第48話 大公の加護

 《養麗殿》




  霊泉に身を委ねたイゼルカは、


 湯座敷の浅い湯に半身を浸し、長く息を吐いていた。


 だが、湯けむりに包まれながら、まどろむように瞼を


 閉じているその様は、どこか安らぎすら滲ませていた。




 背後では、メレーネが静かに湯桶を手に取り、そっと背へ流す。


 白く細い背を拭う手は丁寧で、慎重で、慣れている雰囲気があった。




 「流石は公爵家の付き人じゃのう」




 「……ありがとうございます」




 口調こそ穏やかだが、その声にはかすかな疲れが滲んでいた。


 それを隠すように、メレーネは手拭いを湯に浸し、


 滑らかな手つきでイゼルカの肩から背へと背を撫でる様に拭き上げる。




 湯気が視界を霞ませる中、メレーネの表情は淡く、


 だがふとした瞬間に浮かぶ陰りが隠せない。




 (……こうして背を流すだけでも、息が切れそうになる……)




 その背後では、エリオスが強い霊気を含む湯を汲みに立ち、


 静かに運んでいた。


 メレーネはふと、その背に視線を向けた。




 (……あの子が、どれだけ信じられるのか。


 私には、まだわからないけれど)




 けれど、それでも。




 この静けさが続くなら、


 エウラも、いつかは……と、思ってしまう。




 「……ありがとうのぅ、メレーネ、エリオス。


 ああそうじゃ、悪いがエリオス、


 外で"コーヒー牛乳"を買ってきてはくれぬか?


 やはり温泉にはそれが無いと、雰囲気が足りんのじゃ」




 「えぇ......」




 「なにを嫌そうな顔をしとる! 


 ほら、余のツケでついでに飲んでくると良いぞ!」




 イゼルカがニヤリと微笑むと、


 エリオスは小さくため息をついて立ち上がる。




 「わかりました、買って来ますよ」




 その背が扉の向こうへと消えるのを、


 メレーネは黙って見送った。


 湯煙がそっと靡き、室内には再び静寂が戻る。


 


 「なあ、お主、なにか悩みがあるのじゃろう?」




 「どうして、分かるのですか......?」




 「伊達に長い時を生きてはおらん。


 それに、例の龍娘が急に逃げた話が腑に落ちんくてのう」




  メレーネはピクリ、と一瞬手を止めた。


 その感触を背中で感じたイゼルカは、


 静かに、そしてゆっくりと目を閉じる。


 


 そしてメレーネは震えるような声で、


 まるで懺悔するかのように話し始めた。




 「……あの子は、エウラ。


 短い間ではありましたが、確かに私の妹でした。


 ──でも、もう私のことを覚えてはいないかもしれません」




 「そうか……姉妹、とな。


 なんとも、不思議な縁じゃな」




 イゼルカの声が、湯気に溶けるように響く。


 メレーネは少しだけ目を伏せた。


 そして、淡く、けれど確かな決意を宿した声で呟いた。




 「……実験でした。


 今思えば、『血統に頼らぬ強さを、庶民にも』なんて、


 とんだ綺麗事でした。


 あの子たちは……“死霧龍”と融合させられて……人ではなくなってしまった」


 


  脳裏には、今に比べれば極めて劣悪な牢獄の記憶。


 薬液に濡れた白い小さな手、


 生きているのか死んでいるのかもわからない子供たち、


 抵抗も、泣くことも忘れた瞳が、濁流となって脳裏を揺らした。




 唇が震えそうになるのを、必死に抑える。


 この霊気すら、今の自分にはどこか重く、冷たく感じられた。




 「私が、私だけが、逃げたんです。


 ……置いてきたのに、見捨ててしまったのに、私は記憶に蓋をして、


 忙しさの中で全てを、感情を押し殺していれば、


 いずれは消えると思って、ここまで逃げてきました......」




 そう言ったとき、イゼルカは何も返さなかった。


 ただ、そっと視線を向ける。沈黙が優しく寄り添うように。




 「……あの子は、もう限界なんです。


 あの時と同じように感情を制御できないまま、


 ただ単に道具として使われてるのだとしたら……」




 周囲を傷つけ、道具となり果て戦い続けるエウラを浮かべた瞬間、


 あの時繋いだ手の温かさがフラッシュバックのように蘇る。


 


