第58話 自由への選択肢

 霊符が、ふわりと浮かんだ。


 光が灯る。まるで風もないのに、


 小さく揺らめき──応えるように。




 「……え……?」




 メレーネが目を見開いた。




 霊符が細かな糸になって解け、


 その糸がエリオスへと渡されていく。




 「これは......?」




 エリオスの周囲に、淡い金と白の螺旋が収束し、


 彼とメレーネのふたりが、


 光の繭に包まれた。




 それはまるで、“何か”を託すように。




 一瞬、エリオスの脳裏を誰かの記憶が駆け抜ける──






 ──見えたのは、檻。


 冷たい床。濡れた石の感触。


 膝を抱えて座る少女。


 目を閉じたその横顔に、かすかな光が差し込む。




 名もなく、番号で呼ばれていた少女の記憶が流れ込む。


 檻の中で、唯一温もりに触れた日のこと。


 震える指先を握ってくれた、"手"。




 壊したくない。


 でも、壊さなければ、また奪われる。


 なら初めから壊す。


 全てを。




 愛と憎しみの境界が消えた、歪な防衛本能。


 それを利用とする者の視線。




 同時に──




 それを止めたいと願い、妹を守ろうとしたメレーネの「祈り」もまた、


 鋭く、柔らかく、彼の中へと注がれていく。




 ──どうか、あの子を。




 ──どうか、もう一度やり直せるなら。




 その想いが、光となって、エリオスの胸の奥で、確かな形を取る。




 「……そう、だったのか────」




 彼の魔力が、応えるように脈打つ。


 光の螺旋は強まり、


 やがて静かに空気を包むように落ち着いていった。




 「......!?」




 エウラ──否、死霧龍の因子が何かを恐れるように、


 エリオスから距離を取った。






 ──その"空気の変化"にエリュシアもエスメラルダも気付く。




 体に負担をかけていた、魔力欠乏の影響が薄れる感覚。


 


