嗚呼

はろ

嗚呼

 アヤビムラオオスズムシは、『嗚呼、嗚呼』と鳴く。その鳴き声は『ああ』でも『アア』でもなく『嗚呼』なのだと、弥二郎はむかし村の住職に聞いた。

 弥二郎の夢は、いつか帝都の大学に通い、昆虫学者になることだった。村の誰一人としてそれを現実離れした夢とは思わないほどに、弥二郎は優秀な子どもであり、そして虫好きで有名だった。弥二郎は日々虫取り網と籠と帳面を持って野山を駆け回っては、帝都から取り寄せた薬を使って捕まえた虫の標本をつくる。

 けれど、アヤビムラオオスズムシだけはけして標本にしてはいけないと、以前村の住職にきつく叱られたことがある。


「あら、弥二郎ちゃん、また虫取りに行くの。でもお山の深くまで入っちゃいけないよ、神隠しに遭うからね」


 村一番の美人と名高い久が、出掛けの弥次郎にそう声をかけてくる。文日村は、山深い森のただ中にある。だから、頻繁に村人が神隠しにあうのだ。


「うん、わかってるよ。久ねえちゃんは、お寺様んとこに行くの?」

「そうだよ、ふふ、もうすぐ祝言だからね。でも祝言の前に、弥二郎ちゃんは中学に行っちゃうんだねえ」


 久はその白い手で弥次郎の頭を撫でながら、名残惜しそうに言った。弥二郎は、もうすぐ尋常小学校を卒業し、中学校に進むことになっている。中学校は山を二つ越えた先のとなり町にあり、とてもではないが文日村からは通えない。しかし中学校の校長が、弥二郎の優秀さに特別目をかけてくれ、弥二郎は校長の家に下宿させてもらうことになったのだ。だから、もうすぐ文日村を出ることになる。

 そして久にもまた、近く大きな変化が起こる。久は、村に唯一つの寺である月光寺のあたらしい住職のもとに、もうすぐ嫁ぐのだ。一年と少し前、前の住職に不幸があり、その息子の尭尋が寺を継ぐことになった。尭尋と久は幼い頃からの許婚であり、とても仲が良い。


「住職様は残念だったけど、久ねえちゃんとやっと一緒になれるんだから、尭尋さんは大喜びだね」

「あら、この子は、ませたこと言って」


 弥二郎のおでこをぱちんとはたいて照れたように言う久は、とても幸せそうでもある。

 前の住職が亡くなるすこし前、帝都で大きな地震があった。天地がひっくり返るような、あの天にそびえる浅草十二階も崩壊してしまったと聞くほどの大地震だ。帝都ほどではないにしろ、文日村もずいぶん揺れて古い蔵がいくつか倒れたし、山では土砂崩れも起きた。

 しかも、その後も小さな地震が断続的に続いて、何日も収まらなかった。弥二郎には、それが帝都の学者先生が書いた難しい本に書いてあった「余震」というものなのだと分かっていたけれど、村人たちの多くは釈迦牟尼如来様が怒ってらっしゃるのではないかとずいぶん怯えていた。

 そしてそんな折、さらに時機が悪いことに、住職様は急に姿を消したのである。余震のために起きた何度目かの土砂崩れに巻き込まれたのではないかという噂で、じきに尭尋が住職様の死を村人たちに知らせた。重なった悲劇に対する村人たちの動揺は大きいものだったが、けれど不思議と、それを境にぴたりと余震は止んだ。そのような大変な時期を乗り越えて、尭尋と久は、もうじきやっと結ばれるのだ。


「おい、久と弥二郎じゃないか。何をしているの」


 噂をすれば、ふらりと現れたのは若い住職である尭尋である。久と並ぶとよく絵になるくらい、尭尋もこんな辺鄙な田舎の村には似合わぬほどに綺麗な顔をしている。尭尋は久と目配せし合うと、ごく自然に彼女の腰に手を回す。


「虫取りに行くんだって。弥二郎ちゃん、お寺の境内に来たら。あそこ、鈴虫がたくさんいるでしょう」

「知ってる?あれね、アヤビムラオオスズムシっていうんだよ!」


 弥二郎は大きな声で答える。この文日村でばかり見かける、大柄なその鈴虫に大層な名前をつけたのは、何を隠そう弥二郎なのである。弥二郎は、この鈴虫が文日村の固有種というやつではないかと疑っているのだ。


「ふふ、弥二郎が勝手にそう命名したんだよ。確かにあれは、多分うちの寺にしかいないから。……でも、弥二郎、けしてあの鈴虫を、捕ったり殺したりしてはいけないよ、いいね?」

「あら、そうなの?どうして?」


 不思議そうな顔をしてそう聞いたのは久のほうだった。しかし尭尋はあいまいな微笑みを浮かべただけで、なにも言わない。


「とにかく、あまり遠くまで行ってはならないよ、弥二郎。俺も久もお前の父さんも心配するからね」


 そう言って、二人は寺に向かって歩いていった。こちらに手を振る久の、着物のたもとから覗く手首の内側が、痣のなりかけのように赤くなっているのがちらちら見えて、弥二郎はふと思い出した。文日村を出ていくことが決まったころに、尭尋さんに不思議なことを言われたこと。