 しかし、メレーネはそれを噛み締めた上で、


 イゼルカの背中を見据えた。




 「でも、その時は私が終わらせてあげるしかない──」




 その声は、祈るように微かだった。


 言葉にできない焦りと、どうしようもない罪悪感が、


 霧に包まれた空間を重く沈ませる。




 「……そうか」




 長い沈黙の果てに、イゼルカがぽつりと呟いた。




 その声には、憐れみでも同情でもない、


 確かな覚悟の響きがあった。


 長き時を生き、数多の血と涙を見てきた者だけが持つ、揺るがぬ眼差し。




 「余は今まで数多の人間と出会い、最後まで見てきた。


 しかしな、縁に導かれる者の結末は見通すことはできん」




 イゼルカはゆっくりとメレーネと向き合う。


 「しかしの、一つだけ分かることがある。


 "かの子"は独りでは崩れる。


 きっと、お主の言う通りじゃ」




 メレーネは小さくうなずいた。


 言葉はもう出てこなかった。


 イゼルカは、メレーネに手を出すように合図をする。




 「手、ですか?」




 差し出された両手に、イゼルカは右手を重ねて何かぽつりと呟く。


 すると、メレーネの両手には、桜染めのお札が乗っていた。


 紅色で刻まれた読めないが整然と書かれた5つの文字。。




 「これは、ワシの血で綴った霊符じゃ」




 「血、ですか......?」




 「一度だけ。強く念じれば、束の間じゃが──


 …… 余の力が”加護”として受けられる」




 そっと差し出された札は、どこか温もりすら帯びていた。


 しかしそれは、慰めではなく──覚悟の重みだった。




 「ただしな。これにはひとつ条件がある」




 イゼルカは真っ直ぐにメレーネを見た。


 その瞳に、僅かな迷いもなかった。




 「この霊符は、お主が握らねば動かん。……"姉"として、な」




 メレーネは、札に視線を落とした。


 霧に滲むように、手が震えていることに気づく。




 「……どうして、私が?」




 その問いに、イゼルカはふっと笑った。


 それはどこか哀しみを帯びた微笑みだった。




 「この力はな、”祈り”の力にしておくべきじゃ。


 誰かを”壊す”ためじゃなく、


 ”守りたい”と願ってこそ──真に届く」




 「……」




 「もし、エウラに手が付けられんようになり、


 エリオスでも止められぬと感じたとき。


 そのときは、強く念じるがよい。


 お主の想いに応じて、加護が彼に降りよう」




 静寂が満ちる。




 メレーネは、震える指先で霊符を見据えた。


 光っているわけではないのに、


 何故か光を感じずにはいられない。




 (……私の手で、あの子を──)




 迷いはある。けれど、それ以上に願ってしまう。


 もう誰も、ひとりで泣かせたくないと。




 「ありがとう、ございます......」






────────王都東側、すでに打ち捨てられた廃村。




 かつて人々が営みを紡いだであろうその場所は、


 朽ち果て、荒れ果て、今は静かな亡骸のように横たわっている。


 崩れた家屋の隙間から草木が伸び、微かな風が砂埃を巻き上げた。




 その静寂を切り裂くように、一人の少女がかつては


 団欒の場所であっただろうリビングルームの一画で、縮こまる。




 「……お姉ちゃん……?」




 自分でも意識していなかった言葉が口をついて出る。


 次いで、エウラの呼吸が荒く乱れる。




 (あの子……どうして泣いてた? 私、なんで逃げた……?)




 胸が締め付けられるような感覚が湧き上がる。




 ……触れたい──




 ある瞬間だけ、エウラの中にある混乱が静まるような、


 温かな空間が広がったのだ。


 しかしその安堵が訪れた瞬間、


 彼女の心には正反対の衝動が生まれた。




 「……邪魔。全部、壊したい」




 (……なぜ? 温かいのに……どうして壊したい?)




 手が震え、視界が大きく乱れる。


 記憶の断片が脳裏を巡り、まるでふたつの人格が分離して揉める様に、


 彼女の頭を激しく揺さぶった。




 「……わかんない……痛い……うるさい……全部、止めたいのに……」




 (……全部消えたら、もう痛くない? 怖くない?)




 歪んだ哀しみが、破壊への渇望へと変貌する。




 「……全部消す。消えれば、きっと楽……」




 その声はどこか幼く、壊れた願いのように儚かった。




 エウラの魔力が爆発寸前まで高まり、


 世界が白く染まり始めたその瞬間──




 「そうだよ。それでいいんだ」




 冷たい闇の中から、静かな男の声が響いた。


 ──グリフォード。


 彼はゆっくりとエウラの背後に立ち、その肩に静かに手を置いた。




 「その感情こそ力だ。そして君の感情は理想を叶えるだけの力がある」




 エウラは反射的に振り返ったが、


 そこにあったのはどこまでも冷たい瞳だけだった。




 「さあ、溜め込む必要はない。


 その痛み、その哀しみ、すべてを"吐き出せる"場所に案内しよう……」




 彼の声に誘われるように、エウラの感情が膨れ上がる。


 怒り、悲しみ、孤独。


 崩壊寸前の心が、再び暴走の淵へと沈み始める。




 「……みんな、うるさかった……。


 誰も、褒めてくれなかった……


 痛くても、止めてくれなかった……


 でも──あの声だけ、あの手だけ優しかった……どうして……?」




 ──琥珀の瞳に浮かんだのは、忘れかけた温もり。




 (あれは、誰? あれは……わたし?)




 エウラの唇が微かに震え、苦痛と切望の入り混じった言葉を小さく紡いだ。




 「…...誰か......助けて──」




 助けてもらえない事は分かって吐いたその言葉が、


 エウラの心をより深く、そして惨たらしく抉った。

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