 「これは……魔力の流れが……」




 エリュシアは思わず手のひらを見つめる。


 雷が走らない。発動もできない。


 まるで、"世界"そのものが“魔法”を拒んでいるかのようだった。




 「まさか、魔法が……使えない!?」




 息を飲むように叫んだエリュシアの声に、


 横にいたエスメラルダが応える。




 「……この感覚。覚えていますわ」




 エスメラルダはそっと胸元に手を当てる。




 「シュタルク要塞の時……


 あの暴走、魔力が使用できなくなった時と……似ていますわ」




 そう──あの時も、すべての術式が“拒絶”された。




 「……でも、あの時とは決定的に違う事があります」




 エスメラルダがゆっくりと瞳を閉じた。




 「じゃあ、これは……?」




 エリュシアが問う。


 その問いに、エスメラルダは静かに答えた。




 「……“魔力という剣が鞘に収まる”、そんな感覚ですわ」




 エリュシアは咄嗟に視線を向けた。




 瓦礫といくつもの陥没の只中にあって、


 風も、霧も、魔力すらも、彼の周囲だけは穏やかだった。


 暴走ではない。衝動でもない。




 これは────彼の明確な“意思”。




 「……やはり、あの人は……」




 エスメラルダが小さく笑みを浮かべる。




 「とことん"面白い"方ですわ……ふふ」




────────




 静寂。




 まるで嵐の中心にいるかのように、


 すべての気配が遠ざかっていた。


 エリオスは、目を閉じた。




 そして──把握した。




 この“場”の秩序。


 魔力の流れ、理の振る舞い、


 そして死霧龍の存在が生じさせる霊流の歪み。


 今、自分の足元にある“この世界のコトワリ”を、


 彼は確かに感じ取っていた。




 そして世界が、ずるりと捻じれるように歪み、


 気がつけば──




 そこは“内側”だった。




 ────精神世界とでも言うのだろうか。




 灰の空。水面のような無音の地平。




 対峙するのは、巨大な影だった。


 翼も鱗も曖昧な、黒いもやの塊。


 しかしその“圧”だけは、今もなお力を放つ。




 《……なぜ、“イゼルカの力”が……》


 《貴様は……何者だ》




 それは、語りというより“思念”だった。


 けれど、明らかに意識を持ち、意思を持ち、


 彼を警戒していた。




 「俺は──」




 エリオスはゆっくりと歩を進めた。




 「ただ彼女を救いたい者だ」




 《戯けがッ! 利用したのは貴様たち人間であろうッ!》




 思念は大きく乱れる。


 エリオスは歩みを止める。




 「……すまないが、おまえには出て行ってほしい」




 《──愚弄するか、愚か者ッ!》




 黒影がうねる。


 咆哮が精神を裂こうと響き、空間そのものがびりびりと震え始める。


 その圧倒的な敵意が、エリオスの思考を侵そうと踏み込んできた──




 エリオスの意思は世界から弾き飛ばされる。


 そして静かに、エウラの膝が崩れる。




 意識を完全に失い、倒れ込んでくる少女の身体を、


 エリオスは即座に受け止めた。




 「……もういい」




 「もう、戦わなくていい……」


 


 その声に応えるように、黒い霧がエウラからあふれ出した。




 《……理解など、できぬ》




 黒い霧の塊が不規則に歪む。




 《生まれた瞬間から檻に囚われ、


  自由を知らぬまま、我の器となりし者を──》




 黒霧がゆらりと、エリオスの周囲を螺旋のように回る。




 《貴様のような者が"いまさら"手を伸ばして、何になる?》




 エリオスは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。




 「……助けを求められたら助ける。


 彼女は助けを求めて"泣いていた"。


 それが理由だ......」




 霧がふわりと止まり、低くうねる。




 《……それを、憐れみと呼ぶのだ》


 


 「──違う」




 エリオスは首を横に振る。




 「この子が俺を求めたのは……


 希望を、“諦めたくなかった"からだ」




 《……だから、貴様が救うというのか……?》




 黒霧がうねりながらエリオスの周囲を渦巻く。


 視界は黒で塗り潰され、耳には呻き声のような残響が続く。




 《希望など、こやつには初めから与えられてなどいない!》




 《温もりを知ったのは幻、


  壊れる運命を“遅らせた”だけに過ぎぬ》




 「──それでも」




 エリオスははっきりと言った。




 「彼女は、“助けて”と叫んでいた。


 ハッキリと。


 俺には、聞こえた」




 黒い霧はさらに形を変える。


 そしてその不規則な動きが遅くなった。




 《......それは本心ではない。滅びへの願いを言葉にできぬだけだ》




 《所詮、破壊の本能が呼び水となったに過ぎぬ……》




 「違う」




 エリオスはその思念を、


 真っ向から否定するように言い放つ。




 「泣くということは、願いがあると言う事だ。


  失いたくなかった。壊したくなかった。


  それでも、どうしようもなかったから、泣くしかなかった──」




 死霧の気配が微かに揺らぐ。


 だが、その奥にある意思は、まだ折れない。




 《キサマが何を知るッ──!》


 《“諦め”こそ、救いだというのに……!》




 「──だからこそだ」




 その一言に、エリオスの声が強くなる。




 「彼女は、諦めたくなかったんだ。


  温かさを知ったからこそ、未来を……


  ほんの少しでも、信じたかったんだ」




 《信じた先に、何がある……?》


 《また、奪われ、踏みにじられるだけだ》


 《ならば“壊して”終わらせる。それが唯一の、自衛の形……!》




 「……それでも、手を伸ばしたいと思った気持ちは、嘘じゃない」




 《……それを、憐れみと呼ぶのだ》




 「違う」


 エリオスは、もう一度、明確に否定した。




 「これは、選択だ」




 「彼女が“壊す”以外の道を選べるように」




 黒霧が一瞬、沈黙する。




 《……選択、だと?》




 「そうだ」




 「檻に囚われていたなら、自由を示す。


  彼女が壊す以外の道を選べるようにする」




 「次は、“どんな未来を選ぶか”は、彼女が決めるんだ」




 霧が震え、空気が軋む。




 《それを救いと呼ぶのか──?》




 「……救いとは、“生きていてほしいと願う”想いだ」




 《無責任な......破壊は事象、全ての解決──》




 「破壊の願いは"お前の願い"だろ?」




 ──その瞬間、何かが揺らいだ。


 死霧の塊が一瞬、静かになり……


 空間に漂っていた怨念のようなものが、ほんのわずかに後退する。




 《ならば貴様が受けるがいいッ──!!》




 霧が咆哮した。


 それは怨嗟でも怒りでもない。


 “拒絶された存在が最後に放つ、原初の衝動”。




 黒い霧がエリオスを包み込む──


 だが、エリオスはそれを、拒まない。


 


