊は英語の羅列を見ると頭がパンクしてしまい、何も頭に入らなくなってしまっていた。


 個人授業が終わり、講師と一緒に歩く。

「今日もお疲れ様」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 講師が親身になってくれているのにも関わらず、今日も授業が理解できなかったことで、湊は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「気を付けて帰れよ」

 講師は湊を見守るように、他の誰もいないロビーで待ってくれている。

「ありがとうございます」

 湊は返事をしつつも、優しくしてくれている講師の顔を見ることが出来ず、それを隠すかのように傘を探す。他のビニール傘とは違う少し汚れたものはすぐに見つかり手に取る。その傘は湊のものだと非常にわかりやすかった。

 湊が傘を引き出そうとすると隣の傘の柄が手に当たる。それは非常に綺麗な紫色の傘で、吸い込まれるように見つめてしまう。

「大丈夫か?」

 講師の心配そうな声に湊ははっと顔を上げる。

「大丈夫です。ちょっとボーっとしてました」

 気を取り直し自分の傘を一息に引き抜く。

「あまり悩みすぎないようにな。頼ってくれていいから」

 講師は湊を気にしながら、入口のガラス扉を開けてくれた。何から何まで世話になりっぱなしで更に申し訳なくなり、湊は目を伏せて通り過ぎる。

「また明日、待ってるぞ」

 講師はそんな湊の後ろ姿を危うく思い、少しでも元気づけようとさっきより少しだけ大きな声で声を掛ける。

「はい、また明日」

 大きな声にはとっさに大きな声で返してしまうもので、湊も少しだけ元気な声で挨拶が出来た。講師も一緒に入口から出て、湊を見守ってくれている。

 音楽プレイヤーを取り出し、絡まったケーブルを解き、イヤホンを耳につける。そして音量の設定を大きすぎるくらいにして再生すると、ギターとベースとドラムが頭の中で鳴り響く。幼少の頃から聞き慣れた曲だ。ドラムに合わせて身体を動かす。

 塾は一階がコンビニの商業ビルを利用していて、ニ階から五階を使っている。湊は二階から階段を降りながらメロディーをほんの小さな声で口ずさむ。階段を下りきったところでドラムとシンクロするようにタイミングよく傘を開く。いつもならこうしていると楽しくなってくるはずなのに、今の湊はなんだか気分が上がらなかった。しかも、周囲がなんだかこの傘のビニールのようにくすんでいるように見えてしまい、それは家へ帰って寝るまで続いた。


 土曜日。皆が楽しみにしていた休日。今日のサッカー部は午前中を練習時間としている。朝早くから太陽がさんさんと輝き、比較的水はけの良い湊の学校のグラウンドはすっかり乾いていて、サッカー部にとっては絶好の練習日和だった。

 湊も部員に混じり必死の形相でボールを追いかけるが、どう頑張っても足が届かない。湊の中で悔しさが増していき、どうして自分はこんなに下手なのだろうかと考えてしまう。

 湊の思考を雨が降る前の真っ暗な雲が追いかけていき、徐々に頭の中を侵食していく。湊は雲に追いつかれたくないと、がむしゃらにボールを追いかける。十二時過ぎに練習が終わるまで、湊の足は止まることはなかった。

 

 十三時になる間際に帰宅した湊は、昼食を食べたあとに自室の床で横になっていた。何もしていない時間は、湊の思考に黒い雲が増えていく。

 湊はこれじゃいけないと身体を起こす。

 腕を組み、どうしたらいいかを考えた結果、こんなときには音楽だと思い至りコンポを起動する。お気に入りの曲が流れ始めると同時にメロディーに合わせて身体を揺らす。

 それでも頭の中を黒い雲は徐々に侵食している。雨を降らすことはなかったが、梅雨前線のように停滞して湊の思考を邪魔した。

 湊は音楽で頭をいっぱいにしようと、ベッドに横になり音楽に浸った。その途中に、何かしなければと思い体を起こし、勉強机に向かいペンを持つまではしてみたが全く集中できず、すぐにペンを置いてしまった。

