第40話 破滅の天使
エリオスが境界から足を踏み出した瞬間、周囲の空気が一変した。
霧はまるで意志を持つかのように彼を包み込み、
木々の葉先から滴る露が静かに肩を濡らす。
そして、木々は突然静まり返った。
エリオスは足を止め、視線をまっすぐ前方へと向ける。
「……そこにいるのは、わかってる」
その言葉を待っていたかのように、
濃霧の奥で小さな人影がゆっくりと動き始めた。
霧の向こうから現れたのは、
茶髪と白髪が入り混じった髪を持つ少女。
琥珀色の虚ろな瞳には、人間らしい感情の色が希薄だった。
そして彼女が纏う、視認できるほど濃密な魔力の奔流──
辺りの霧が彼女を中心に渦を巻き始める。
「会いたかった……」
エウラはかすかに微笑みを浮かべながら、エリオスを見つめている。
その声は霧の中に不気味な余韻を残した。
「エウラ……だったか?」
エリオスが確認するように問いかけると、
エウラの表情がわずかに動いた。
「……そう!」
彼女の瞳が鋭く煌めく。
さながら欲しいおもちゃを手にした少女のように。
「会いに来てくれたの?」
彼女はにこやかに問う。
「そうだ。君を止めるために」
エリオスの言葉は静かだが、決意に満ちていた。
「……止める? それはなぜ?」
彼女の問いには、好奇心と意図が理解できていないのか、
あどけなさが残る。
「東部辺境は譲れないんだ」
エウラはぽかんとした表情になり、吐き捨てるように言う。
「ふふ、そんなのどうでもいいよ」
エウラは軽く足で地面を左右にかく。
土が露出し、そこでさらに足を前後させて軽く掘ると、
即席のスタート台。
「ああ、本当に逢いたかった......」
そして──エウラが動いた。
「あなたを“滅茶苦茶にしたいの!”」
エウラの足元から地面が裂け、圧倒的な魔力が爆発する。
衝撃が周囲の木々をなぎ倒し、破片が飛び散る。
エリオスは即座に剣を抜く。
剣の線に沿って電撃が迸りながら発動する「雷撃の檻」。
エリオスを中心に雷の紋章が刻まれ、戦場は雷撃の檻と化し、
稲妻が空を裂き、霧が雷光に焼かれて消えていく。
エウラはそれを見つめるかのように寸前で止まり、
ふたつの琥珀が微かに揺れた。
「……ふふ、いいね、楽しいね」
ひと飛びして距離を取ると、
微笑を浮かべたエウラは"名前を持たない剣"を抜き放つ。
仕切り直しと言わんばかりにその刀身は空気を裂き、
剣先は弧を描いてエリオスに迫る。
エリオスは遅延を瞬時に集中発動し、
刃そのものを磔にして回避しようとするが、
エウラはそれを予測していた。
彼女は龍種特有の肉体制御で質量を自在に変化させ、
魔法に頼らない急激な加速で強烈な一撃を叩き込む。
エリオスは寸前で剣を両手で構え、その一撃を弾き逸らす。
激しく散る火花に、エウラの興奮は一段と高まる。
全長140センチにもなる直剣は細く繊細に見えるが、
その質量はまるで巨大な鉄塊のように重い。
エリオスのかかとが数センチ程地面に潜る程の衝撃。
攻撃の直後、エリオスは周囲の雷に意識を向け、密度を一層高める。
雷撃が地を這いながら、無秩序だった雷が
意思を持った稲妻の奔流へと変貌する。
エウラは雷に包まれたが、その中から一歩踏み出し、冷静に微笑む。
「──っ!」
エウラの腕に鮮血が走り、頬にも赤い線が伝う。
右の額の火傷から血が垂れ、頬を伝うも、
彼女は怒りも驚きもせず、ただエリオスの成長に歓喜する。
「あはははっ!……強くなった、強くなった!!」
エリオスが次の手を打つ前に、
エウラの傷口から霧が漂い、再生が始まる。
掠り傷程度ならば、彼女にとって回避する価値もないということなのだ。
エリオスは冷静に戦況を分析し、さらに激しい攻勢を仕掛ける。
雷の鞭のような斬撃を繰り出し、
エウラの周囲に絶え間なく稲妻を降り注がせる。
しかしエウラの強烈な剣戟と龍種の肉体強化は、
エリオスのディレイと雷撃を巧みに凌ぎ、戦いはますます激化していく。
「やっぱりお前は、バケモノだよッ!!」
