第53話 誇りと災厄
あの──眼差しを、知っている。
広間で初めて対面したとき──
あの握手の瞬間から、すべてが始まった。
……そして、思い出す。
かつて、自身が"貴族である"
ということに疑いを抱いた、初の瞬間を。
──ラグナディア公爵家の大広間。
あの煌びやかな空間の中で交わされた“握手”。
そのとき、ヴィクトールの胸に刻まれたのは、
静かながら決して消えぬ屈辱の記憶だった。
エリオス・ルクレイという存在は、
ヴィクトールにとって何もかもが理解不能だった。
貴族ではなく、ましてや名家の出でもない。
王都の煌びやかな世界とは無縁の地から現れた、
ただの庶民──そう思っていた。
......だが、あの一瞬。
自らの魔力を込めて握ろうとした手が、触れる寸前で凍り付いた。
(……まるで、俺自身が“止められた”ようだった)
エリオスの表情は、“挑発”すら視界に
入っていなかったかのようだった。
その圧倒的な静けさが、逆にヴィクトールの誇りを打ち砕いたのだ。
(……何故だ? なぜあんな男が、エリュシアの隣に立っているのか?)
確かに、婚約者としての立場を失ったことへの焦燥はあった。
だが、それ以上に──自らが信じてきた“貴族としての価値”が揺らいだ。
エリオスという男の存在そのものが、
ヴィクトールの中の“誇りの軸”に、確かな亀裂を走らせた。
(俺こそがファルクス侯爵家の嫡男……
王都を背負う存在であるはずだ)
(あんな……魔法体系すら分からない庶民風情に、負けるはずがない)
苛立ちと屈辱感が、幾重にも心を締めつけた。
名声でも立場でも、技術でもない。
その場を支配し、霧すら止める、得体の知れぬ“何か”。
それをヴィクトールは、内心では恐れていた。
……否、畏れていた。
認めれば、誇りが崩れてしまうと思った。
だが認めなければ、前に進めない。
だからこそ、エリュシアを再度取り戻し、
“自分こそが最良である”と証明することが、
失われかけた誇りを取り戻す唯一の道だと──そう思い込んだ。
──だが
エリュシアは頑なだった。
エリオス、エリオス、エリオス......
この女は一体何を見てきたのだ、と。
挑発でも負け、エリュシアの“まなざし”を通しても、
彼女はヴィクトールを選ばなかった。
その挽回を果すべく挑んだ今回の出陣は、
まさにそれまでの“愚かさ”の精算だった。
騎士団は壊滅し、部下は倒れ、
そして何より……グランツを失った。
彼は忠義を尽くした。
だがそれは“家”にではなく、
“信じた理想”に向けられたものだった。
名誉ではなく、責務のために剣を取り、
命を賭して、ヴィクトールを守った。
(……俺には、それに答える器はなかった)
気づけば、拳を握りしめていた。
震えている。
怒りでもない。悲しみでもない。
それは……"後悔”だった。
誰のせいでもない。
エリオスのせいでも、魔物のせいでもない。
“俺自身が弱かった”。
ただそれだけの、抗いようのない事実。
「……立てるか?」
不意に、声が降ってきた。
淡々と、感情を込めず、けれど決して突き放すでもなく。
顔を上げると、そこにはエリオスがいた。
霧にまみれた戦場の中、
ただ一人、まるで風の静けさを纏うように立っていた
ヴィクトールは、言葉を返せなかった。
けれど──その手は、確かに差し伸べられていた。
「……なぜ俺を助ける?」
その問いは、呟きのようにこぼれた。
怒りも皮肉も込められていない。
ただ、心の底からの純粋な疑問だった。
エリオスは、一瞬だけ目を細めた。
そして、どこか困ったように、少しだけ視線を逸らした。
「……別に、理由なんて要らないだろ?」
淡々としたその言葉に、ヴィクトールは目を見開いた。
「怪我をしてる人がいれば、助ける。
それだけだ。……昔から、そうしてきた」
「戦場でも村でも、貴族でも庶民でも関係ない。
