③
エウリディオスは、ヘロメニスと協力してあばら家を組み上げると、そこを拠点として、バダナガラに溢れかえる病人を片端から診察し始めた。
終の街の住人は、言うを待たずや無一文である。
エウリディオスは、治療によって健康を取り戻した者に、必ずこう尋ねた。
「これから先の当てはあるのか?」
「ある」と答えた者には、幾何かの路銀と食料を渡し、送り出してやった。
「ない」と答えた者には、仕事を与え、生活していけるよう取り計らった。
§ § §
「バダナガラに、神のような医者がいる」
その噂は、風よりも速く拡散し、各地から重篤な患者が運び込まれるようになった。
その中には、裕福な者も多くいた。エウリディオスは、彼らに対しては遠慮することなく報酬を要求し、それを元手に、井戸を掘り、畑を耕した。
バダナガラは、三年も経たないうちに、人間社会の掃き溜めから小さな村へとその姿を変えていた。
§ § §
「バダナガラという、それはそれは豊かな村がある」
そんな噂に惹かれ、多くの流民が流れ込んだ。
彼らを全て受け入れてまだ余裕があるほど、バダナガラの懐は深かった。
賢明な指導者、豊富な食糧、卓越した技術力――そして、死を恐れず心安らかな住民たち。
その豊かさに、野盗の集団が目をつけた。
「聞けば、不具者と無宿者が寄せ集まってできた村らしい」
「少し脅せば、慌ててなにもかも差し出すだろうよ」
そのような野盗側の目論見は、ものの見事に外れることになる。
交渉という名の恐喝に出向いた野盗たちは、意外なことに、村で大いに歓待された。
宴会の席で、エウリディオスと名乗る村の医者が、こんなことを尋ねた。
「あなた方は、なぜ野盗などをしているのですか?」
「そりゃあ、居場所が無いからだ。食い物も無い。それでも生きていくためには、野盗でもするしかないだろうよ」
「でしたら、この村にいらっしゃい。真面目に働く者には、居場所も食も保証されますよ」
野盗は、その提案を一笑に付した。
「もっといい手段がある。力ずくでこの村ごと奪い取る――どうだ、最高じゃないか」
エウリディオスは、その威圧を物ともせずに、
「そうだ、ちょっとした余興をお見せしましょう」
そんなことを言って、野盗たちを村はずれへと誘った。
そこは、弩弓(クロスボウ)の訓練場であった。
目の見えない男が矢を台座にセットし、弦を引き絞る。それを隻腕の男が受け取り、放つ。
――矢は、およそ百歩先の的に見事命中した。
二人一組で運用することで、弩の弱点である連射性を補うという発想。そして、射手の腕前もさることながら、弩それ自体の性能も圧倒的であった。戦に慣れた野盗たちは、この村が侮れない戦力を秘めていることを直ちに理解した。
エウリディオスは自ら弩を手に取ると、二百歩先の的に狙いを定め、
「この村で戦に出ることができるのは八百人程度。皆、弩の訓練をしっかりと積んでいます。私のような医者でさえ、これくらいのことはできる」
放たれた矢は、的の中央を貫いた。
「――そして、我々は死を恐れません。最後の一人になろうとも戦い続けます」
数日が過ぎた頃、バダナガラに新たな住人が増えたことについて、改めて描写はしない。
§ § §
いつの間にか、バダナガラの人口は一万を超えるほどになっていた。
エウリディオスの指導の下、人々は、戦火に損なわれることもなく、飢えることもなく、老いを憂えることもなく、死を恐れることもなかった。
迫害された経験を持つ多くの住民たちにとって、この街は理想郷であった。
もちろん、不満分子がいなかったわけではない。しかし、その彼らにとっても、他の場所に比べれば、ここがはるかにマシであることを理解していたのである。
§ § §
エウリディオスは、演台に上がり、聴衆の方に向きなおった。
この日、彼が語るつもりであったのは、「バダナガラの思想を世界中に広める」という壮大な計画であった。
「人類を遍く救済せん」
若き日に抱いたその理想が、今、大きく前進しようとしていた。
公共広場には、バダナガラの半数以上の人々が集まり、指導者の言葉を待ち受けている。