 夕方に母親から呼ばれ湊は身体を起こし、リビングに移動する。

 湊は塾の日に母親が湊のために用意してくれた早めの夕食を一人で食べる。箸を動かしながら、最近家族と一緒にご飯を食べていないことに気がついた。


 湊は自転車に乗って塾へと向かう。視界を流れていくいつも通りの風景は、何も変わらない自分自身だと感じさせられてしまった。


 今日も、個人授業が終わる頃には塾に残る生徒は湊一人だった。

 外からはザーザーという音がしていて、大粒の雨が断続的に地面を叩いていることが容易に想像できる。

 湊は自転車で塾まで来たので傘を持っていなかった。湊は傘を借りるしかないと判断して傘立てを見る。そこにはいくつかのビニール傘と共に、紫色の傘が残っていた。

「どうした?」

 講師が湊の様子を気にして尋ねる。

「傘を借りたいと思って」

「今残ってる傘なら何でも持っていって良いぞ」

 講師は優しげに言いながら、ちょっとだけ笑っている。

「この雨で残ってるってことはそういう傘ってことだ。俺が許可する。持っていってよし。明日こっそり返せば大丈夫だからな」

 にやりとした講師の顔を見た湊は少し救われたような気分になり、それなら気にせず使わせてもらおうと傘立てに歩み寄る。

 湊の一番興味を引いた傘は、やはり立派な紫色の傘だった。昨日も残っていて、今日も残っている。何故だろうか。非常に興味をそそられる。いつか、こんな傘を使ってみたいと強く思っていた。部長が使っている傘のような凄い傘を。自然と紫色の傘に手が伸びる。

「これにします」

 紫色の傘を引き抜き、期待に胸を高鳴らせ柄を握りしめる。

「よし、じゃあまた明日な」

 講師は昨日と同じように入口の扉を開けてくれる。

「さようなら」

 湊の頭の中は傘のことでいっぱいだった。憧れている部長が使っているような傘を自分も使える。そう思うと早く傘をさしたいという気持ちでいっぱいになる。

 湊は足早に階段を降りながら傘の留め具を外そうとするが、焦ってしまっているのかうまく外せない。階段を降りきったところで、ようやく留め具を外すことが出来た。期待に胸を膨らませながら傘を開く。


 傘を差すために顔を上げると、いつの間にか湊の目の前に一人の同い年くらいの女の子がいた。誰だろうか。湊は疑問に思う。

 最初に目に付くのは有名なサッカークラブのジャージ。それ以上にその容姿に目を奪われた。短髪で、日焼けをしていて、活発そうで、とてもかわいい。ジャージじゃなければアイドルかと思ったかもしれない。

 しかし、その子は雨に濡れていない。雨粒はその身体を貫いて地面を叩いている。

 なんだ……どういうことだ……。湊は目の前で起きていることが理解できず、傘を前に持ったまま固まってしまった。

「こんばんは。その傘、私のなんだ」

 女の子はニッコリと微笑む。

 湊はその笑顔に心を射抜かれ、声を出すことが出来ない。

 湊が何も言わないので、女の子はおもむろに傘に手を伸ばす。

「えっ?何?何?」

 女の子の手はそのまま傘をすり抜ける。女の子は少し困ったように笑うと、うんと頷く。

 女の子の不可解な行動、その結果が湊の脳内をこれまでの人生で一番混乱させた。

「その傘、使っていいよ」

「ど、どういうこと?」

 その言葉に女の子は答えず、微笑みながら姿がぼやけて消えていく。

「えっ?何?ちょっと待って」

 湊は今起きたことへの解答を持っているだろう存在である女の子にすがるように手を伸ばす。ただ、その手は虚しく空を切った。

 何が起きたのか整理をしなければと湊は出来事を順番に思い出そうと試みる。

 傘を開いたらとびきり可愛い女の子が現れた。

 この傘は私のものだって言っていた。

 色々すり抜けてた。

 それから消えた。

 どういうことだろう。ここで湊の頭はパンクした。

 湊は何も考えずに傘をさす。

 うん……使って良いって言ってたし使わせてもらおう。

 それにしても可愛い女の子だったなあ……。あんな女の子と仲良くなれたらなあ……。

 頭がパンクして思考をやめた湊は全てをそっちのけにして、かわいい女の子のことだけを考えながら家に向かって歩き出す。

 そんな思考に占拠されていた湊だったが、視界の端に紫色がちらつくのが気になりそちらに思考が切り替わる。いつも通っているはずの夜の帳に隠された田んぼや畑、家々の風景が普段と違って見えてくる。傘が変わっただけでもこんなに変わるものなのかと傘を見上げると、紫色が優しく雨を受け止めてくれていた。

