第49話 旧時代と新時代
王都の夜は、凍りつくように静かだった。
高くそびえる城壁は、夜光にぼんやりと照らされ、
その表面に生まれた石の凹凸は、傷跡のように陰影を描き出している。
しかし、その厳然たる威容にさえ、静かに“歪み”が混じり始めていた。
風の音に紛れ、ひとりの黒衣が城壁を沿うように歩む。
影は音もなく、確かな意志だけをまとって石畳を進んだ。
その手に握られているのは、黒鉄色の石塊──"統制石”。
魔物の"意思"をほんの少しだけ、
この石の方向に惹くことができる。
完全に統制するほど強力ではないが、それで十分だった。
「……石壁に多少魔法をかけた普遍的防御魔法か。
所詮は旧時代の枠組みに依存した結界構造だねぇ」
グリフォードは無造作に壁へ指先を這わせた。
指の腹が触れた瞬間、表面に波紋が生まれる。
「"壁"なんぞに頼るうちは、
変革なんて夢のまた夢だなぁ」
グリフォードの口からこぼれた声は、独り言のようでいて、
まるで城壁そのものを嘲笑うようでもあった。
そして統制石を城壁に対して当てると、
氷塊が急速に溶けるように、
ゆっくりと石と石の隙間へと染み込んでいった。
王都"アルサメル"東最外周の城壁に一瞬だが魔力の"歪み"が生じた。
しかし、その一瞬に気付く者はいなかった。
「……ここまでは見事としか言いようがないネ」
ジルヴァンが冷ややかな視線を送る。
グリフォードの独断専行を皮肉るような口ぶりだった。
「そりゃあどうも」
「どうするんだイ? ここから全て一人で進める気?」
「もちろんそうさ。
道具が今一番輝くタイミングで、王都を徹底的に破壊する」
低く、冷ややかな笑みが口元に浮かぶ。
確信に満ちたその言葉には、情緒のかけらもなかった。
道具──エウラ。
死霧龍の因子を宿し、“人間”とは呼べぬ力を得た存在。
だが、それと同時に、貴族の魔法を凌駕し"血統主義"への反抗の第一手。
血統を否定し、意志も制御も必要とせず、ただ“力”で全てを覆す。
新たな時代が求めた、旧時代の破壊者。
いや、“普遍魔法の象徴”。
「秩序という名の腐臭に包まれたこの都を、一度壊す必要がある。
人は"安定"に甘える……
でも変革は常に、悲鳴と共に始まるんだよ」
グリフォードは人目を気にせず豪快に軽快に笑い飛ばす。
「魔法に甘え、血に縋り、都合の悪い現実には目を瞑ってきた。
その代償が、こういう“隙”だネェ」
ジルヴァンもまた壁を見る。
魔物から人間を守るための壁は、
今や血統主義の温床を守るためのものに変質していた。
ジルヴァンは静かな怒りが湧く。
「その通りさ、だからこそ壁を"コレ"で壊しながら、
内側からも道具で破壊するのさ」
ジルヴァンは少しだけ視線をずらしながら問いを投げる。
「……エウラの制御、できるのかナ?」
「制御? する必要がどこにある?」
グリフォードは吐き捨てるかのように笑った。
その笑みには、破壊に対する一切の迷いがなかった。
「暴れさせるだけでいい。
壊れた時はその時さ」
無造作に放たれたその言葉は、
まるで使い捨ての玩具について語るかのように軽い。
ジルヴァンはわずかに視線を伏せ、
ひとつ息を吐いてから、低く問いを投げる。
「……その“壊れた時”が、思ったよりも早く来た時、
どうするつもりなのかナ?」
「そうならないように──
"ベストコンディション"で壊れてもらうさ」
グリフォードは肩をすくめる。
どこまでも飄々と、何も背負っていない人間の顔──
ジルヴァンの目が細くなる。
冷えた視線の奥で、何かが確かに軋んでいた。
「……あの少年が来るなら、
君の思った通りにはならないだろうね」
その名は出されなかったが、暗に指された存在に、
グリフォードの瞳が細くなる。
「……成り上がり庶民か。確かに“異質”ではある」
グリフォードの背に揺れる黒衣が、闇に溶けてゆく。
「だが、奴がどこに立つかはまだ決まっていない。
“秩序”に従うか、“破壊”に傾くか……
それを見極めるのも、愉快じゃないか?」
言葉には、まるで精密機械の観察記録を語るような無感情さがあった。
けれど、その奥にある“期待”と“愉悦”は、
誰の目にも明らかだった。
「それに、奴が"道具"を壊すなら、それはそれで面白いだろ!?」
鋭利な視線がグリフォードに向けられる。
それは確認ではなく、微かな殺気すら帯びていた。
「……まあそれが、もしかしたら奴への
“決定打”になるかもしれないしね」
声の調子を少しだけ和らげながら、彼は軽く笑ってみせる。
「もちろん、どちらの陣営にとっても」
ジルヴァンは応じなかった。
その視線は、遠くの霧に沈む王都の灯火へと向けられていた。
朝霧が覆う空に、ほんの微かに響く魔物の咆哮。
その音が、未来の破滅を予告するかのように──
グリフォードは、唇の端を持ち上げ、低く呟いた。
「さて……準備はできた。
もうすぐ、新しい時代が……目を覚ますだろうよ」
─────────「シュタルク要塞」
分厚い魔術障壁に包まれた研究棟の一角。
静まり返る室内には、数個の観測水晶が淡く輝いていた。
その中心──水晶に映し出された構造図の主は、ひとりの少女。
エウラ。
生まれながらに“血統魔法の外側”に立つ、破壊の象徴。
「ふふっ……全力で回ってるわねぇ、今日も」
椅子の背もたれに逆向きに座った女──クラナは、
小さな魔術測定器を弄びながら、水晶の揺らぎを見つめていた。
「この子の魔力って、“未確定振動”なの。
揺れるたびに出力も性質も変わる。
“血統魔法”の子たちじゃ、真似できないわ」
彼女の目には、そこに確かな“未来”の形が映っていた。
それは“血統魔法”に縛られた
王都の魔法体系が見落としてきた、新たな種。
「……安定しない魔力構造は、兵器としても魔術理論としても“欠陥”だ」
背後からの低い声。
現れたのは、白銀の外套に身を包んだ初老の男
──ゼノ・アラグレイ統括所長。
クラナはその声に顔を向け、にんまりと笑う。
「お師さまぁ、今日もお堅いことで。
“未確定”って言っても、暴走するほど不安定じゃないのよ?
