第52話 爆霧圧縮
──村の中心部、広場のような空間。
濃密な霧の中心に、それは静かに佇んでいた。
黒き鱗が幾重にもねじれ、霧と同化するようなその巨影──
それこそが、《死霧龍》の"模倣体"。
「……やはり、化け物か」
ヴィクトールの頬がかすかに引き攣る。
しかしプライドが逃げるわけにはいかなかった。
第六感の"逃げろ"という警告を頭の奥に押しやり、
貴族の名誉、侯爵家の誇り、そして──
──己の力を証明するための好敵手として、
目の前の異形を“討つべき獲物”として見据える。
「吹き飛べッ!」
叫ぶと同時に、雷光が剣より迸る。
白銀の稲妻が直線的に広場を貫き、死霧龍へと叩きつけられた。
剣技と雷撃の複合魔法──
侯爵家伝来の"雷槍剣"が放つ一撃は、
地を割り、空気すら焦がす威力を持つ。
しかし──
確かに命中したはずだった。
だがその巨影は、霧のようにふわりと輪郭を曖昧にし、
雷撃が届く寸前に、肉体を霧状に拡散させていたのだ。
爆発音と共に地面は抉れた。
だがダメージはその火力に比して極めて微小。
「馬鹿な......」
ヴィクトールは目を見開く。
視線の先、再び霧が集まり、あの禍々しい輪郭が戻ってくる。
血統魔法による強烈な一撃を、そもそもまともに受け付けない。
死霧龍が魔法に対して極めて強力である所以。
しかしそれはヴィクトールの目には、
あたかもそれが“この世の理すら弄ぶ”かのように映った。
そして────
《モルフォドラ》の全身から、濃密な霧が放出された。
それは瞬時に辺り一帯を包み、視界を奪い、音すら歪めていく。
「な、なんなんだよ一体ッ!」
ヴィクトールの叫びは届かない。
すべてが霧の中──その"幻"の中へ囚われていた......
──────────────
「うっ……何だ、この……いや……! 誰だ!? 誰が……っ!」
「後ろだ……後ろに何かいる!」
「嫌だ、嫌だ……私じゃない、私は、ちゃんと戦って……ッ!」
次々と上がる悲鳴。
だがそれは、現実の声ではない。
幻覚の中で己を責め、破滅を見せられる“騎士たち自身の声”だった。
ヴィクトール自身もまた、その中心にいた。
「ふざけるな……こんな、幻覚など……!」
再び雷を纏わせ、剣を振り上げる。
しかし、その剣から放たれたはずの雷が、
途中で霧に呑まれ、消失した。
「効かない……だと?」
否、それだけではない。
雷の発動と共に、彼の脳裏に直接“像”が流れ込んでくる。
──騎士団の壊滅。
──侯爵家からの追放。
──父の叱責、母の涙。
──そして、エリュシアの冷たい瞳。
《あなたとの"関係"なんて、ただの恥ですわ》
幻覚の中でエリュシアが口にしたその言葉に、
ヴィクトールの心拍は不安定になる。
「違う……そんなはずが、ない……!」
だが否定するたびに、より鮮明になる“敗北の世界”。
霧は“未来”すら蝕むかのように、
彼の精神を絡め取り、執拗に侵食してくる。
「ファルクス家として、次期当主として……
勝たねばならんのだ……!」
震える手で剣を構えるが、その腕にはかつての力がない。
焦燥と恐怖が、貴族としての矜持を溶かしていく。
《死霧の幻覚》
それは、戦場に立つ者の“恐れ”を顕在化させる霧。
力ある者ほど、強い“破滅のイメージ”を抱き、それに飲まれる。
そして今、ヴィクトールはまさに吞まれた。
栄光の騎士などではない。
敗北を見せられた、ただの“敗残兵”と成り果てた。
寸前、視界が歪んだ。
空気がねじれ、重力そのものが軋むような違和感が、
全身を包み込んだ。
否、こちらが"現実"だった。
しかし、もはやヴィクトールには
現実と幻の境界が曖昧になっていた。
《模倣体・モルフォドラ》の巨大な翼が広がり、
その下により濃密な霧が展開されていく。
さらに空中に浮かぶ霧が、緻密な螺旋模様を描き始めていた。
呆然と見つめるヴィクトール。
その中心に、禍々しい光が生まれる。
──霧そのものを“圧縮”し、破滅的な破壊を放つ魔法。
"爆霧圧縮"《ネブラ・コンプレッション》
「……っ、あ……」
ヴィクトールの脚は動かない。
逃げねばならないと理解している。
だが、身体が動かない。
威厳も、雷撃も、貴族としての矜持も────
すべて、この霧の中で虚しく溶けていった。
戦いに対する目的も失い、茫然自失となる。
(死ぬ……)
まるで死を受け入れるかのように、
ぶらりと両手から力が抜ける。
──しかし、一歩飛び出した影があった。
「ヴィクトール、様……ッ!」
その声と共に、グランツが霧を割って現れ、
正面から決死の表情で掴みかかった。
剣も持たず、ただその身体ひとつで────
霧の粒が煌めき、巨大な光の波を一瞬だけ顕現させた。
