第51話 境界の死霧
ヴィクトール率いる騎士団が東部方面の街道を進んだ。
地を蹴る蹄の音が、轟音となって大地を震わせ、
土埃は尾を引くようだった。
彼らの進軍速度は速く、
まるで追い立てられるかのように村から村へと急ぐ。
道中、かなりの魔物を成敗したが、愛刀"雷槍剣"の前では
手応えを感じるほど強くはない。
王都の上流血統貴族からすれば、
ほとんどの魔物は相手にならないのだ。
ヴィクトールは一層自信を取り戻す。
一方で、その行軍は英雄譚の如き輝かしい勝利の連続ではなかった。
魔物の襲撃を受けた村々に到着した時には、
すでに家屋は無残に焼け落ち、生存者を見つけることは稀であった。
遅れを取り戻そうと急ぐほど、その悲惨な有様は際立つ。
「ヴィクトール様、ここも……」
副官グランツが表情を失い、力なく呟く。
黒焦げになった木材と、散らばる生活用品の残骸。
まだ燻ぶる煙と鼻を突くような余臭が、
凄惨な襲撃の直後であることを告げていた。
ある騎士は傾いた母屋の扉を蹴破ると、
中には炭と化した母子の亡骸と、散らばった皿の残骸を見たという。
また別の騎士が目にしたのは、
追い詰められたのか、逃げたのかは分からないが、
井戸の底には人間の背中の一部だけが僅かに見えたという。
「構わん。この村は解放された。それが重要だ」
ヴィクトールは焼け落ちた家屋を見据えると、
淡々と言い放った。
そこには悲しみも怒りもない。
ただ己の戦果拡張を競うような焦りが漂うのみ。
彼の水晶体には、焼け落ちた村の瓦礫が広がるが、
視神経では己自身の栄誉のみが映っていた。
「しかし……生存者を助けることこそが、
我らの使命ではありませんか?」
グランツは複雑な表情でヴィクトールを見つめる。
騎士の名誉とは、困難にある人々を守ることにあるはずだ──
だが、その理念は揺らいでいた。
「グランツ、生存者がいるなら、
なおのこと急がねばならんだろう?
ぐずぐずしている間にも次の村が襲われてしまうはずだ」
ぎろり、と冷めた視線を向けられ、グランツは一瞬身が強張る。
「それは……確かにその通りですが」
続きの言葉は出なかった。
ヴィクトールは馬を軽く蹴り、隊列の先頭へと出る。
彼にしてみれば、村民の生存などを考える余裕は無かった。
「グズグズするな、行くぞ!」
グランツは唇を噛んで従ったが、
その胸中には苦々しい思いが広がっていた。
己が仕える侯爵家の後継者がこんな体たらくでは──と。
騎士たちはヴィクトールの号令一下、
村の供養を済ませる間もなく出発。さらに東へ、東へと向かった。
──やがて廃村トーリアへ到達する頃には、太陽は大きく傾き始めていた。
村の入り口に立った騎士団を迎えたのは、
濃密に立ち込めた異質な霧だった。
それは地を這うように重く漂い、村全体を静かに覆い尽くしている。
「何だ……これは」
最前にいた若い騎士が馬の手綱を引き留め、
思わず呻き声を漏らした。
息が詰まるような重苦しさ、
得体の知れぬ不気味な静寂が辺りを包む。
馬も不安げに鼻を鳴らし、
蹄を地に叩きつけて落ち着かない様子を見せた。
「......侯爵、明らかに異常です。偵察を先行させるべきかと」
再びグランツが進言した。
だがヴィクトールは鷹揚に笑い、首を横に振った。
「構うな。ただの霧だ。この程度で尻込みするのか、グランツ?」
ヴィクトールは鞭を一振りすると、馬を前へと進める。
彼にとって、この程度の異変はむしろ己の武勇を示す
格好の舞台としか映っていなかったのだろう。
「全隊、突入せよ! 村を制圧し、魔物を根絶やしにする!」
その号令に、騎士たちは雄叫びを上げて応える。
濃密な霧を割り、騎士団が進むにつれて、その異様さは増す。
轟音に似た蹄の雪崩が、ひとつ、ひとつと消えていく。
進めば進むほど、霧は濃くなり、視界は白に、灰に支配されていく。
......隣を駆ける蹄の音が妙に遠く、
そして不規則に響くようになった。
風は止み、音は濁り、空気そのものが濃密に変質していく感覚が、
ヴィクトールを袋小路へと誘うように作用する。
(な、なんなんだ......?)
肌を撫でる湿気がじわりと冷たさを帯びるが、水とは違う。
馬の速度が落ちた。
周囲の“何か”が、それを許さぬほどに重く圧し掛かる。
──音が、全く聞こえない。
蹄の音も、鎧が擦れる音も、馬のいななきすらも。
大軍で押しかけたはずだ、
とヴィクトールはより強い不安に背中を撫でられる。
(これは……魔法か?)
村に広がる霧は自然のそれではなく、
明らかに何か別の──禍々しい意思すら感じる。
「ふざけるなッ! このような小細工、すぐに破ってくれる!」
彼が鞘から抜き放ったのは、侯爵家に代々伝わる雷槍剣。
鋭い魔力がその刀身を満たし、白銀の閃光が霧を一瞬だけ切り裂いた。
────だが。
裂かれた霧は、まるで生き物のように
瞬く間に元の形に戻り、再び彼を包み込んだ。
「これは……」
さすがのヴィクトールも表情を険しくする。
異質なこの霧は、明らかに自然現象ではない。
「おいッ! グランツ! 何をしているッ! 返事をしろ!」
声は距離を増さない。
内心の動揺は隠せない。
焦りと怒りが入り混じり、冷静な判断力が霧に混じる。
霧がさらに濃くなる。
その奥からはかすかに、何かが囁くような音がする。
人の声にも似て、けれど決して人ではない、不快な響き──
ググっと、急制動が掛かる。
馬の脚が止まり、次の瞬間、力を抜いたようにその場に膝を折った。
まるで“何か”に屈したかのように──
ヴィクトールは馬から降りると、
歩いて戻るべきか、進むべきかを考えるが、
身の危険よりも戦果への渇望が背中を押した。
そしてさらに進んだその時──
霧の奥深くから巨大な影がぼんやりと浮かび上がった。
そして、ずしん、と空気が震えると、
霧の帳がゆっくりと引き裂かれ、そこに“影”が現れた。
「な……なんだ、あれは?」
声が、喉の奥で途切れる。
ヴィクトールは言葉を失った。
霧をまとった、黒き巨影。
全身がねじれたような鱗に覆われ、その体躯は屋敷を超える。
"ソレ"は禍々しい翼をゆっくりと広げると、
まるで空間そのものが悲鳴を上げているかのように、空気が歪んだ。
"龍"。
だが、ただの“龍”ではない。
その存在は、“生き物”というよりも、“災厄”そのものだった。
ただそこにいるだけで、世界が不自然に沈黙していく。
風は止み、空気すら震えているように見えた。
ヴィクトールの額から、ひと筋、汗が垂れた。
それが冷たいのか熱いのか、自分でも分からなかった。
“死”という文字が、心を侵食し始める。
目の前の“それ”が動き出した瞬間、
この場所には誰も残らないのではないか──
そんな確信めいた直感が、全身を支配していた。
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