むしろ、エモーショナルによって変化するって素敵だと思わない?」
「クラナ、お前はいつも“例外”を美化する。
だが、例外は法則ではない。制御できぬものは、力ではない」
「そう! エモいってやつ!」
「......話を聞け」
クラナの暴走はいつもの事かのように、ゼノは静かに諭す。
むぅ、とするクラナを横目に、
視線はエウラの魔力波を見据えたまま、微動だにしない。
「いいか、彼女達は感情によって魔力も"龍種の特性"も変動する。
魔力の生成自体が“感情依存”では、魔法体系としての再現性がない」
「ふふん、でもだからこそ──
血統の限界を超えられるのよ。
“家”も“位相整合性”も、その先の“共鳴”もない。
それでも魔法を発動できる存在……それって、面白くない?」
クラナの言葉は、研究者の好奇心そのものだった。
「お前は“面白さ”で魔法を語るのか......」
「うん♪ あたし、研究が好きなんだもん。
確定された魔法なんて、退屈で仕方ないわ」
「なら何故、王都の魔法体系を
“確定魔法”が支えているか分かるか?」
「支配しやすいから、でしょ?」
ゼノは首を横に振る。
「法術師の遺伝子のみを混合し、術式の成功率を100%に固定する。
謂わば血統によって代々最適化され、
安定して強化される事が決まっている“安定した魔法”。
そこに対抗するのに感情という動的性質は余りにも"脆すぎる"」
ゼノの言葉には歴史の重みが乗る。
クラナは黙ってそれを聞いていた。
ふだんなら軽口のひとつも返すところだが、今日ばかりは違った。
「......だから試すの」
クラナが、静かに口を開いた。
「エウラは“血統のない法術師”そのもの。
もし彼女が王都で魔法を暴走させれば、血統魔法の限界も分かるはず」
ゼノの目が、ほんの一瞬、鋭さを増す。
「……確かに、お前の言う通り、
感情により変動する“魔力”には目を見張るものがある」
ゼノは珍しく、肯定を口にした。
だがその声音は、どこか遠くを見据えているようでもあった。
「だが、クラナ。忘れるな。
“制御不能の異端の力”が社会を脅かせば、
それは後に悲劇の記録として残される」
重みのある言葉だった。
「制御不能な力に秩序は生まれない。
そして、“統治不能な力”に人々は恐怖し、排除を選ぶ」
彼の瞳に映るのは、かつて無数の“魔法の実験体”が生まれ、
そして消えていった記憶。
貴族たちがこの"血統魔法"の
"理不尽"を受け入れたのは合理ではなく、
“確定された魔力”に大きな力を感じられたからだった。
魔力の本質が“魂の圧力”であると定義される限り、
それを継ぐ“系譜”が力の正当性とされる──
それが、この世界で魔法を扱う者の“常識”であり、“秩序”だった。
「……それでもお前は、秩序を壊すと言うのか?」
問うた声には、怒気も嘲りもない。
ただ、長い時間を背負った者の、淡い懐疑が滲んでいた。
クラナは、その静かな問いに、数秒間だけ黙した。
だがやがて、椅子から立ち、にこりと笑って──
普段よりも少しだけ、年相応の口調で答えた。
「お師さまが“王道”なら──
あたしは、“邪道”を探す子どもでいいわ」
ゼノはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、深く、静かに息を吐き、フッと微笑む。
「……まあいい。
ならばせめて全ての記録を残せ。
崩壊は、繰り返さぬために記録する価値がある」
「もちろん♪ “面白い”って思うものほど、
きちんと残してあげなきゃね!」
クラナの笑顔には、狂気と理性が紙一重で共存していた。
それはゼノがかつて見抜いた才能であり、
今では手放した“制御不能な徒弟”の姿だった。
......水晶に映るエウラの魔力波は、
なおも回転を続け、幾度となく形を変えていく。
波形の乱れ。エネルギーの跳ね。
だがそれらは暴発には至らず、破綻寸前で揺らぎを保ちつづけていた。
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