第43話 霧が晴れたその先で
──辺境・霊狐宮
辺境の地を包む濃霧が、ようやくその呼吸を緩めた頃。
ぼんやりと白い帳をかき分けるように、
一つの影がゆっくりと霊狐宮へと戻ってきた。
その姿は、見る者に静かな戦慄を覚えさせた。
服には乾いた血と焦げたような跡、肩から胸元まで裂けた布。
体中に痛ましいほどの傷跡が残り、足取りもどこか重い。
だが、その歩みに迷いはなかった。
「……エリオス様!」
先に気づいたのは、メレーネだった。
彼女は駆け寄ろうとしたが、その足を途中で止める。
彼の表情を見たからだ。
傷ついた肉体の奥から、確かな光が宿っていた。
「なんとか……帰れた」
エリオスは、そう言って微かに微笑んだ。
メレーネは安堵の息を吐いたが、その胸の内は複雑だった。
あの霧の中にいたのは、確かに──エウラだった。
妹であり、失われたはずの存在。
しかし彼女の姿は、かつて共に過ごした時とはあまりに違いすぎた。
(でも……確かに、あれは……)
自分を見つめ返すような、あの瞳。
思い出すたび、胸が痛んだ。
でも今は、その妹を止めてくれた男に心の奥で感謝した。
「……今は、戻ってくださっただけで、十分です」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
だが、彼女は頭を下げ、それ以上を口にしなかった。
「あれ? やっぱり出ていくとこ見られてたのか......?」
エリオスは流石はメレーネ、という顔つきで頬をポリポリとかく。
変わらないその態度に、メレーネもクスリと笑う。
「当然ですよ、私は"付き人"ですから」
メレーネはゆっくりとエリオスを見上げる。
この先、どれだけ混沌の渦に巻き込まれようとも、
この人はきっと光を見つけてくれる。
そう、思ってしまったのだ。
思わず、信じたくなってしまったのだ。
(……この人なら、もしかしたら──)
心のどこかで、そう囁く声がした。
それは“付き人”としての感情ではなく、一人の人間として、
彼に希望を託したくなる──
1人の少女として、"姉"としての想いだった。
────────
霊狐宮、イゼルカの居室は静かだった。
障子越しに差し込む日差しが、
部屋の中をほのかに暖める。
戻ってきたエリオスは、
静かに膝をつき、寝台の横に座っていた。
「……おお、戻ったかの」
そこにはイゼルカが、白い布団に身を預けていた。
かすれた声だった。だが、その口調には不思議と芯があった。
「はい。なんとか……退けました。ただ……」
エリオスは言い淀み、視線を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、琥珀の瞳と、龍の如き圧力。あの“少女”の姿だった。
「……力の差は明白でした。
俺は、ただ……奇跡的に生き残っただけです」
エウラは何かに悶えたかのようにして姿を消したが、
それは決して自分自身の力によるものではなかった。
エリオスは思う。
──決定打が無い、と。
イゼルカは、目を細める。
小さく息をついた後、ゆっくりと体を起こしてエリオスを見やる。
「そうやって、己を卑下する者ほど──
真に『勝利』に近い場所におるものじゃ」
その言葉は、水面にひとしずく落ちた雫のように、
ゆっくりと広がっていく。
エリオスは顔を上げた。
イゼルカは、微かに笑っていた。
「死霧龍とはのう、【死の霧を纏う、幻想災厄の竜】と呼ばれておった。
如何なる法術師でも、王都の精兵でも、魔法では奴には勝てんのじゃ」
イゼルカは過去の出来事を、
脳裏で参照するかのように続ける。
「余は魔法も使えるが、霊力の方がより高い次元で動かせる。
奴に対抗できるのはこっちの力よ」
「それが"霊力"ですか......」
「知っておるかの?