「この傘……良いな……」

 湊の口が自然と動く。本当に素晴らしい傘だと感じたからだった。

 傘を借りる前と比べて段違いに良い気分で家に帰った湊は紫色の傘を綺麗に畳み、そのまま持ってリビングに向かう。この傘は自分が借りたものだと家族に報告しなければならない。湊にはそんな使命感が芽生えていた。


 日曜日。今日は雨が降っていることもあり、部活は休みだと連絡網の電話が回ってきた。

 外ではどしゃ降りが続いている。予報では、このまま夜まで続くとのことだった。

 一晩寝たことで、湊の頭の中からは昨夜起きた超常現象のことは綺麗に消え去っていた。

 朝食を取った湊は部屋に戻り勉強をしようと机に向かったものの、集中が出来なかった。気分転換をしようと、本棚から湊の一番のお気に入りのサッカー漫画を選んで読み始める。 高校サッカーが舞台で、弱小校が努力に努力を重ねて強豪校たちに勝利してインターハイに出場、そしてインターハイを勝ち進んでいくというストーリーで、湊はこの漫画が大好きだった。しかし、今日は読んでいてもなんだか気分が優れず、逆に情けない気持ちがふつふつと湧き上がってくる。自分は練習をしても全く上達しないのに、漫画では皆上達している。自分はなんて無様なんだろうか。漫画を手にとって幾ばくもしないうちに、思考に暗雲が近付いてきてしまった。

 湊は無性に寂しくなり漫画を机に置いた。背もたれに身を任せて目を閉じると、昨日の女の子の姿が思い出される。

 あの子はクラブのジャージを着ていたな。きっと上手いんだろうな。イケメンでサッカーが上手いやつもいて、可愛くてサッカーが上手い子もいる。世の中はなんて不公平なんだろう。湊の思考に漆黒の雲が広がっていく。

 自分はどうしてこんなに弱いのだろう。考えたくもないことで頭がいっぱいになってきた湊は、椅子からふらふらと立ち上がりベッドに倒れ込む。情けなさとそれでも諦めたくないという自分でも制御できない感情が身体の中で踊り狂っている。何もかもを見たくない。目を腕で覆う。眠くはなかったが、今はそうすることしか出来なかった。程なくして湊の意識は安寧の地である夢の世界に沈んでいった。

 数時間後、湊を現実に引き戻したのは母親の声だった。

「湊、お昼出来たよ」

 昼食を食べる気力はなかった。それでも湊のために作ってくれているご飯を、体調不良でもないのに食べないのは母親に申し訳ない。

「今行く」

 のろのろと起き上がり、リビングへと向かう。


 湊は昼食を食べた後に勉強机に向かって、塾の教材を広げていた。しかし、握ったペンを手で弄ぶだけで、ノートのページは真っ白だった。ぼーっとしているうちに夕方になり、母親に呼ばれて数時間が過ぎている事に気がついた。

 早めの夕食を一人で食べる。あまり味を感じないまま食べ終えた。

 重い身体を引きずり、なんとか支度を終わらせて家を出る。

 塾に向かうまでの間、紫色の傘は湊を優しく雨から守る。しかし、湊の頭の中に漂う暗雲はとうとうその心に雨を降らせ始めてしまった。湊の行く先は、どしゃ降りによる雨粒のカーテンでよく見えなくなってしまっていた。


 湊は憂鬱な気分だった。塾の授業終わりに先週行われた模試の返却が行われたからだ。結果は英語が三十点、他が九十点以上というもので、その事実が湊に重くのしかかる。

 英語の講師に申し訳なくなるほどお世話になっているのに、どうして自分はいい点数が取れないのだろう。この結果を父親が見たら何て言うだろうか。すぐにでも塾をやめろと言われる気がする。湊の頭の中で漂う暗雲から落ちる雨粒は先程より大きくなり、その重い雨粒は絶え間なく心を打ち付けた。