エリオスの叫びにエウラはさらに口角を歪ませる。
「生きてる! 私、生きてるよ!!」
エウラの狂喜の叫びが戦場に響き渡る。
──
次の瞬間、戦場を包んでいた霧が一点に凝縮し、
赤黒い閃光と共に爆裂した。
まるで星々が瞬時に炸裂したかのような光景と、
その衝撃波が周囲を飲み込む。
エリオスの遅延範囲外側は次々と爆発に巻き込まれるが、
雷撃がその破片を次々に迎撃して砕いていく。
だが、その隙をついて──
「うーしろっ!」
背後から振りかぶられたエウラの重い一撃を、
エリオスは咄嗟に片手で受け止める。
以前より遥かに重いその力に圧倒されかけるが、
背中から腕にかけて柔らかな加護が宿る。
イゼルカの加護──彼女が与えてくれた理の力だ。
「ああっ!楽しい楽しい楽しい楽しい!!!」
エウラの歓喜と殺意に満ちた剣戟は止むことがない。
斬撃の嵐が吹き荒れ、エリオスは防戦一方に追い込まれる。
エリオスには決定打がなく、彼女を止める術が見つからない。
徐々に蓄積されるダメージに、体力と精神が削られていく。
腕のしびれを解す時間すらない。
彼の心には一つの疑念がよぎる。
彼女が望むもの──エリオスを“壊す”というただ一つの願い。
その理由も結末も見出せないまま、彼は再び剣を構え直した。
霧の中で再び激しい閃光が交錯する。
────そして、その戦場の陰に、ひとつの影があった。
静かに息を潜めていたのは、メレーネだった。
彼女はエリオスの後を追うようにして結界の外に出ていた。
ただの好奇心だったのか、それとも不安だったのか、自分でも分からない。
けれど、目の前に広がっていたのは──
「……なに、これ……」
目を疑いたくなるような光景だった。
空が裂け、雷と剣が舞い、爆発と衝撃が木々を押し潰し、
地面は複数の隕石が落ちたかのように深くえぐれている。
それは、もはや人間の域を超えた戦い。
現役の公爵級──いや、それ以上。
「そこにいるのは、"エリオス様"なのですか......?」
メレーネは思わず息を呑んだ。
──その時だった。
激突の合間、ほんの一瞬。
宙に舞ったエウラの視線が、ふと逸れた。
その琥珀の瞳が、霧の中でかすかに揺らぐ。
「……誰……?」
声にならぬ問いが、視線を通じて交わされる。
次の瞬間、エウラの瞳が見開かれる。
「な ん で ?」
──脳が揺れるような痛み。
霧が膨張し、魔力の流れが乱れる。
蘇りかける過去の記憶。
忘れていた何かが、彼女の内側で目覚めようとしていた。
「──いや……やだ……」
崩れ落ちる様に着地し、
かすれた声で呟きながら、エウラは一歩、二歩と後退する。
「違う、これは……いや……!」
彼女は苦悶の表情を浮かべた。
まるで、過去に囚われるのを必死で拒むかのように。
エリオスはその突然の光景に押されるように後退りする。
「な、なにが──」
「無理ッ────────!!!」
エウラは霧と共に、姿を掻き消した。
今までの戦闘は嘘だったかのような静寂。
稲妻が残した焦げ跡と、耕された地面が、
証拠のようにその場に残されていた。
エリオスはゆっくりと目を閉じる。
「まだ……力が足りない」
悔しさが、静かに胸を焼く。
結局は力負け、対抗するのが精一杯だった。
彼女に対抗するには、もっと強くならなければならない。
「必ず、次は──」
誓いと共に、拳を握りしめた。
────────
木陰に身を隠したままのメレーネは、
今もなお消えない霧の中で、ただ立ち尽くしていた。
「私……」
その姿、その瞳、その佇まい。
脳裏に、かすかな記憶が浮かぶ。
──夢ではなかった。
──あの“悪夢”は、現実だったのだ。
「……あの子は……」
声にはならない確信。
だが、口にはできない。
涙ではなく、得体の知れない感情が胸を詰まらせていた。
彼女は立ちすくんだまま、木に体を擦るように座り込む。
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