日が暮れようとしていた。


 薪に火を付け、エウリディオスはようやく腰を下ろす。

 彼は頑健ではあったが、朝から休みなく動き続ければ、さすがに疲れが押し寄せる。


 ヘロメニスが、遠くの沢まで水を汲みに行っている。


(近くに清潔な水場を確保する必要がある……これは最優先事項だ……)


 そんなことを考えていたとき、焚火を挟んだ向こう側に、奇妙なものが見えた。


 闇の中、若者の青白い顔だけが浮かんでいる。

 揺らめく炎の光に照らし出されたそれは、不安になるほどの美しさをたたえていた。


 エウリディオスが反射的に身構えると、白面は穏やかな声で言った。

「驚かせてしまって申し訳ございません。もしやあなた様は、エウリディオス殿ではありませんか?」

「いかにも、エウリディオスである」

「ああ、よかった、ようやくお会いすることができた」


 青年が前に進み出た。

 なるほど、彼は黒づくめであったから、顔だけが闇に浮かんで見えたのだ。


「私はウー・マオと申します。あなたに教えを乞うために、遙か東は長安の都から参上いたしました」

 黒衣の青年は跪いてそう口上を述べると、エウリディオスの目の前に、大きな銀の延べ棒を差し出した。

「ささやかながら、束脩そくしゅうでございます。どうかお納めください」


 理想を実現するためには、先立つものが必要である。

 エウリディオスは、延べ棒を遠慮することなく受け取ると、咳払いをしてから、教師にふさわしい重々しい口調で言った。


「承った。それでウー・マオ殿は、私から何を学びたいのかな?」

 


              § § §



 エウリディオスは、我こそが天下第一の人物であると密かに自惚れていた。


 それがどうしたことか、相対しているこの東洋人は、たったの数刻で自分に匹敵する学識を備えていることを示してみせたではないか。


 さらに悔しいことには、特定の分野――例えば天文学などに関しては、彼が己よりはるかに優れていることを認めないわけにはいかなかった。


(世界は、広い……)


 エウリディオスが打ちひしがれていると、ウー・マオがぽつりと言った。


「我が国の聖人が、このような言葉を遺しております。

『生について理解していない我々が、どうして死を理解できるだろうか』と――

先生にお尋ねします。あなたは、死についてどのようにお考えになっていますか?」


 エウリディオスは一つ頷くと、かつて四肢が欠けた老人に語ったことを繰り返した。そして、死に対する恐怖を克服し、死を受け入れることこそが究極の幸福であると述べたのである。


 すると、どうだろう。ウー・マオの体が、小さく震え出した。


「うふふ、先生、よろしいのですか?」


 揺れは、だんだんと大きくなる。


「は、あは、死を、恐れないで、受け入れてしまって、本当によろしいのですか?」


 口から、常軌を逸した笑い声が響き渡る。


「ひひあは、あはは! うひあは、あはは! あはは、ははは、あはははは……

死の先に、何があるのかもわからないのに、よろしいのですか!?

く、く、くくく……あはは、あっはは、ははははは、はははっははあはははっは、

よろしいのですか!? 本当に!? よろしいのですか!? 本当に!? 本当に!?

あははっははあああああああああはははっはははははっははははははは!!」


 ウー・マオは、もはや座っていることもできず、這いつくばりながら笑っていた。

 エウリディオスが、その様子を呆然と眺めていると――


 ぽとり


 白皙はくせきの美しい仮面が、地面に落ちた。


 慌てて顔があったところを見れば、そこには漆黒の闇が――全ての光を捕えて逃がさぬ深淵が広がっていた。

 焚火の灯りはもとより、星影ですらことごとく飲み込まれ、エウリディオスは完全なる闇の中に取り残された。

 


              § § §



 エウリディオスは、この場所が死後の世界であると確信した。

 いや、不可思議な力で、と言った方が正確かも知れない。


 そして見た。


 聞いた。


 触れ、味わい、嗅いだ。




 エウリディオスは、兄に撲殺された弟であり、呪いによって果てた野人であった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――王に供せられるため蒸し焼きにされた赤子であり、エレキギターで感電死したギタリストであり、味方に見捨てられ火刑に処された聖女であり、恋敵との決闘で敗死した数学家であり、全身に蜜を塗られ蟲の巣穴に放り込まれた兵士であり、耳に熱した金属を流し込まれた刑死者であり、腹が裂けるまで牛乳を流し込まれた王子であり、地下室で自らの頭を撃ち抜いた独裁者であり、恥辱のあまり憤死した聖職者であり、茶釜を抱えて爆死した武将であり、排尿を我慢したあげく膀胱が破裂した天文学者であり、生きたまま埋葬された皇帝であり、ゴミ処理車に叩き込まれたギャングであり、毒を飲まされ銃撃された上に川に放り込まれた僧侶であり、―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――そして、太陽に飛び込んだ最後の人類でもあった。