 個人授業では講師が湊の様子を気にして勉強の前に話をしようと提案し、湊の座る机の前に椅子を持ってきて座る。

「どうしたいか聞かせてもらえるか?ちなみに、講師陣は全力でフォローしようと話し終わったところだ」

 講師の情熱は本物だった。しかし、湊は自分自身にそれをして貰うには値しないと思ってしまう。ただ、心の奥底にある憧れから遠ざかるのだけは嫌だった。

「……やめたくはないです」

 こんな顔は見られたくないと、湊は顔を伏せてしまう。

「そうか、その言葉が聞けただけでも嬉しいよ」

 講師は力強く微笑むが、湊はそれに気付くこともない。

「気が乗らないのであれば今日はこのまま帰ってもいいし、話を続けたいなら話をするのもいいな。もし、勉強がしたいのであれば勉強をしよう。何でも付き合うぞ」

 そんな優しい言葉に対しても、湊はまともに反応することが出来ない。今や湊の中の暗雲は嵐のようで、講師の優しさを受け取ることが出来ない状態になっていた。

 湊が話すのも難しそうな状態だと察した講師は言葉を続ける。

「よし、今日はゆっくりしようか。落ち着くまでここにいていいよ。俺は一旦トイレに行ってくる。もし帰りたくなったら俺を待たなくて良いからな」

 講師は席を立つと椅子をそのままにして、湊の方を一度ちらっと見てから教室を出ていく。

 湊はどうしたら良いのかわからなかった。手元を見つめているだけで、何も考えることができない。背もたれに体重を預けると、力がこもっていない身体はずるずると滑って机の下に落ちていく。ここに居ても迷惑になることだけは理解できる。帰ろう。それだけは決めることができた。

 脱力した身体に力を込めて机の下までずり落ちていた身体を起こす。机に広げた勉強道具を鞄にしまって立ち上がる。そこまでして、講師に挨拶だけでもしないといけないと頭をよぎった。

 そこへタイミングよく講師が教室に入ってきた。ハンカチで手を拭きながらほっとしたように笑みを浮かべている。

「遅れてすまんな。帰るか?」

「はい」

 湊はお辞儀をするが、それは講師の顔を見たくないからだった。

「今日は見送り出来ないけど、大丈夫か?」

 見送り出来ない。湊はその言葉に安堵する。

「大丈夫です。さようなら」

 講師の脇をすり抜けて入口まで小走りで進む。

「気をつけてな」

 講師の声は湊には届かなかった。

 湊は早くここから出たかった。何故か手は震えているし、足もガクガクしている。そんな状態だったのもあり、傘立てから紫色の傘を手に取るのも苦労した。入口の扉をひどく重く感じながら開ける。このガラス扉はこんなに重かっただろうか……。


 湊の中の豪雨とは裏腹に外の雨は弱まってきていた。

 雨に濡れながら歩くのも良いかなという思いがよぎるが、せっかくの紫色の傘を使わないのは勿体ないと考え直す。そのまま紫色で視界いっぱいにするため傘を開く。

 傘をさして目の前を見ると、昨日のかわいい女の子が心配そうな顔をして湊を見つめていた。

「こんばんは、今日は一緒に帰ろっか」

 湊には驚く元気も、考える元気もなかった。どうでもいいという態度で答える。

「いいよ」

「じゃあ、いこっか」

 女の子はスキップをするように歩いていく。湊は律儀にもそれを小走りで追いかけた。

 湊が追いつくと、女の子はにっこり笑いながら自己紹介をする。

「私は詩乃。君は?」

「湊」

 ぶっきらぼうになってしまったが、それを謝る気力はなかった。

「湊、ね。湊と少し話をしたいんだ。いいかな?」

 詩乃は湊の前に回り込んで顔を覗き込み、ふふふといたずらっ子のように笑っている。

「……自分なんかで良ければ」

 湊は美少女に見つめられたことなんてなかったので、なんだか無性に恥ずかしくなり、そっぽを向いてしまった。

「えへへ、やったー!」

 喜ぶ詩乃の声はとてもかわいい。湊の思考は詩乃への興味でいっぱいになっていく。どんな子なんだろう。そんな考えまで浮かび始めて、目をそらしたはずなのに詩乃の方に目を向けてしまった。

