①
かの三博士がベツレヘムへ向け旅をしていた――そんな時代の話である。
哲人エウリディオスは天下の通才にして、故郷の
この時、齢三十。当世において最も才知に長けたこの男は、「人類を
§ § §
太陽と月が七たび巡り、バダナガラと呼ばれる地に差し掛かった時のことである。
エウリディオスは、誰かが泣き叫ぶ声を耳にした。
足を止めて辺りを見やれば、そこかしこに人間が横たわり、のたうち回っている。
――体中が水疱で覆われ、眼鼻の区別もつかない病人
――痩せ衰え、干物の様な姿をさらす老人
――太陽に向け、ひたすらに悪態を吐き続ける狂人
この地は、世界に見放された者たちが流れ着く終着点。故にバダナガラ――即ち「
エウリディオスは、地面に横たわる人々の中で、最も死に近しい者へと歩み寄った。それは、四肢が欠損した老人であった。身に纏っているのは膿と
エウリディオスは老人を抱きかかえると、木陰へと連れて行った。
それから、萎びた体にたかる蟻や蠅を丁寧にこそげ落とすと、体を清め、強壮剤を飲ませてやった。
程なくして、老人は目を開いた。そして――
「イタイ カユイ アアア シニタクナイ コワイ イタイイタイ アアア」
あらん限りの力で、胴だけになった体をくねらせる。
エウリディオスは、老人の口に芥子から抽出した秘薬を流し込んだ。
やがて痛みが消え去ると、老人の表情が穏やかになった。
理性を取り戻した老人は尋ねた。
「あなたは、もしや祭司さまではありませんか。でしたら、
「そんな大層な身分ではない。ただの
「なぜ、拙のごとき卑しき者に、
「御老体が傷つき、恐れていたから。それが見過ごせなかった」
老人は、異国の客の意図がまったく理解できず、戸惑いながら言った。
「拙のような者は、生に苦しみ死を恐れる、そうした業を背負っているのです」
「それは違う。違うのだ――」
エウリディオスは老人に語った。
痛苦も恐怖も、全ては脳が発した電気的信号に過ぎないこと。
死は、脳が活動を停止することであり、究極にして永遠の安息であること。
その真理を、無学な老人にも理解できるよう、比喩を交えながら語り続けた。
§ § §
それから二日後、老人は穏やかな顔で息を引き取った。
そんなエウリディオスの行いを、不思議そうに眺めている者がいた。
「指欠け」――身体的特徴から、そのように呼ばれている少年である。
名前なぞは端から存在しない。社会の最下層に生まれつき、
誰の目にも見えるかたちで罪の証を刻まれた少年は、もはや人間として扱われなかった。野良犬のように石を投げつけられ、箒で追いやられ、終の街へと流れ着いたのである。
老人を看取ったエウリディオスの足元に、指欠けが纏わりつく。
「おい、旦那。その爺を食べるつもりだったら、俺にもオコボレをおくれよ」
「……なるほど、腹は膨れるだろうが、やめておけ」
エウリディオスは、指欠けの口に固く焼しめた小さなパンを放り込むと、人肉を口にすることによる不利益を、寄生虫および感染症の観点から
指欠けは、生まれてこの方、「体に良いか悪いか」で食物を選んだことがなかった。
目に入った弱い生物を、咀嚼し、とにかく腹に詰め込む。
あれこれ考えている暇は無い。まごまごしていれば、奪われる。
それが彼の日常であったから。
指欠けは、パンの微かな甘みをじっくり味わってから、喉でも味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
そして、腹の辺りを満足そうに撫でながら、こんなことを言った。
「人の肉を食べない方がいいのは、わかったよ。でもさ、何でも食わなきゃ、すぐにひもじぅなるぞ? ひもじぅなれば動けなくなる。動けなくなれば、食われるぞ?」
少年の言葉には、事の本質を見抜く知性が潜んでいた。
(上手く導いてやれば、この世の
エウリディオスの直感が、そのように告げていた。
「そうだ。お前の言うことは正しい。まずは、食糧の問題を何とかしよう。
「
「私が産まれた国の言葉で『欠けた月』を意味する。お前の努力次第では、いつか、満月となることもできるだろう」
少年の胸が高鳴った。
この立派な人についていけば、すごい事が起きるような気がした。
「わかった! 俺は今日からヘロメニスだ! で、ヘロメニスはどうすればいい? どうすればいっぱい食べられるようになる?」
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