第41話 琥珀の瞳

 ──水の音がする。


 ぽた、ぽた、と。

 滴るように静かで、けれど、絶え間なく響いてくる音。

 それは誰かの泣き声にも似ていた。 


 石の床に横たわる少女の視線には、なにも映していなかった。


 寝るときも、立たされるときも、怒られるときも、変わらず冷たいまま。

 リミアはそれを不思議だとは思わなかった。

 “そういうもの”だと、初めから知っていたような気さえしていた。


 「お前、番号を言え」


  誰かの声がした。大人の、無機質な声。

 感情は感じられない。読み上げるような声音で、ただ命じるだけ。

 自分のことを「名前」で呼ばれたことなど、

 ここに連れてこられてから一度もなかった。


 「に……十二番」


 幼い声で、リミアはそう答えた。

 口の中が乾いていた。言葉がうまく出ず、声がかすれる。


 「時間をかけさせるな」


 「じゅう……にばん」


 首輪が冷たく、喉の奥に微かな痛みを感じた。

 頭の意図とは別に震える両手は、麻布の袖を縋る様に握る。

 床に映る自分の影が、灯りに揺れて波打っていた。


 ──この場所に来たのは、いつだっただろう。


 記憶の糸はぼやけていて、確かなことは思い出せない。

 けれど、母の手の感触だけは、いまだに胸の奥に残っている。


 やさしい手だった。

 熱くて、柔らかくて──

 “ごめんね”と最後に言ったあの時の声も、覚えている。


 「お前は“選ばれた”、これは世界を変える研究だ」


 大人たちはそう言った。

 何の意味かは分からなかった。

 ただ、その為だけに、リミアは母から引き離されたと感じていた。


 強引に引かれる右腕の痛みが、脳裏に刻まれている。


 ──そして、檻の中の“子どもたち”の一人になった。


 泣いていた子もいた。

 黙ったまま目を開けずに座っている子もいた。

 けれど、最終的には表情はなくなった。


  ただ夜は怖かった。

 暗闇が、灯りの明滅が、何よりも音のない静寂が。

 自分の心臓の音さえ、耳障りに感じた。


  しかし、怖がることは“無駄”だと教えられた。

 泣くことは“失敗”の証だと教えられた。


  また何日か経つと、怖さは消えた。

 代わりにやってきたのは、"虚無"だった。


  気がつけば、リミアの声は出にくくなっていた。

 目の奥が乾いて、涙も流れなくなっていた。


 それでも、たった一つだけ──


 毎晩、あの母の手の感触を思い出していた。


 指の先で額をなぞられたときのくすぐったさ。

 頬を包み込まれる安心。

 夜の匂いと、髪を撫でるやさしい声。


 「リミア。いい子ね」


 ──それだけが、唯一の記憶だった。


 “実験”という名の刻印が、まだその小さな体に焼き付けられていなかった頃。

 まだ、「妹」の存在も、

 「名前」を持つことの意味も知らなかった頃。


 ただ冷たい床に膝を抱えて、リミアは静かに目を閉じた。

 夢の中で、あの手にもう一度触れることを願いながら────


────────


 ──あの日も、水の音がしていた。


  ぽた、ぽた、と。

 空から落ちるわけでもないのに、常にどこか濡れている音。

 今になって思えば、それは人の流した涙だったのかもしれない。


 扉が、開いた。


  鈍い金属の軋みと共に、いつものように“新しい素材”が運ばれてくる。

 そのたびに檻の中はざわめき、

 無表情な子供たちの眼差しが、わずかに揺れる。


 でも──今回は、違った。


 「双子だ……」


  誰かが低く呟いた。

 リミアは音のする方に、恐る恐る視線を向けた。


  白衣に包まれた、二つの小さな影。

 肩を寄せ合うようにして佇んでいた。

 どちらもまだ幼く、リミアよりも小さい。


  ひとりは、完全な銀髪。

 もうひとりは、少し癖のある白金に近い髪。

 ふたりとも、肌が透けるように白くて──


 そして瞳が、ぼやける様に光っていた。


 「……こはく……?」


 思わず、小さな声が漏れた。


 澄んだ碧眼の中に、琥珀色の光が宿っている。

 揺らめくような輝き。決して人間の目ではなかった。

 それは、ここにいるどの子供たちとも違う。


 ──怖い。


 そう思った。

 でも、それよりも、なぜか……胸が締め付けられた。


 自分と、同じだった。

 これから起こる事も、来た意味も分かっていない。

 初めてここに来た日の自分と──まるで同じ。


 「──十二番、前に出ろ」


 鋭い声が響いた。


 リミアはびくりと肩を震わせた。

 白衣を着た男が無感情に指をさし、目も合わさず命令する。


 「双子との同期反応を確認する。さっさと動け」


 動かなければ、蹴られる。叩かれる。

 分かっている。

 少女は、病的に細くなった足を動かした。


 ふたりの前に、立つ。

 見下ろすような位置だった。

 自分よりずっと小さい背丈の子たちは、怯えた目で見上げてくる。


 「……おね、え……ちゃん?」


 その声が、聞こえた。


  どちらの子が言ったのかは分からない。

 でも、確かにそう呼ばれた。

 口の端が、震えた。


 


 ──妹?


 


 そんなはずない。

 ここに“家族”なんて存在しない。

 でも──


 勇気を出して手を伸ばし、ふたりに触れた。


 「......?」


 何かが、流れ込んできた。


 まるで、胸の奥に張られていた糸が一瞬だけ“鳴った”ような感覚。

 言葉ではない。記憶でもない。

 それはもっと、深いところにある“何か”。

 

 ──知っている。


  この感覚。この命のかすかな振動。

 生まれた日、母の胸に抱かれていた時に感じた、あのリズム。

 遠い記憶の中で、何度も聞いた泣き声。


 これは──


 リミアの瞳は無意識に、琥珀色を顕現していた。

 ふたりの鼓動に同調し、微かに、けれど確かに共鳴していた。



 「……反応が出たか?」



 ざわめきが走る。

 背後で数名の術者が、羊皮紙に走り書きを刻んでいた。


 「いや、違うな。共鳴したのは……十二番の方だ」


 「やはり失敗作か。因子残留のノイズ反応にすぎん」 


 そう言って、男たちは笑った。

 それは冷笑だった。あざけりだった。

 「素材」としての“優劣”を値踏みする、乾いた眼差しだった。


 リミアは、何も言えなかった。

 ただ、立ち尽くしていた。


 その瞬間、目の前の双子──妹たちが、そっと手を出す。


 怯えていたはずのふたりが、向き合っていた。


 リミアの目には見える、ふたりの"流れ"が、

 ひとつの環になっている。

 それは、どこか神聖で、美しくさえあった。


 リミアは、そっとふたりの手を取った。

 小さな指先が、自分の手をぎゅっと掴んだ。


 ──そこには温もりがあった。


 自分よりも小さな妹たち......

 守りたいという想いに、瞳には希望が宿る。


  それからの数週間は、奇跡のようだった。

 霧の薄い時間に限られてはいたが、

 三人は一室に“まとめて管理”されることとなった。


 ──優秀な共鳴反応と親和度は予想以上

 ──実験素材同士の家族的紐帯による安定化


 それが、許された理由だった。

 あくまで“試験的観察”。

 だが、三人にとっては──確かに、家族のような時間だった。


 歌のように不明瞭な囁き。指を絡め、眠る夜。

 お互いを包む小さな熱。

 過去が霞むような、ささやかな日々。


 


 だが──


 


 その“感情”が、崩壊の引き金になった。

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