「私はね、サッカーが大好きなんだ!湊もサッカーしてるよね?」

 弾けるような笑顔で詩乃は湊に話しかける。湊はそんな笑顔に胸を射抜かれながらも、何故サッカーをやってることを詩乃が知っているのか疑問に思った。

「なんで知ってるの?」

 詩乃は湊からちょっと目を逸らして小さな声で呟く。詩乃の脳裏には、中学校のグラウンドで詩乃の同級生相手に頑張っている、今より幼い姿の湊がしっかりと焼き付いていた。

「あちゃー……」

 その声は湊には聞こえなかった。声を出したことで気を取り直した詩乃は、湊に向き直り胸を張る。

「……勘だね!サッカーが好きそうな顔してる」

 湊は間髪容れずにそれに反論してしまう。

「サッカーは辛いだけだよ」

 その言葉で詩乃が悲しそうな顔をした。湊はさっきまで満面の笑みだった詩乃をそんな顔にさせてしまったことにいたたまれなくなり、また顔をそらしてしまう。

「でも、湊はかっこいいよ」

 かっこいいという言葉に湊は拒絶反応を起こしてしまい、顔を勢いよくあげて詩乃の方を睨む。詩乃はとてもかわいく、そして笑顔だった。

「かっこいいなんて言われたことないよ。俺なんて……こんなだし……サッカーも下手だし……何もかっこいいところなんてない……」

 言ってるうちに悲しくなって言葉は尻すぼみになっていく。

「そんなことないけどな」

 詩乃がむっとして言う。

「そんなことあるよ」

 湊はそこに関しては譲れなかった。

「そんなことないよ」

 詩乃は意地でも引く気はないようだった。そんな詩乃にたじたじになりながら湊は言葉を荒げてしまった。

「そんなことあるよ!」

 思ったよりも大きな声が出てしまい、湊は自分でびっくりしてしまった。詩乃は真剣な表情で湊を見据える。

「私はそんなことないって思ってる。それは湊が何を言っても変わらないよ」

 湊は何が言いたいのかわからなかった。

「詩乃は何が言いたいの?」

「私がかっこいいと思った気持ちは、私だけのものなの。湊が自分をかっこよくないって思ってても、私の気持ちは変わらないの。わかる?」

 考えたくもない、言いたくもなかった自分を貶める言葉が湊の脳内で暴れまわる。

「そんな事言われても、見た目はこんなだし、サッカーもうまくならないし、かっこいいわけがない」

 頭がクラクラしながらも、それを言葉として吐き捨てた。詩乃は微笑んでその言葉を優しく拾い、キリッとした顔で湊を見つめる。

「見た目がどうとか、サッカーが上手じゃないからとか、細かいことを気にしすぎ!」

 湊は詩乃の迫力に腰が引けてしまったが、負けじと言い返す。

「俺にとっては大事なことなんだよ!」

 またしても大きな声が出る。湊は詩乃との言い合いの中で知らず知らずのうちに、目の前の不思議な女の子が何でも話せる特別な存在になっていた。

 詩乃はまたしても優しく微笑む。

「私は湊にサッカーをやめてほしくないよ」

「なんで?」

「……えーっと……私がやめてほしくないから!」

 詩乃は根拠のない自信を持ったかのように胸を張る。湊は詩乃が自分に対してなんでこんなことを言ってくれるのだろうと少し不思議に思い、詩乃を見つめる。

 詩乃は優しく微笑んでいた。包みこんでくれるような詩乃の態度に寄りかかるように、雨粒により心に穿たれた穴から湊の感情がとめどなく流れ出てくる。

「サッカーは辛いよ。もうやりたくない」

 湊の心は涙を流していた。その涙が言葉になる。詩乃は優しげに湊の心に手を差し伸べる。

「サッカーだけじゃないよね」

 その言葉を発した詩乃の表情と声色は、これまでの湊の人生で出会ってきた誰よりも優しく、そしてかわいかった。そして、詩乃の優しさは湊の心の穴を大きくして、感情を吐き出させた。