炸裂した霧の魔力が、大地を抉り、空間を震わせる。
「私は......止められませんでした──」
焼け焦げたような閃光の中で、ふたりの身体は後方に吹き飛ばされた。
「……あ……」
視界が、真白に染まった。
鼓膜が麻痺し、耳鳴りが世界を埋める。
身体が焼けるように熱く、何もかもが遠ざかっていく。
光が収まったあと、そこには、何もなかった。
瓦礫も、骨も、血すらも、残っていない。
ただ風に舞う灰のようなものが、ひらりとひとすじ、空を舞った。
「……グラン……ツ……?」
──目の前で、副官が死んだ。
──自分のせいで。
──自分の、愚かさのせいで。
「なぜだ……なぜお前が……!」
膝をつくヴィクトールの手が、震える。
剣を取り落とし、膝から崩れたその姿は、
英雄を志した侯爵家の後継者ではなかった。
ただ、後悔だけを噛みしめ、泣きじゃくる青年だった。
「俺は……ッ、俺は……何を……!」
──思い出すのは、ヴィクトールが侯爵の次期当主として
振る舞うようになった、あの頃。
「……騎士の名誉とは、人を守ることにございます」
どこかで、聞いたことがあった。
いや、それは、ずっと前に言われていた言葉だった。
「ヴィクトール様、過度な進撃はご再考を」
書類を片手に眉を寄せていたグランツの顔が、脳裏に浮かぶ。
討伐命令を強引に押し進めようとするヴィクトールに、
彼は何度もそうやって、進言してきたのだった。
「少しの遅れで、人命は守れます。どうか、無謀はなさらぬよう……」
真っ直ぐで、ぶれない男だった。
厳しい顔をしながらも、部下には優しく、上には礼を尽くす。
自らは名門の出でありながら、
身分に固執せず、ただ騎士としてあろうとした。
「……煩い。お前は後ろにいろ。俺のやり方でやる」
あのときの自分は、彼を“うとましい存在”として突き放した。
”やかましい杓子定規”くらいにしか思っていなかった。
だが、今になって分かる。
彼は、誰よりも戦場を知っていたのだ。
誰よりも、ヴィクトールの“未熟”を知っていて、
なお寄り添ってくれていた。
「……騎士の名誉……か」
かすれた声で、ヴィクトールは繰り返した。
何が騎士の名誉だ、と。
守るべきを見失い、功績と体裁ばかりを追った。
それでもなお、グランツは……最後の最後まで、尽くした。
「俺は、俺は......上に立つべきじゃなかった……」
涙があふれた。
こんな情けない感情は、とうに克服したと思っていたのに。
この期に及んで湧き上がるのは、悔恨と、失ったものへの慟哭。
空にひらりと舞う灰は、もう誰のものでもない。
ただ、静かに消えゆく命の証だけが、
ヴィクトールの胸に突き刺さっていた。
死霧龍は無表情に、霧の力を高めていく。
次の一撃は、もう持たない
いよいよ、本当の“終わり”がやってくる。
覚悟なんてものはもはやない。
(......己の不甲斐なさを呪って死ぬだけだ)
ヴィクトールはふっと笑うと、事の成り行きに全てを任せた──
──そのとき。
……風が、止まった。
いや、霧が止まった。
霧の爆縮を示す光点が、まるで“制御不能”に陥ったかのように、
光を失いかけていく。
緻密な陣が崩れ、霧が一瞬、揺らぎ、止まり────
ヴィクトールが顔を上げた瞬間。
────空間が“割れた”。
空が斜めに切り裂かれた。
ひと筋の稲光のような亀裂が、空間に光の滝を落とす。
霧を抱擁した龍のシルエットが、一撃で靄へと変わる。
──"広域遅延"≪ディレイ・フィールド≫
死霧龍は霧散できず、
状態を固定されて一気に内包した霧に穴が生まれる。
模倣体ゆえに肉体の制御が御座なりであり、
ものの十数秒で肉体を再構成できるだけの霧を失い、風と共に消えた。
......静まり返る空間。
音も風もない。ただ、霧だけが徐々に薄れてゆく。
ヴィクトールは、息を呑んで動けなかった。
今の一撃は──誰のものだった?
騎士団は崩壊しただろうし、グランツももう……。
この状況で、誰が……?
そのとき。霧の彼方、まだ霞の残る地平の向こうで。
ひときわ風が揺れた。
稲妻の残響を纏う、一つの影。
まだ、その姿をはっきりと見ることはできない。
ただ、確かに“何かが来た”と、肌が記憶していた。
(……あれは、誰だ?)
その影は歩みを止めず、ゆっくりと近づいてくる。
踏みしめる足取りには焦りも昂ぶりもない。
やがてその姿が霧の隙間に浮かび上がった刹那、
ヴィクトールは気づく。
──あの眼差しを、知っている。
あの広間で、初めて対面したときと同じ......
いや──あの時以上に、強く、深く、異質な男──
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