第46話 無尽蔵の力
風が、ひとひらの花弁をさらっていった。
白薔薇の咲き誇るラグナディア家の庭園。
その一隅、窓辺の蔭に佇む少女の姿があった。
エスメラルダは静かに、表情ひとつ変えることなく、
建物の回廊を見つめていた。
──そこには、エリュシアとヴィクトールの姿。
距離が遠く、声は届かない。
それでも、そのやりとりの「温度」は、手に取るように伝わってきた。
ヴィクトールの傲慢な微笑。
エリュシアの張り詰めた背筋。
そして──別れ際、ほんの一瞬だけ崩れたその笑顔。
(……限界が近いのかしらね)
エスメラルダの指先が、レースの手袋の上からそっと震える。
視線を逸らすことができなかった。
エリュシアの表情が、あまりにも脆く見えたから。
「……あの時の威勢はどこへやら、ですわね」
だからこそ、胸に芽生えた“感情”に、
エスメラルダ自身が最も驚いていた。
(今の彼女なら、エリオス様は……)
気づけば、そんな考えが浮かんでいた。
否──浮かんでしまったのだ。
(このままエリュシアが倒れれば……彼は、私だけを見てくれる?)
瞬間、体の奥底から冷たいものが這い上がった。
エスメラルダは、わずかに身をすくめる。
「ッ……なんて、醜い!」
自分自身の心が、何よりも恐ろしかった。
いつも完璧であるべき自分が、誰かの“弱さ”を望んでしまった。
否定しようとしても、思考の片隅には確かに存在していた。
“エリュシアが崩れたら、私の番だ”という甘い囁き。
エスメラルダはそっと息を吸い、いつもの優雅な笑みを浮かべる。
……けれど、そこにあるのは、もはや“完璧な仮面”ではなかった。
(私は……こんなことのために、ここに来たのではありませんわ)
そう思いながらも、胸の奥には消えない熱が渦巻いている。
焦燥とも、嫉妬ともつかぬ、濁った感情の塊。
エスメラルダは音も立てずに踵を返し、その場を離れた。
絹の裾が揺れ、薔薇の香りが微かに残る。
背中には、誰の目もない。
だからこそ、彼女の表情は、一瞬だけ脆く揺らいだ。
────────────────
辺境の空気は、どこまでも澄みきっている。
『澄天の湯』から少し離れた裏手に、
小さな木造の小屋があった。
薄く張られた霊符が風になびき、陽の光を受けてかすかに輝いている。
エリオスは小屋の縁側に腰掛け、ぼんやりと空を見上げていた。
青く深い空には、羊雲がゆったりと流れている。
「のんきに空を眺めとるのう、エリオス」
不意に、穏やかでどこか悪戯めいた声がした。
振り返ると、イゼルカが縁側に並ぶように座り、
白く細い脚を無邪気にぶらぶらと揺らしている。
「随分と体調が戻られたようで何よりですよ」
「うむ、おかげさんでの。
まだ無茶はできんが……まあ、のんびりじゃ」
彼女はそう言って、くふふ、と小さく笑う。
「……お主はどうじゃ? いつまでここでぼーっとしとるつもりじゃ?」
エリオスは少し困ったように微笑むと、
自分の掌をじっと見つめた。
「俺も早く動きたいんですけどね……」
「まだ何か引っかかっとるんか?」
エリオスは頷き、空を見上げたまま、ぼんやりと言葉を紡ぐ。
「イゼルカ様の毒を遅延させているときにふと思ったんですが、
魔力って尽きることは無いんですかね......?」
イゼルカが興味深げに身を乗り出す。
「……ほほう? 尽きぬ、とな?」
「いくら遅延魔法を使っても、魔力が途切れる感覚がないんです。
村にいた頃は、遅延魔法なんてそうそう使うタイミングもないし、
自分がどれだけ使えるのかも知らなかったんですよね」
イゼルカは顎に指を添えて、うーむと考え込む仕草をする。
「まあお主の魔法は”受け身”じゃからなぁ。
外からの介入があって初めて顕現するわけじゃし、仕方なかろう」
だが──、とイゼルカは続ける。
「普通でないどころか、常識破りじゃ。
……そもそも魔力とは、内に溜め込んだものを
使い切ったら休まんと枯れるものじゃ」
「枯れる......?」
「枯れたことが無い者に説明するのは難しいがの、
魔力というものは精神とかなり密接な関係がある」
エリオスは首を傾げる。
「良いか、魔法というのは謂わば水鉄砲なのじゃ」
「水鉄砲ですか?」
「魔力即ち水、それを打ち出す力が魔法。
お主の場合、もしかすると延々と水が漏れてる状態なのかもしれんのう......」
イゼルカは数分ほど考え込み、いや違うと顔を変える。
「……もしやじゃが、『場』そのものから魔力を
吸っとるのではなかろうな?」
「場……?」
「この世には、空間自体に魔力のようなもんが満ちておる。
通常、人はそれに触れることはできぬ。
だが、お主の魔法はどこか『揺らぎ』がある。
そのせいで『まだ確定しとらん魔力』を拾い集めてしまっとるのかもしれん」
エリオスは難しい表情で首を傾げる。
「揺らぎ、ですか……?」
「そうじゃ、魔法そのものを意図的に遅らせるお主の魔法は、
既存の魔法体系とは完全に異なる。
それでいて常に魔力が漏れ続けると言う事は、即ち──」
「──魔力の生成過程そのものが根本から違う、
と言う事ではなかろうか?」
エリオスは眉を寄せ、小さく首を振る。
イゼルカもまた難しい話に飽きたのか、
ふと小さく欠伸をすると、
エリオスの肩にもたれかかるようにして甘える。
「ま、細かいことは公爵娘たちに任せてええじゃろ。
それより、もうちとここでのんびりしたらどうじゃ?
どうせ王都に戻れば、すぐ忙しくなるじゃろうし」
「まあ、イゼルカ様が元気になるまでは残りますよ」
「それはそれで嬉しいような、王都が心配になるような、
大公の立場は厄介じゃなぁ」
彼女はそう言うと、足をパタパタと浮かせる。
エリオスは微笑みながら、小さく頷いた。
「……立場、ですか」
「そうじゃ、人は必ず"立場"が憑いてまわる。
それは権力のような有利な振る舞いに見えるが、
その逆に強力な制約にもなる」
「それは時に、"己の心情と相反する事であっても"
立場という力は、強制力を発揮する厄介な力となる」
「やっぱりトレードオフなんですか」
「そう。魔法も、霊力も、人の世も、全ては"理"の上にあるもの。
壊そうとする者ほど、結果的には”踊らされておる”のが、この世の理じゃ」
澄んだ空気に包まれ、
ふたりはしばらく黙って空を見つめていた。
(俺の魔法が特別なのは分かる。だが、その理由も、
本当の力もまだ俺自身が理解できていない──)
静かな風の中、エリオスの胸には小さな疑問と、微かな予感だけが残った。
それが今はまだ、明確な答えに結びつくことはないのだと、
彼自身が一番よく分かっていた。
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