「……全部……辛い」

 詩乃に開けられた心から、湊の心の奥底にあった膿が流れ出していく。

「生きてて、辛い」

 湊は俯いていて詩乃を見ていなかったが、詩乃はそっと湊に手を添える。その手は湊に触れることが出来ない。

「辛いよね。でもね……私はもう湊みたいに生きてて辛いって言えないんだ」

 詩乃は一度区切って湊が顔を上げるのを待つ。

「え?」

「私、もう死んじゃってるから」

 詩乃は何ともないようにえへへと笑った。自らが死んだという発言をしたのにも関わらず笑顔を見せる詩乃に、湊は何を言えば良いのか全くわからず黙って歩くしかなかった。詩乃もそれに対して無理に言葉を発することはなく、微笑みながら隣を歩いた。

 二人は無言のまま歩を進めて、駅から約十分程度の場所にある交差点に差し掛かる。

「ここが、私の死んだ場所」

 詩乃の口調は意を決したように少し強いもので、表情は全くなかった。当時のことを思い出しているのか身体を震わせている。

 湊はそれに対して何も言うことが出来なかった。

 交差点の歩道にある電柱には事故多発の看板があり、その看板の下には小さな瓶に花が数本刺さっていた。雨粒がポツポツと落ちるたびに花びらがゆっくり揺れている。雨足はだいぶ弱くなったようだ。

「大丈夫だよ」

 詩乃は無理やり湊に対して笑顔を向ける。その笑顔は儚くて、それでも強い意志を持っている。こんなに美しいものがこの世界にあるのかと湊は胸が締め付けられた。

「湊、大丈夫。ほら、行こう」

 青信号を二人で進む。詩乃は身体を震わせながらも、湊に微笑み続けている。湊はその笑顔に釘付けだった。

 無言で二人は歩く。

 交差点から少し離れたところで、ずっと口を閉ざしていた詩乃がぽつりと話し始めた。

「その傘ね、塾に忘れちゃって。おばあちゃんが死んじゃう前にくれた最後のプレゼントだったんだよね」

 詩乃は空を見上げてから、湊に向き直り言葉を続ける。

「大事な、本当に大事なものだったんだ。……そんな大切なものを忘れちゃったからバチが当たったのかな」

 優しい小粒の雨が詩乃の顔を隠す。

「えへへ」

 湊が認識できたのは、とても小さな声と、笑おうとしているものの、それが叶わない寂しそうな表情だった。

 詩乃に何を言えばいいのかわからない。ただ詩乃を一人にさせたくない。そんな想いに突き動かされた湊は、手をつなごうと詩乃にそっと手を伸ばした。そんな想いも虚しく、湊の手は無情にも詩乃の手をすり抜ける。それを見て、詩乃は優しい表情で心から言葉を零した。

「辛いね」

 詩乃も湊の手に手を重ねようとするが、やはり手が重なることはない。

「辛い」

 湊も心から言葉を零す。そしてどうしようもなくやるせない気持ちが湧き上がり、行き所をなくした感情と共に立ち止まってしまう。

 傘をさしているはずの湊の頬に水滴が流れていく。それに気がついた湊は急いで腕で拭い、目を擦る。ぼやけた視界が少しずつ晴れていくと、詩乃の顔がはっきり見えた。雨があがったのだ。

「傘はもういらないね」

 詩乃は少し寂しそうに傘に目を向ける。湊はそれを受けて、丁寧にゆっくりと傘を畳んだ。湊は歩こうとするが、足が地面に縫い付けられたかのように動かない。

 それを見た詩乃は走り出した。その姿はまるでサバンナを駆ける動物のように軽やかで、とても綺麗だ。詩乃は少し先で振り返り、両手をメガホンのようにして湊に呼びかける。

「行こう!」

 その言葉は湊の身体に染み入る。そして、動かなかった足が動き出し、一歩を踏み出した。そのまま足がどんどん軽くなっていき、足が前に前にと動き始める。そして湊自身も詩乃の隣に行きたいと強く願い、走り出した。