魔法は基本的に方向を持った“波”として振る舞うが、
霊力は“その波の基盤=場の秩序”に作用する事ができる」
「つまり、魔力の振る舞いそのものに介入できる、と」
「その通りじゃ。だから余は死霧龍を封じ込めることができる」
「だがの、霊力にも欠点がある」
イゼルカは布団の上でそっと手を重ね組むと、
その金の瞳が、真っ直ぐエリオスを見据える。
「魔法という基盤に介入できると言う事は、
即ち、"場の秩序"に作用すると言う事。
つまり、魔法に介入すると言う事は逆に介入される覚悟も要求されるのじゃ」
その言葉を受けて、エリオスの眉がわずかに動いた。
場に作用するということは、外部と繋がるということ。
それはつまり、自分自身が“閉じた存在”でいられなくなるということだ。
「特に、今回は良い学びじゃったが、
まさか"呪い"を場に仕込むとはのう」
強くあればあるほど、深く繋がり、そして深く侵される。
自らの精神すら「媒介」となるその仕組みに、
エリオスは、ほんのわずかな戦慄を覚えた。
「霊力は繋がる力ってことですか.......」
「どうじゃ、一長一短あるであろう?」
「は、はい......」
「だがの、お主は違う」
「......?」
イゼルカの言葉に、彼の目は逸れなかった。
なぜなら、すでにその領域に、
彼自身の“魔法”も触れ始めていると──本能で、感じていたからだ。
「魔法に作用する魔法、そして場の介入を受け付けない禁域。
まるで、あらゆる魔法を否定する為の存在じゃが、
逆にそれが奴にとっては最大の足かせとなるのじゃろう......」
相手に不利を押し付ける強力な"魔法を否定する魔法"。
エリオスは、口を開きかけ──しかし、言葉を飲み込んだ。
「お主の力は、それだけに危険じゃが、まあ問題は無かろう」
ククク、と力なく笑うイゼルカに、
エリオスは膝の上の拳を強く握りしめる。
彼女の言葉は、あまりにも温かく、そして重たかった。
「……ですが相手は龍ではなく、少女でした。
そして“死霧龍”の因子を纏っていました」
「ふむ……やはり、あの噂は真実じゃったか」
イゼルカの瞳が、ふと遠くを見つめる。
「古き時代に封じられた龍の残骸を、こんな形で……。
禁忌に触れし者どもは、ついに『完成』へと至ったのじゃな」
彼女の声は静かだったが、その奥底には怒りとも悲しみとも
つかない感情が渦巻いていた。
しばらく沈黙が流れた。
やがて──イゼルカは、もう一度、エリオスの瞳をまっすぐに見据えた。
「お主が、行かねばならぬ時が来る。
王都には、未だ真実を知らぬ者たちが多い。だが……」
彼女の声が、少しだけ優しくなる。
「お主は、そのすべてを ”変える場” となる」
その言葉に、エリオスは息を呑んだ。
彼女の瞳には、一切の疑いがなかった。
「……俺は、まだ答えを出せていません。
ただ、守るべきものがあるなら──進むしかないと、そう思っています」
「それでよい。答えなど、後からついてくるものじゃ」
イゼルカが再び熱にうかされるように倒れ、
上半身を布団に委ねる。
エリオスは静かに遅延を発動させたのだった。
────────────────
その晩、小さな作戦会議が霊狐宮の一室で開かれた。
集まったのはエリオス、エリュシア、エスメラルダ、マリア、そしてレイド。
部屋の空気は静かで、どこか緊張感を帯びていた。
強力な魔物が東部辺境に現れ、イゼルカ弱体の今、
秩序の破壊を予感させるには十分な証拠は揃っていた。
最初に口を開いたのはエリュシアだった。
「王都の貴族たちは、辺境の現状を“遠い出来事”としか思っていないわ。
私たちが戻って直接伝えなければ、何も動かないでしょうね」
彼女はソファの肘掛けに指を添え、軽く足を組み替える。
「私も同意見ですわ」
エスメラルダが続ける。白金の髪を一つ払い、すっと背筋を伸ばす。
「王都に混乱が広がる前に、私たちが動く必要があります。
……王都の者たちは未だ目覚めていない。
ならば、貴族の責務として私がその目を開かせて差し上げましょう」
「……私は、できる範囲で皆さんの支えになります」
マリアが静かに微笑みながら言葉を継ぐ。
その声音には、温かさと落ち着きがあった。
「回復術士として、王都での備えと治療の準備は
万全に整えておきます。
何かあった時には、いつでも動けるようにしておきますから」
「俺も学園に戻ったら、すぐにこのことを知らせます!!」
レイドが勢いよく声を張った。
肩肘張った様子で拳を握りしめる。
「王都に何かあっても、俺たちが踏ん張れるように……」
レイドの視線はエリオスへと向く。
エリオスは皆の顔を順に見渡し、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう。……でも、俺は王都へは戻れない」
一瞬、場の空気が凍りつく。
エスメラルダが眉を上げ、エリュシアが静かに目を細めた。
「……理由を、聞かせてくださる?」
「イゼルカ様の状態が不安定なんだ。
毒を小出しにして中和させていくには、
俺の魔法が……“遅延”が役に立つはずだから」
エリオスの声音には、確かな迷いのなさがあった。
「俺が離れたら、イゼルカ様も、この街も持たない。
だから、ここに残る」
しばらくの沈黙の後──
エリュシアがふっと息をついて、優しく笑う。
「……そう。貴方らしいわね」
エスメラルダは一度だけ軽く目を伏せ、静かに言った。
「私たちは王都を整え、貴方が来るべき舞台を整えておきますわ。
だから……必ず、戻ってらして」
「エリオスさんがいてくだされば、イゼルカ様も安心できるでしょう」
マリアが穏やかに言い添える。
「それに、こうして皆が役割を持つ今、
私たちはそれぞれの場所で戦うべきです」
「それなら安心です! エリオスさんがいれば百人力だし!」
レイドが親指を立て、明るい声を響かせた。
「王都は俺らが守ります!」
エリオスは頷くと、立ち上がって皆を見渡す。
「……ありがとう。俺も全力で備える。
だから今は、王都を頼む」
「大丈夫よ。王都は私が預かっておくわ」
互いが口にせずとも意図を汲み取る、
その静けさの中に確かな信頼があった。
それはまるで──長年連れ添った夫婦のような、自然な呼吸の一致だった。
──翌朝。
エリュシアとエスメラルダ、マリアとレイドの四人は、
王都へと向けて帰っていく。
馬車の車輪が砂利を踏む音が、少しずつ遠ざかっていく。
その背中を、エリオスとメレーネが並んで見送っていた。
──全てはまだ、始まったばかりなのだ。
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