              § § §



 どれだけの生と死を繰り返したことだろう。

 気がつくと、目の前に黒衣の男が立っていた。

 どんなに目を凝らしても、顔だけは茫漠として認識することができない。

 ただ、意地の悪い笑顔を浮かべていることだけは、なぜだか理解できた。


「死は安息などではなく、新たな苦痛の始まりであることを御理解いただけたか?」


 男の声は、まるで脳内に直接響くようであった。

 エウリディオスは、なけなしの気力を振り絞って答えた。 

「……なんだ、もうお終いか。ずいぶんとお粗末な眩術めくらましよな!」


「おお、おお、まだ抵抗するか。エウリディオスよ、お前は素晴らしい。こんなに愉快なのは、この時から四百六十六万四千八十八時間前に、菩提樹の下でみすぼらしい苦行僧をとき以来だ。彼奴あいつは真実に耐えかねて、自分だけは輪廻の外に抜け出したなどと強がってみせたが……今頃は南武線の終点辺りで、大工の倅と現実逃避でもしているんじゃないかな」


「何を言っている? 意味が分からぬぞ!? お前は……お前は一体……?」


「それを教えてやることはできない。あの素人校閲者が私を認識し、【繝九Ε繝ォ繝ゥ繝医?繝??】なる名前で呼ぶのは、これから千六百八十万千六百八十時間後のことだからな。今の時代を生きるお前が我が名を知ってしまうと、いささか不都合が生じてしまう。なに、読者の皆様ならば、既に察しがついていることだとは思うが……」


 無貌ウー・マオはそう言ってに手を振ると、狂ったように笑い出した。




 雷や火山の噴火、日蝕や月食、潮の満ち引きや河川の洪水――エウリディオスは、この世の森羅万象が、各々の法則に基づいて活動していることを理解している。

 だからこそ、神を恐れることはない。

 神などというものは、人々が手に負えない自然現象に対し、恐怖を紛らわすためにとりあえずの名前をつけたものに他ならないと考えていたからだ。


 しかし、目の前にいる存在は、そのようなものではありえなかった。

 正真正銘の邪なる神、この世の理の外にいる悪意の体現者――


 そのことを理解してしまったエウリディオスは、とうとう精神の糸が切れた。

 この世に生まれ出たばかりの赤子のように怯え、泣きわめいた。


 無貌は、その様子を見ると、嘲るような口調で言った。

「未来の可能性は無限だ。だから、円環も一つきりではない。先程の旅で全てが終わったわけではないぞ。ほら、ほら、永遠に循環し、苦しみ続けるがいい」


 エウリディオスは、必死に無貌の足元に縋りつく。

「わかった! わかったから、もうやめてくれ! なぜ、お前は私にこんな仕打ちをする?」

「特に理由は無いが……そうだなあ……強いて言うならば、人間が死を恐れなくなるのが嫌だからだ。だって、そうだろう。死を恐れなくなれば、裏切りも、戦争も、差別も――美しくて楽しいものが全てなくなってしまう。それは、ひどくつまらないことではないか」

「ならば、何もしなければ良いのか? そうすれば許されるのか!?」

「いや、お前はこれまでどおり、人々を救い続けるのだ。そのほうがより良い喜劇となるからな――それでは、しばしの別れだエウリディオスよ。せいぜい希望の種を蒔くがいい。それが芽を出し、花開き、実を結ぶ頃に、また相見えることになるだろう」

 

 無貌は、エウリディオスを振り払うと、闇の中へと消えていった。



              § § §



「――お師匠! お師匠!!」


 ヘロメニスに揺さぶられ、エウリディオスは目を覚ました。


 目の前では、焚火が暖かな光を放っている。

「……すまない、悪い夢を見ていたようだ」

「どんな夢を見たんだい?」

「それが、まったく思い出せぬ……ひたすらに恐ろしかったことだけは憶えているのだが……」 

 

 その時、ヘロメニスの目に、何やら輝きを放つものが目に入った。

 指の無い手で拝むようにして拾い上げてみると、それは大きな銀の延べ棒であった。

 

「お師匠、お師匠、いくら疲れているからと言って、こんな大切なものを放り出しておいたら、危ないぞ。明日、これを市場に持って行って、食糧や薬と交換するんだろう?」


「ああ、すまない。今日の私は、どうかしているな……」

 

 その銀の延べ棒は【繧ヲ繝シ繝サ繝槭が縺ィ蜷堺ケ励▲縺滓嶌逕溘】―――――先日、貴族の娘を治療した代価として頂戴したものであった。

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