 詩乃は湊が追いつくまで待っていた。湊が隣に来たところで、詩乃はまた走り出す。詩乃に追いつきたくて湊はがむしゃらに走る。詩乃はとても速い。詩乃は湊との距離をぐんぐんと離していく。

「湊!頑張れ!」

 詩乃は走りながら、声高らかに叫ぶ。詩乃の言葉で湊の頭の中が満たされていく。頭を侵食していた暗雲の合間から光が差し始める。

「湊!頑張れ!」

 もう一度詩乃が叫ぶ。光が強くなっていき、暗雲が徐々に晴れていく。降り注いだ光が湊の心に穿たれた穴を埋めていく。

 詩乃は今どんな表情をしているんだろうと湊は気になったが、確認しようにも詩乃との距離は縮まるどころか離れていく一方だった。

 程なくして、湊の少し先を走る詩乃は湊の家の前に到着すると振り向いて手を広げる。

「がんばれー!」

 詩乃の声が湊の頭の中に響く。とても心地良い。疲れた身体を癒してくれる。

 全力で走り続けた湊は、詩乃から少し遅れて家の前に着いた。

「とうちゃーく!」

 湊が到着すると同時に、詩乃は歓声をあげる。詩乃の声は湊の心にあたたかいものをもたらした。身体の疲れも、今はなんだか良いものだと感じられる。

 ただ、湊の身体は全速力で走り続けたことでまともに動かず、膝に手をついて息をする。心臓がバクバクしていて、自分の呼吸音がうるさい。自分の中にある詩乃の声が上書きされてしまうんじゃないかと、心配になる。

 そんな湊の顔を、詩乃はしゃがんで見守っていた。詩乃の顔が近く、湊は恥ずかしくなるが目をそらすことはなかった。詩乃は湊と見つめ合って、えへへと笑った。

 湊の心臓はまだバクバクしてうるさかったが、腕に力を入れて身体を起こす。それに合わせて詩乃も立ち上がった。

「湊には頑張っているで賞を私からあげます!」

 詩乃は突如賞状を渡すフリをする。

「……なんで?」

「湊が頑張ってるからです」

「……頑張ってないよ」

「いーえ、頑張ってます。今私を追いかけてくれたでしょ」

「……頑張ったわけじゃない」

 詩乃はむーと唸り、ビシッという効果音が似合うような指差しをする。

「細かいことは気にしない!湊はよく頑張ってます!私が決めました!」

「強引だなあ……」

 湊は笑ってしまった。それに釣られるかのように詩乃も笑い、ここまでの言い合いとはうって変わって優しげな声で語りかける。

「今日は一緒に帰ってくれてありがとう」

「こんなことで良ければ毎日でも付き合いますよ。お嬢さん」

 湊は少しだけかっこつけてみる。

「ほら、かっこいい」

 詩乃は朗らかに笑った。

 そのまま、詩乃は空を見上げる。湊もそれに釣られて頭上を見ると、月は隠されていたが、黒い雲に寄り添うように星空が広がっていた。

「綺麗だね」

「うん、綺麗だ」

 湊は晴れ晴れとした気持ちで詩乃に向き直る。詩乃の表情はまるで天に輝く一等星のように綺麗だった。

「傘、大事にしてね。約束だよ」

 詩乃は湊を見つめて小指を立てながら、その姿が揺らいでいく。湊は慌てて小指を差し出した。


 雲が空を流れゆくように日々が過ぎ去っていく。

 晴れの日には常に一等星が頭上にあった。

 雨の日には常に紫色の傘が頭上にあった。


 ……意識が戻るのは、何時ぶりだろうか。

 ……遥か昔の、だけどずっと心に焼き付いていた光景を見ていた気がする。

 ……そうだよな……借りもんだもんな……あれだけは返さねえと……。

 朦朧とした意識の中で、身体に力を込める。最後まで頑張ると決めたはずだ。

「……傘は……俺と……燃やしてく……れ……」

 その言葉を残した老人は、傘と共に空へ昇っていった。



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空で再会する俺と貴女 ささきほさか @meikyoku

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