第45話 英雄不在
──王都・アルサメル魔法学院 応接室
学院の応接室には、落ち着いた青の絨毯と、天井まで届く書架。
窓からは穏やかな日差しが差し込んでいたが、
その空気はどこか冷ややかだった。
迎えに出たのは、学院の教師数名と魔法理論の研究員たち。
「このたびのご帰還、心よりお祝い申し上げます。
エリュシア様、エスメラルダ様......」
年配の教師が口を開き、会釈する。
その背後では、若手研究員たちが並び、
鋭い視線を隠そうともせずにいた。
「それにしても、“辺境の戦果”とやらは、なかなかに話題ですね」
一人の研究員が、わざとらしく笑みを浮かべながら言った。
「“庶民の法術師”が龍の力を退けた、
というのは……いささか脚色が過ぎるのでは?」
「実際にご覧になったのでしょうか?」
もう一人の若い法術師が、
興味と皮肉を半々に混ぜた声で尋ねる。
「庶民が強力な法術を扱ったと聞けば、
誰しも驚くのは当然のことです。
しかし、噂だけで判断するのは早計では?」
エリュシアは、ひとつ頷いてから口を開いた。
「たしかに、実際に目にしていただく機会がない以上、
誇張と感じられるのも無理はありませんわ。
ですが──“事実”は、結果によって証明されるものです」
「ふむ、しかし結果といっても……“帰還した”という一点のみ。
それで龍を退けたなどと断定するのは、少々危うい論理では?」
年配の教師が静かに首をかしげる。
エリュシアはその目をまっすぐに見返す。
「“帰還した”という一点を軽んじてはなりませんわ。
あの霧の中から、それも"単独で"、生きて戻るということ。
それは時に、どんな魔法理論よりも確かな実績になるはずです」
「……お言葉ですが、王都における魔法体系は、
結果よりも“再現性”を重んじます」
別の研究員が、冷ややかに言葉を挟んだ。
「一度きりの勝利ではなく、構造の理解と理論による裏付け。
それがなければ、“偶然”と何ら変わりません」
「ええ、よく存じておりますわ」
エリュシアは微笑を崩さず、ゆっくりと椅子に座る。
「だからこそ、お伝えしているのです。
彼の戦い方は、偶然ではありませんのよ?
ただそれは、王都の理論で解き明かせないだけですわ」
エスメラルダのその言葉に、一瞬だけ室内が静まる。
「ほう……つまり、我々には理解できない“特異”な力だと?」
年配の教官が目を細めた。
「理論を否定するのではなく、視野を広げるということですわ。
魔法もまた、“時代とともに変化する”。
私はそう信じております」
言葉を重ねるごとに、エリュシアの声音は凛と澄んでいく。
だがその胸の奥では、冷たい怒りが小さくくすぶっていた。
この場に、エリオスがいれば。
たった一度でも、その“遅延”を目にすれば──
誰もが否応なく理解しただろうに、と。
──────同時刻・学園中庭
だが、今日に限って、その雰囲気はどこか張り詰めていた。
「だから言ってるだろ! エリオス殿は本当にすごい人なんだ!」
レイドの熱っぽい訴えが、中庭に響く。
彼の真剣な眼差しは揺るがず、その姿は懸命な若い騎士そのものだった。
「その話はさっきから聞いているがね」
一人の魔法教官が釘をさすかのようなため息を漏らした。
「庶民がどれだけ強くても、
我々が動く理由にはならないのだよ」
周囲の学生や教官が頷き合う。
そこには明らかな冷笑が混じっていた。
「……それでも、実際に問題が起きる前に
協力を約束していただけませんか?」
マリアは穏やかな声で丁寧に頭を下げる。
しかしその謙虚な姿勢すら、この場の空気を変えることはできなかった。
「……君たちはどうやら根本的なことを理解していないようだな」
冷たく響く声が、中庭に静かな波紋を広げる。
振り返った先には、深紅の髪を持つ青年──
アルヴィス・フォン・マイバッハが腕を組みながら立っていた。
その瞳はまるで凍える湖面のように冷徹で、レイドとマリアを見下ろしていた。
「アルヴィス様……」
レイドは歯を食いしばる。
だが、その威圧的な視線を前に、言葉が詰まった。
「貴族社会が庶民に踊らされるなどということがあってはならない。
庶民には庶民の役割があり、貴族には貴族の戦い方がある。
それを忘れてしまったのか?」
周囲の貴族たちが軽い笑い声を上げる。
その笑いは明らかな侮蔑を含んでいた。
「……でも!」
レイドが声を荒らげかけたその時、
マリアが静かに彼の腕に手を添える。
「レイド、今は……無理に言葉をぶつけても、伝わらないわ」
レイドは唇を噛んだが、
マリアの冷静さに促され、言葉を飲み込んだ。
「……聡明な判断だ、マリア嬢」
アルヴィスはマリアを冷ややかに見つめ、薄く笑う。
「庶民の英雄などという"幻想"を学園に持ち込むのは控えたまえ。
学園は王都貴族の未来を担う場だ。
その品位を汚すような行為は慎んでもらおう」
「品位……?」
レイドの拳が震える。その目には怒りと悔しさがにじんでいた。