最前列には、ヘロメニスの姿があった。幼かった彼も、今や精悍な青年となり、大舞台に望む師を、熱いまなざしで見つめている。
そんな愛弟子の姿を見て、エウリディオスは目を細める。
(あと少しで月も満ちる。そうすれば、私がいなくなっても問題はあるまい)
ふと、視界に黒いものがちらついた。
見れば、ヘロメニスの隣に、黒衣の男が佇んでいる。
その白い顔は、恐ろしいほど整っていた。
まるで、作り物のように――
(どこかで見たことがある……どこかで……)
エウリディオスと男の視線が交錯した。
男は、満面の笑顔を浮かべると、言った。
「やあ、心の友よ、希望の果実を収穫に来たぞ」
その言葉を耳にした瞬間、エウリディオスは全てを思い出した。
かつて味わった三千九百六十三億七千九百五十四万八千八百四十一回の死が、彼の脳内を再び
この世のものとは思えぬ絶叫が、広場に集う人々の耳を
「嫌だッ!もう死ぬのは嫌だぁッ!死にたくない!やめろ!やめてくれ!」
エウリディオスの顔は、恐怖によって醜く歪み切っていた。
威光に満ちた指導者の姿は、もうそこには無い。
残されていたのは、死に怯える哀れな老人であった。
「イタイ カユイ アアア シニタクナイ コワイ イタイイタイ アアア」
果たして彼は、どれほどの時間、苦しみ続けたのだろう。
それは一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり――ともかく、へロメニスが壇上に駆け上がったとき、エウリディオスは、すでに物言わぬ死体となり果てていたのである。
§ § §
群衆は、目の前で起きたことを理解できず、呆然としていたが、やがて――
「おい、エウリディオスが動かないぞ。まさか……亡くなったのか!?」
「分からぬ……それにしても、死は永遠の安息ではなかったのか?」
「あんなに怯えて……これは一体……どういうことなのだ!?」
そのとき、黒衣を纏った男が大声を上げた。
「何ということだ! 俺たちは皆、あの
「馬鹿なことを言うな!」
エウリディオスを必死に蘇生させようとしていたヘロメニスは、その言葉を耳にすると、憤怒にかられて男を殴り飛ばした。
男が、頭から地面に倒れ込む。
打ち所が悪かったのか、耳から鼻から、まるで冗談のような勢いで血が流れだす。
床を染めていく赤黒い液体は、混沌の呼び水であった。
群衆の中から、どこかで聞き覚えのある声が響いた。
「殺した! ヘロメニスが罪なき者を殺した!」
その場に居合わせた者たちは、皆、心の拠り所を失っていたものだから、混乱は、瞬く間に伝染した。
「何?ヘロメニスがエウリディオスを殺したのか!?」「違う、エウリディオスが先に皆を裏切ったのだ」「落ち着け、エウリディオスを信じろ!」「武器を取れ!裏切者を許すな」「ヘロメニスが裏切者なのか?」「ヘロメニスがエウリディオスを刺したということか?」「ヘロメニスがエウリディオスを刺し殺したのだ、俺は見た!」「死は、永遠の安息ではなかったのか!?」「エウリディオスのあのザマを見ただろう」「落ち着け!」「死を受け入れろ!死を受け入れろ!心をどうか安らかに!」「殺される前に殺せ」「早く逃げろ!」「逃がすな、殺せ」「家族を守れ!」「押すな!押すな!」
心穏やかな人たちは、もうどこにもいなかった。
暴徒と化した群衆は、冷静を呼びかける同胞を血祭に上げると、本能のままに殺し合い、殿堂を破壊し、エウリディオスの教えを刻んだ粘土板を
§ § §
街に取り残された脚萎の女が、息を引き取ろうとしていた。
動けぬ身であれば、暴徒が街に放った火に焼かれて死ぬか、あるいは煙に巻かれて命を落とす方が、まだ幸いだったかもしれない。
運悪く生き延びてしまった彼女は、飢えと渇きによる緩慢な死を受け入れざるを得なかったのだから。
黒衣の男は、そんな最後の住人の死を見届けると、満足げに手を
そして、その余韻が消えゆく頃には、男の姿は、もうどこにも見えなかった。
かくして、バダナガラという名の見世物は幕を閉じたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます