ノアの方舟に揺られて

なごみ

第1話 降り止まない雨


「ねぇ、もう帰っちゃう?」



隣で寝ていた美雨みうの寂しげな声が、雨の音に消されるように哀しく響いた。



「帰らないよ。まだ雨が降ってるだろう」



適当なことを言い、さりげなくサイドテーブルに置かれている目覚まし時計を確認した。



もう、午後十時をまわっていた。



妻の佳奈恵かなえと二歳の愛菜まなはもう寝ただろうな。



あと、三十分したら帰ろう。



「じゃあ、雨が止むまで帰らないの? 泊まるってこと? 今夜は一晩中雨ってニュースで言ってたでしょ」



まどろんでいた美雨がむっくりと起きあがり、期待感を込めて僕を見つめた。



「そうだな、雨が止まなかったら泊まろうかな」



ぼんやりと真っ白な天井を見つめながら呟く。




「……嘘ばっかり。目がもうすぐ帰るって言ってる」



顔を覗き込んだ美雨が、拗ねたような目をして僕の頬を軽くつねった。




外はかなり本降りの雨で、このアパートへ着いたときからザーザーと弱まることなく降りつづいている。



ブルーのカーテンを少しあけ、外をみた。



暗がりの中にぼんやりと雨に滲んだ街の灯りがきらめく。




「雨の音はいいな。とても落ちつく。美雨のなまえは誰がつけたんだい? お父さんかい?」



がっかりしている美雨の気持ちに気づかないふりをして聞いた。




「……そうみたい。パパはね、大自然の音を聴くのが好きなの。雨の音とか、川のせせらぎとか。鳥のさえずりや、雷だって好きなのよ」



「そうか、雨の音は僕も好きだよ。雷はあんまりだけどね」



「あ、間違えたわ。雷は音じゃなくて見るのが好きなの。稲妻がピカッ! と光るのをね」



美雨との他愛もない、こんな会話に癒される。



「ふーん、なるほどな。確かに稲妻はきれいだな。雨の音もきれいだ。美人の美雨にすごく似合うなまえだ」



美雨の艶やかなストレートの黒髪にキスをした。



「あーっ、 いま褒めたね! 遥希はるきくんはね、褒めたあとはいつもこう言うの。じゃあ、そろそろ帰ろうかなって」



「……ブッ、ハハハッ、すごいな。今マジで言おうと思ってた」



笑って誤魔化したけれど、僕の笑顔は引きつっていたかも知れない。




美雨は僕のモノローグにひどく敏感だ。




「ダメよ。帰さない! 雨がやむまで帰らないって言ったでしょ」



美雨は涙ぐんで僕の胸に顔をうずめた。



「僕だって帰りたくないんだよ。美雨と一緒に朝まで雨の音、聴いていたいよ」



「じゃあ、帰らなければいいじゃない」



抱きついた腕に力を込めて美雨は言った。



「わかったよ。ずっといるよ。雨の音、美雨と一緒に聴いてる」



美雨と抱き合いながら、五分ほど静かに雨の音を聴いていた。






「雨の音って哀しいね。 遥希くん……もう、いいよ、帰っても。いつもと同じだもん」



「おなじって? なにが同じなんだい?」



「私が帰ってもいいよっていうのを知ってて泊まるっていうでしょ、遥希くんは」



「うーん、、美雨はするどいな。でも、僕がどうしても帰るっていったら、美雨は泣きながら帰らないでっていうだろ」




ーーお互いに学習してしまったんだな、僕たちは。




「あと、三十分だけ居てくれる?」



潤んだ美雨の目を見て切なくなる。




「わかった。だけど雨、本当にやまないね。ドシャブリの中、帰るの嫌だな」



本当にこのまま、朝まで美雨と一緒にいられたなら。



「雨、どんどん降ればいいのに。もっともっとたくさん降って、洪水になって、遥希くんはおうちに帰れなくなっちゃっうの。美雨、遥希くんとノアの方舟はこぶねに乗りたいなぁ」



「いいね、それ。ロマンがあるな。あ、そういえば、ノアの方舟って本当にあったらしいね」



「え? それって、おとぎ話じゃないの?」



「旧約聖書の物語だろう。実際にノアの方舟の木片が発見されたらしいよ。トルコのアララト山の山頂でさ」



「そうなの ⁉︎ ふーん、なんだかよくわからないけど、ロマンチック~ ノアの方舟に乗って、遥希くんと一緒にゆらゆら揺られたいなぁ。それでね、どこまでもどこまでも、だーれも知らないところへ行くの」




美雨が僕の首に腕を巻きつけ、胸に耳をあてた。



「ドックン、ドックンしてる。美雨はね、遥希くんの胸の音が好き。朝までずっと聴いていたい」




「……美雨」




美雨の背中に腕をまわし、きつく抱きしめた。




美雨がみている夢は僕の夢だ。




僕も一緒に夢をみていたいんだ。




美雨が今みている夢を。




現実の世界から逃げだしたいのさ、僕は。




絶え間なく降り続く雨の音は激しさを増していた。




本当にこの雨で、何もかも君と一緒に流されてしまえたなら。








ーENDー




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノアの方舟に揺られて なごみ @Rikka2000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