「君にはまだ理解できないだろうが、
貴族社会はそうやって秩序を守ってきた。
秩序が乱れれば、我々は支配者としての義務を果たせなくなるのだよ」
アルヴィスは静かに言い放ち、彼らの返答を待たず、背を向けた。
その背中を見つめながら、レイドは小さく呟く。
「……エリオス殿がいれば、こんな……」
それは悔しさと怒りと──
そして、自らへの不甲斐なさを含んだ、小さな独白だった。
マリアも笑みを終始崩さなかったが、手のひらは僅かに震えていた。
────────王都・アルサメル魔法学院、応接室からの道中
エスメラルダもまた、
もどかしさを胸に馬車に揺られていた。
夕暮れの街並みを映し出す車窓からは、
いつも通りの王都の風景が静かに流れてゆく。
だがエスメラルダの瞳は、微かな憂いと冷ややかな失望に沈んでいた。
「……あれほどの報告をしても、この有様ですのね」
呟くように漏れたその声に、向かい側に座る
エリュシアは静かに目を閉じ、小さくため息をついた。
「王都貴族の目は、常に内側しか向いていないのよ。
外からの変化を、脅威としか感じないのだから」
どこか諦めたようなその口調に、
エスメラルダは寂しげに微笑を浮かべた。
「……結局、彼らは何も変わろうとしない。
いいえ──変われないのかもしれないわね」
エスメラルダは小さく窓ガラスに指を添える。
彼女の胸中に浮かぶのは、王都の貴族たちに欠けているものを
確かに持った人物──エリオス・ルクレイ。
強くて、そしてどこか不器用な庶民の青年。
もし彼が今ここにいれば、
王都の停滞した空気に一石を投じられただろうか。
エスメラルダはそっと唇を動かした。
「……こんな愚かな世界、あなたが変えてしまえばいいのよ」
その呟きは馬車の静かな揺れの中で溶け、
誰の耳にも届くことなく消えていった。
──夜・ラグナディア邸 エリュシアの私室
夜の帳が落ち、蝋燭の淡い光が室内を仄かに照らしていた。
机に並ぶのは、辺境で起きた出来事をまとめた報告書と、
詳細に記された地図。
その資料を眺めるエリュシアの表情には、疲れと苛立ちが濃くにじんでいた。
(辺境の異常事態を報告しても、
ヴィクトールの厚かましい態度も、
学園の無理解な反応も……
どれも、王都貴族という枠組みが生み出した“歪み”に過ぎない)
エリュシアは小さく息を吐き、頬杖をつく。
「……本当に、嫌になるわね」
独り言のように口にしたその声は静かな
部屋に染み入ったが、誰もそれに答える者はいなかった。
(それでも……)
彼女の手は強く握り締められ、机上の書類を掴み取るように触れる。
その目には鋭い光が宿っていた。
ふと、彼女は足取りを軽くし、エリオスに貸し与えた部屋に向かった。
大きな扉を開けると、そこにはまだ残り香があった。
エリュシアはベットの端に座り、ゆっくりと横たわる。
彼女の胸に浮かぶのは、エリオスの迷いのない瞳。
自分とはまるで異なる場所で育った、強くまっすぐな視線だった。
(貴方が王都に来れば、きっと──)
エリュシアはその思いを胸に、静かに目を閉じた。
──ファルクス家・執務室
その頃、ファルクス家の邸宅では、
一室だけが煌々と灯りをともしていた。
豪奢な装飾が施された執務室。
深い色調の書棚が壁を埋め尽くすその中央に、
ヴィクトール・フォン・ファルクスが座していた。
彼の指先には一枚の書類──辺境での戦闘報告と共に、
忌々しいほど繰り返される『エリオス』の名が記されていた。
「……庶民などに頼るとは、まったく愚かな話だ」
ヴィクトールは低く呟き、その冷たい瞳を
書類からゆっくりと窓の外へ移した。
「エリュシアもいずれわかるだろう。
結局、最後に頼れるのは血筋と家柄だけだということを」
室内の影から、控えていた執事ダグラス・ハイドナーが
一歩前へと進み出た。
その表情はいつものように落ち着き、穏やかだったが、
どこか注意深さを秘めていた。
「……しかし、もしエリュシア様が
思い直さなければ、いかがなさるおつもりで?」
ヴィクトールの口元に微かな笑みが浮かぶ。
それは温かみとは無縁の、氷のような笑みだった。
「……そうならざるを得ない状況を作るまでだよ」
彼の指がもう一度、エリオスの名をなぞる。
その仕草には、相手を見下す明確な意思が込められていた。
「彼女が、二度と下らない幻想に惑わされぬようにな」
静寂の中でヴィクトールの瞳だけが冷ややかに輝き、
薄暗い室内に冷たい影を落としていた。
ダグラスは内心、小さくため息をつく。
彼は幼い頃からヴィクトールとエリュシアを見てきた。
幼少期の二人は、確かに仲睦まじく、
共に未来を語らい合う姿もあったというのに──。
ダグラスはそっと視線を伏せた。
……願わくば、2人にとって良い方向に進んでほしい、と。
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