そこは変わらないだろ?」
ヴィクトールは、口元をわずかに震わせた。
そのあまりにも“当然”のような言葉が、
今の彼には、痛いほど沁みた。
「関係ない......か」
その言葉が、こんなにも温かく、胸に刺さるとは思わなかった。
(ただ、“一人の人間”として、
手を差し伸べた──それだけのことなのか……)
けれど、それだけのことが、
こんなにも胸を締め付けている。
「……君は、彼に似ているな」
思わず、そう呟いていた。
エリオスは、きょとんとした顔でヴィクトールを見る。
彼の視線の先には、僅かな甲冑の残骸が映っていた。
「……誰だか、聞いてもいいか?」
「……俺の副官だった男だ」
一瞬だけ、エリオスの目が伏せられた。
そして、ごく小さく──目の奥に灯る色が、
何かを静かに理解したように揺れた。
「……そうか」
それだけだった。
何も詮索せず、何も語らず。
ヴィクトールは、もう一度拳を握る。
今度は、かつての誇りではない。
虚勢でも、名家の矜持でもない。
──“誰かのために強くなりたい”という、
かつての副官が教えてくれた、“騎士としての誇り”。
(……俺は、もう一度やり直す)
(今度は、あいつのように──)
その胸の奥に、小さくとも確かな炎が灯った。
「──なあ、手を貸してくれないだろうか?」
ヴィクトールから差し出された右手に、
エリオスは、ためらいなく応えた。
その手は温かく、そして確かに彼を引き上げた。
過去を捨てるのではない。
誤った道を、今ここで“終わらせる”ために。
────────────────王都アルサメル
「……おい、あれ……なんだ……?」
城門の上にいた見張りの騎士が、思わず声を漏らす。
その指が差す先、夕焼けに染まる地平線の、その中央。
ただ、一人の“少女”が立っていた。
風が止まり、音が消える。
まるで世界が息を潜めたように。
その姿は、異様だった。
白い法衣のような服を纏い、足元には靄が立ち昇る。
身の丈も小さく、歳の頃は十を少し過ぎたばかりに見える。
だが、その髪は、陽の光をも焼くような金色の奔流と化し、
風もないのに、その髪だけが暴れるようにたなびく。
そして、何より──その瞳。
燃え立つような琥珀に、氷のような空虚を同時に備えた瞳が、
まっすぐに王都アルサメル城門を見つめている。
「こ、子供……か?」
兵の声が震える。
どれほど距離があるにも関わらず、
視線だけで押し潰されそうな“圧”があった。
「いや、あれは……人間じゃない……」
別の兵士がそう呟いた時には、
もう周囲の空気は凍りついていた。
異様な魔力が大気を震わせ、地を滑るように迫る。
少女はただ、ゆっくりと門へ向けて歩いている。
けれど確かに──“そこに存在している”。
やがて、彼女の背後の大気が、ぐにゃりと歪んだ。
金糸のような髪が、光を弾くように空気を裂く。
淡い光輪が、音もなく広がる。
空間そのものが、静かに、しかし確実に侵食されていく。
「ま、不味いッ!」
兵士が叫び、鐘を鳴らそうと駆け出す。
だがその足音さえ、まるで空気が吸収するように、虚ろに消えていった。
──そのとき。
少女の唇が、わずかに動く。
兵士たちは聞き取れなかったが、確かに、ただ一言だけ。
「「……あけて?」」
その言葉と同時に、彼女の周囲に“何か”が砕ける音が響いた。
光がひと筋、空を裂く。
まるでこの城壁すら意味などないと言わんばかりに。
次の瞬間、彼女の背に浮かんだのは、
漆黒の魔力と淡金の輝きが混ざり合う、“龍のような魔力の尾”
光と闇の奔流が、まるで指先一つで解き放たれたように
城門に向かって圧縮され、爆ぜる。
「……すべて壊して、楽になる──」
そして、アルサメルの巨大な鉄城門が、
一瞬で宙を舞った────────
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