『もし、手首の内側のあたりに、月のうさぎのような痣が浮いて出た時は……となり町にいたとしても、帝都にいたとしても、すぐさま文日に戻ってこなくてはいけないよ。それは、釈迦牟尼如来様に呼ばれたという印だからね』


 あれは、一体どういう意味だったのだろうかと、弥二郎は今さら訝しむ。尭尋さんは尋常小学校しか出ていないが、村の誰よりもインテリで、難しい本を山ほど持っている。弥二郎がこれまで蓄えた知識のほぼすべては、借り受けた尭尋さんの蔵書から得たものだと言っても過言ではないほどである。だから、尭尋さんはお坊さまではあるが、科学の道理に即していない話はあまりしない人なのだ。そんな彼があんな話をしたことが、弥二郎には不可解に感じられた。

 けれどそれを聞こうかと悩んでいるうちに、幸せな二人は踊るような足取りで行ってしまった。これから二人で暮らすことになる、村の古寺へと。


 それから数週間が経ち、弥二郎が村を経つ日までもうほんの数日という頃になって、文日村はひどい長雨に襲われた。となり町まで続く峠道で土砂崩れが起こって、誰も村から出られなくなってしまったばかりか、村のすぐ脇を流れる川の水量は日に日に増して、今にも堰が決壊しそうだということだ。

 そしてこんなとき、文日村の村人たちがなぜか一番に頼りにするのは、いつだって月光寺なのだった。大人たちは、毎日寺に集まっては何事か話し合っている。

 弥二郎も不安な気持ちになって、一度だけ寺を訪ねた。すると、その時は尭尋さんが一人きりで濡れ縁に立っていて、どこか疲れ果てた様子でこう言った。


「なあ、弥二郎。帝釈天様のために火の中に身を投げたうさぎの話、覚えているか」


 弥二郎は神にも仏にもあまり興味は持てなかったが、その話は覚えていた。幼い頃から度々、前の住職様が語って聞かせてくれた、有名な仏教説話である。捧げられるものを何も持たないうさぎが、お腹をすかせた帝釈天様のために、私を食べてください、と言って火の中に飛び込むお話。


「あの話の、どこが素晴らしいのか、弥二郎にはわかるか」


 こんな時に何故そんな話をするのだろうと思いながら、弥二郎は首を振った。すると尭尋さんは、どこか虚ろな瞳をして言った。


「それはね、うさぎが誰に強いられたわけでもなく、自らの意思でわが身を犠牲にしたからだ」


 雨はまだ降り止まず、尭尋さんの力のない声はすぐに雨音に吸い込まれてしまう。と、同時に、雨音にも負けないほど大きな音で、境内のアヤビムラオオスズムシが一斉に鳴く声が響いた。『嗚呼』 『嗚呼』と。

 その翌日、久がいなくなった。増水した川に流されたのではないかという噂だ。そして時を同じくして、嘘のように雨は止んだ。


 長雨のせいで、弥二郎が村を立つ日はいくらばかりか遅らされることになった。そしてまたあと数日で村を立つという日に、弥二郎は気づいてしまった。自身の左の手首の内側に、いつの間にか月のうざぎによく似た痣が浮かび上がっているのだ。

 釈迦牟尼如来様に呼ばれた印だと言った尭尋の言葉が頭をよぎり、弥二郎はすぐさま月光寺を訪ねた。久がいなくなってからというもの、廃人のように暮らしているという噂の尭尋は、ずいぶんやせ細り、泣き腫らした目で弥二郎を迎えた。

 今日も寺の境内では、アヤビムラオオスズムシが盛んに鳴いている。『嗚呼』『嗚呼』『嗚呼』と。


「尭尋さん、僕の手首に、月のうさぎの形の痣が出来たんです」


 弥二郎がそう告げると、尭尋はあからさまに狼狽え、そしてガタガタと震え始めた。尭尋は何か悪いものから弥二郎を守ろうとでもするようにその身を掻き抱くと、声を潜めて聞いてくる。


「その話、私以外にはしたか」

「いいや、尭尋さんにしか話してない。父さんだって知らないよ」

「そうか……。なら、よく聞きなさい。痣については誰にも話さずに、村を立ったら、もう二度とここには戻ってきてはいけないよ。お前はたくさん勉強をして、帝都で立派な学者様になるんだ」


 顔を上げて見てみれば、尭尋は修羅のような形相をしていた。弥二郎には、もう少しの疑問をはさむ余地もなさそうな様子だ。

 だから弥二郎は、代わりに別のことを聞いた。ずっと不思議に思っていたことの一つ、聞きたくても聞けずにいたことを。


「……ねえ、尭尋さん、どうしてお寺の鈴虫の鳴く声は、漢字で『嗚呼』と書くの」

「それはね、彼らには心があって……嘆いているからだよ。――犠牲にされたことを」

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