かの三博士がベツレヘムへ向け旅をしていた――そんな時代の話である。


 哲人エウリディオスは天下の通才にして、故郷の希臘ギリシアにおいて天文・地文・人文の三学を極めたのち、天竺インドへ渡り、「阿育王の九人の賢者団」の秘奥を余すところなく体得した。

 この時、齢三十。当世において最も才知に長けたこの男は、「人類をあまねく救済せん」との大望を抱き、名もなき川のほとりを海へ海へと下っていった。



              § § §



 太陽と月が七たび巡り、バダナガラと呼ばれる地に差し掛かった時のことである。


 エウリディオスは、誰かが泣き叫ぶ声を耳にした。

 足を止めて辺りを見やれば、そこかしこに人間が横たわり、のたうち回っている。


 ――体中が水疱で覆われ、眼鼻の区別もつかない病人

 ――痩せ衰え、干物の様な姿をさらす老人

 ――太陽に向け、ひたすらに悪態を吐き続ける狂人


 この地は、世界に見放された者たちが流れ着く終着点。故にバダナガラ――即ち「ついの街」の名を冠していた。


 エウリディオスは、地面に横たわる人々の中で、最も死に近しい者へと歩み寄った。それは、四肢が欠損した老人であった。身に纏っているのは膿と瘡蓋かさぶたのみ。瞳は固く閉じられ、意識があるのかも定かではない。


 エウリディオスは老人を抱きかかえると、木陰へと連れて行った。

 それから、萎びた体にたかる蟻や蠅を丁寧にこそげ落とすと、体を清め、強壮剤を飲ませてやった。


 程なくして、老人は目を開いた。そして――

「イタイ カユイ アアア シニタクナイ コワイ イタイイタイ アアア」

 あらん限りの力で、胴だけになった体をくねらせる。


 エウリディオスは、老人の口に芥子から抽出した秘薬を流し込んだ。


 やがて痛みが消え去ると、老人の表情が穏やかになった。


 理性を取り戻した老人は尋ねた。

「あなたは、もしや祭司さまではありませんか。でしたら、わたしに触れてはいけません。穢れた身でございます故」

「そんな大層な身分ではない。ただの渡者わたりものだ」

「なぜ、拙のごとき卑しき者に、斯様かようにも尽くしてくださるのですか?」

「御老体が傷つき、恐れていたから。それが見過ごせなかった」

 老人は、異国の客の意図がまったく理解できず、戸惑いながら言った。

「拙のような者は、生に苦しみ死を恐れる、そうした業を背負っているのです」

「それは違う。違うのだ――」


 エウリディオスは老人に語った。

 痛苦も恐怖も、全ては脳が発した電気的信号に過ぎないこと。

 死は、脳が活動を停止することであり、究極にして永遠の安息であること。

 その真理を、無学な老人にも理解できるよう、比喩を交えながら語り続けた。

 


              § § §



 それから二日後、老人は穏やかな顔で息を引き取った。


 そんなエウリディオスの行いを、不思議そうに眺めている者がいた。

「指欠け」――身体的特徴から、そのように呼ばれている少年である。

 名前なぞは端から存在しない。社会の最下層に生まれつき、偸盗こそどろによって糊口をしのいでいたが、捕まり、私刑によって両の手の指を切断された。


 誰の目にも見えるかたちで罪の証を刻まれた少年は、もはや人間として扱われなかった。野良犬のように石を投げつけられ、箒で追いやられ、終の街へと流れ着いたのである。


 老人を看取ったエウリディオスの足元に、指欠けが纏わりつく。

「おい、旦那。その爺を食べるつもりだったら、俺にもオコボレをおくれよ」

「……なるほど、腹は膨れるだろうが、やめておけ」

 エウリディオスは、指欠けの口に固く焼しめた小さなパンを放り込むと、人肉を口にすることによる不利益を、寄生虫および感染症の観点から滔々とうとうと説明した。

 

 指欠けは、生まれてこの方、「体に良いか悪いか」で食物を選んだことがなかった。

 目に入った弱い生物を、咀嚼し、とにかく腹に詰め込む。

 あれこれ考えている暇は無い。まごまごしていれば、奪われる。

 それが彼の日常であったから。 

 

 指欠けは、パンの微かな甘みをじっくり味わってから、喉でも味わうようにゆっくりと飲み込んだ。

 そして、腹の辺りを満足そうに撫でながら、こんなことを言った。

「人の肉を食べない方がいいのは、わかったよ。でもさ、何でも食わなきゃ、すぐになるぞ? なれば動けなくなる。動けなくなれば、食われるぞ?」 


 少年の言葉には、事の本質を見抜く知性が潜んでいた。

(上手く導いてやれば、この世のやみきりさく灯となるやも知れぬ)

 エウリディオスの直感が、そのように告げていた。


「そうだ。お前の言うことは正しい。まずは、食糧の問題を何とかしよう。虧月ヘロメニスよ、そのためにはお前が必要だ。力を貸してくれ」

虧月ヘロメニス? なんだい、そりゃあ?」

「私が産まれた国の言葉で『欠けた月』を意味する。お前の努力次第では、いつか、満月となることもできるだろう」


 少年の胸が高鳴った。

 この立派な人についていけば、すごい事が起きるような気がした。


「わかった! 俺は今日からヘロメニスだ! で、ヘロメニスはどうすればいい? どうすればいっぱい食べられるようになる?」

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