 エリュシアとエスメラルダ、メレーネの怖れの視線。


 何が起こってしまうのか、


 いよいよ皆が固唾をのんで見守るしかなかった。




 「いいよ……入ってくればいい」




 「どうせなら、おまえの“痛み”を全部見せてくれ」




 その瞬間、精神と魔力が融合する。




 エリオスを取り巻いていた、


 不可視だが確実に帯びている“負の魔力”──


 あらゆる魔力と性質を“減衰”“相殺”させてきた、


 彼のクロノディレイの根源たる"源泉"。




 それが、干渉してきた死霧龍の“思念”とぶつかり合った。




 ──対消滅。




 龍の影が悲鳴をあげるようにエリオスから再び吹き上がる。




 しかしその輪郭はみるみる白く、淡く──




 エリオスの周囲に爆発的に霧が広がる。




 それはただの霧ではなかった。


 一粒一粒が、“光っていた”。




 白い、淡い光が、ぽつ、ぽつ、と無数に灯る。




 それは、消滅していく死霧の“成れの果て”だった。


 残された暴力と衝動が、正と負の力の対消滅で、静かに浄化されていく。


 まるで、誰かの“涙”のように──




 ゆっくりと目を開けたエウラがその光を見上げ、


 手を伸ばす。




 「……きれい……」




 そのささやきに、霧の粒がまたひとつ、優しく弾けて消えた──












 だが、そこで。


 空気が一変した。




 まるで“悪意という名の激流”が押し寄せる感覚。


 霊力の流れが急激に反転し、槍を形成した。




 「……符毒式、発動確認!!」




 遠く離れた屋根の上から、それを見つめる影があった。


 鋭い目が、光の繭を包むエリオスを正確に捉える。




 ──グリフォード・ウェルナード




 その男は、最悪の術式を


 ──エリオスの“内奥”に向けて解き放った。




 「お前が……この"場の秩序”に接続されるのを待ってたんだよ!」




 グリフォードは、口角を引きつらせるようにして笑った。


 イゼルカへの意趣返し、エウラによって荒らされた王都、


 消えた正門、そして厄介な"イレギュラー"の抹殺。


 全てが上手くいく──




 「ああ! 世界って、簡単だなぁッ!!」




 破滅に魅入られた者の笑みだった。




 空気が焦げ、霊符が黒く変色していく。


 符毒の糸が時空を裂くように絡みつき、


 エリオスの精神へと触れようとする。




 が、エリオスの"場"に触れた瞬間────








 『ああ、"そこにいた"のか』








 エリオスの視線がグリフォードを捕らえた。




 「────は?」




 なにかが逆流してくる。


 早い、そして、逃げられない──




 「……な……に……っ!?」




 想定外だった。


 それは毒に対する抵抗でも、反発でも、攻撃でもない。


 "負の魔力"の"反作用"──




 まるで大気を押し除けるように、


 符毒式を発動したグリフォード自身まで這い上がり、


 全身を包む。




 「おいおいおいッ! なんなんだよ、なんなんだよコレッ!!」


 


 エリオスは目を細め、全てを理解したように息を吐いた。




 「──イゼルカ様を看病した時と、同じ……」




 イゼルカが何故グリフォードの存在に気付いたのか、


 エリオスも今なら理解できた。


 そして、ゆっくりと拳を握る。




 「グリフォード……今度は"お前の負け"だ」




 瞬間。




 《ヴォルト・クレスト》




 グリフォードを捉える負の魔力を辿って、


 空気が一瞬、光そのものに焼かれたように軋み、


 空間のひび割れから、灼けるような光の奔流が解き放たれた。




 しかし、それは雷とも炎とも似ている振る舞いだった。


 色すら定まらない閃きが、白と金を断続的に貫き、裂け、脈動した。


 目に映るその全てが、


 音すらも飲み込むほどの"圧倒的な熱”と“速さ”に満ちていた。




 霊流の伝達速度の限界を超え、術式構造が飽和する。


 符毒式そのものが弾け、空間に幾重もの幾何学模様が走り、


 極熱の光がグリフォードの全身を覆い尽くす────




 「────だぁぁぁぁぁぁぁッ!!」




 王都の一角が眩い白光で包まれた。




 そして、静けさが戻った。

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