第42話 私は従者
ある夜、ふたりの魔力が激しく乱れた。
特にエウラの内側からあふれたものは、もはや“力”ではなかった。
怒り、恐れ、痛み、孤独、愛、家族。
言葉にならない想いが、“霧”となって実験棟全域を覆い尽くす。
施設は非常事態に突入した。
拘束装置が効かない、術者複数名の錯乱。
安全装置すら暴走し、封印結界の術式が次々に書き換わり無力化される。
「抑えろ! “奴ら”を制御しろ!」
「隔離室ッ!! ──"死霧"の拡散が始まっている!」
叫び声。走る足音。砕ける音。
リミアは、自分の足で立っていた。
倒れた研究員の鍵束を奪い取る様に拾い、
濃い霧の中を──ただ走り続けた。
「……逃げなきゃ」
「ここから、ふたりを連れて……」
でも──遅かった。
よたよたと走るリグネの姿が、霧の奥に消えていく。
エウラの魔力はさらに暴走し、隣の部屋ごと崩落。
「リグネー!! エウラー!!」
見えない。
呼んでも、返事はなかった。
その直後、【命令】が出された。
「状況制圧のため、対象全廃棄を許可する」
「研究資料を最優先に、素体は不要だ」
──実行された。
炎が、走った。
魔法が、檻を焼いた。
誰かが転げ回った。
誰かが壁を叩きながら泣き叫んだ。
名前を持たなかった子たち。
言葉を交わすこともなかった子たち。
今、燃えて、崩れて──もう、いない。
リミアはもう叫ばなかった。
科学者の使う魔法は、全てを燃やし尽す。
涙も流れなかった。
──火の中を。
──瓦礫の間を。
──かすかに生きていた子が手を伸ばしてくる姿を。
ただ、逃げる様に走った。
妹の名を、心の中で何度も叫びながら。
そして──
朽ちた裏扉から、偶然外に出た。
足は、傷だらけだった。
空は暗く、風は冷たくて。
でも、リミアは歩いた。
歩き続けた。
森の中を、川のそばを、血のついた石畳を、
あてもなく歩き続けた。
────────────────
夜が明けた。
けれど、世界は何も変わらなかった。
太陽の光でさえ、もう温かくはなかった。
喉が渇いていた。
声が出なかった。
体は重く、思考は濁って、心はどこかに置いてきたままだった。
でも、歩くことだけはやめなかった。
誰かが言った、「動け」の言葉がまだ耳に残っていた。
まるでそれが命令であるかのように。
雨が降ってきた。
体が冷え、風に晒され、怪我はそのまま。
「──痛い」
生きている、生き延びてしまった彼女が
最初に感じたのが痛み。
神経という電気信号が機械的に操るように、
雨を避けて木々の間を彷徨い、見つけたのは、小さな小屋のような影。
高く積まれた麻袋の隙間。
塩と干し草の匂い。
物音を立てぬよう、気配を殺し、ただ潜り込んだ。
屋根がある。
壁もある。
そう見えた。
──ただ、それだけだった。
眠るためでも、休むためでもない。
“もう動けない”というだけだった。
そして、深く眠った。
───小屋が動いていた。
振動が腹に響き、まぶたがゆっくりと閉じていく。
まさか、小屋だと思ったその場所が、
交易路の荷台の上だったと気づいた時には、
既に巨大な門を潜り抜けた後だった。
──腹の下で、車輪の音が止んだ。
"誰か"の怒鳴り声が遠く聞こえ、荷台が揺れる。
次の瞬間、バランスを失った身体は、
高く積まれた麻袋の間から、ごとん、と音を立てて落ちた。
地面が固い。
空が広い。
けれど、世界は色を持たなかった。
麻布の衣がゆっくりと染みていく。
人の声も、車の音も、街のざわめきも、
まるで夢の中のことのようだった。
少しだけ、逃げるように歩いて路地裏で座り込む。
もう彼女には何かを思考する余裕はなかった。
そして──その“誰か”の声が、聞こえた。
「……あなた、名前は?」
はっとして、顔を上げる。
光が、差していた。
蒼髪の少女がいた。
目の前に立つその人は、陽を背負っていて、
表情がよく見えなかったが、大人に見えた。
──もう、名前なんて……思い出せない。
ただ唇が震えて、乾いた空気を押し返すように……沈黙する。
「……こんなところで何をしているの?」
問いかけは、まっすぐだった。
優しくもなく、冷たくもない。
ただ、向き合うための言葉だった。
少女は、ただ首を横に振った。
何も、ない。何も、分からない。
そのとき──彼女は、ふっと微笑んだ。
「ふうん。じゃあ、何もないなら……私が決めてあげるわ」
空色の髪が揺れた。
風が吹いた。
その中で、彼女は宣言した。
「メレーネ」
……その音が、自分に向けられたのだと理解するまで、少しかかった。
「今日からあなたは、メレーネよ」
「私の従者になりなさい」
言葉が、命令のように響いた。
まるで、誰かが「動け」と言ったときのように。
けれど、その響きは、どこか違っていた。
──差し出された手。
彼女は手を引っ込めようとした。
既に鍵をかけた記憶の鎖が揺れたから。
けれど、その手は、引かれるよりも早く強引に掴まれた。
「この杜撰な積み方ッ! どうしたら“人”が混ざるのよっ!」
メレーネの手を引きながら、
エリュシアは平謝りする男を指さして叱りつけている。
その声が、強かった。
どこか意地っ張りで、
けれど真正面からぶつかってくるような声だった。
その瞬間、何かが剥がれた気がした。
過去の名も、数字の印も、焼けた檻の記憶も。
全部が、彼女の手に引っ張られて、どこかへ落ちていくようだった。
──私は、メレーネ。
あなたの従者。
あなたのために、生きる者。
心の奥で、静かに、そう誓った。
名前も、命も、何もかも。
あの夜、全て消し去って、ここに、“再び生まれた”のだった。
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