第39話 再来の予感
──辺境・霊狐宮・居室
白銀の光が障子越しに差し込む早朝。
霊流の揺らぎも安定し、凪のような空気が静室を包んでいた。
その中心に、エリオスは座っていた。
彼の魔法──「遅延」はイゼルカの霊流に干渉し、
毒の流れを遅らせ続けている。
しかし、通常の魔法と異なり可視できないため、
目を閉じ、祈るように集中していた。
「……まだ、おるのか?」
寝台の上、枕元から穏やかな声が降ってきた。
エリオスはそっと目を開け、イゼルカの方を向く。
「起きましたか」
そう言って微笑んだエリオスの瞳には、疲れと焦りの影があった。
霊狐姫──イゼルカもまた、先日までの威厳も気力も削がれ、
今はその見た目相応の、いや、それよりもさらに幼く見えた。
「ふふ……お主の“魔法”は、まるで祈りじゃの……」
彼女は小さく笑った。
「心地よいものだったぞ」
「痛みを止めるでも、癒すでもない。
ただ、延ばすだけしかできなかった......」
エリオスは視線を落とす。
遅延の力は、ただ魔法を引き延ばすだけ。
苦しみを“止める”ことも、“終わらせる”こともできない──
細く、白い指先が彼の頬をそっと撫でる。
「……だからこそ、お主なのじゃろ」
「え……?」
「“癒し”とは、治すことが全てではない」
「“治す”は術者、“癒す”のは想いじゃ。
お主はそれを、ちゃんと持っておる」
「イゼルカ様……」
「……ふふ。そんな顔をするでない。まるで、死ぬみたいじゃろ」
彼女は冗談めかして微笑み、
だがその目には深い覚悟と、微かな憂いが宿っていた。
「まだ死ぬつもりはない。
第一、余が死ぬならとっくに王都は滅びておろうのう」
「......まあ、それもそうですね」
エリオスは小さく息を吐き、口元に苦笑を浮かべる。
もう気の利いた返しも浮かばなかった。
「……けれど、感じるのじゃ。風の中、霧の向こうに……」
彼女はふと、障子の向こうへ目を向ける。
「“あの気配”が近づいておる。……“死霧龍”の波動が、のう」
静室に、ひんやりとした緊張が走った。
イゼルカは考える。
仮に自分が魔王の立場であれば、厄介な辺境の守護者を排除した今、
次の一手を躊躇う理由など、どこにもない。
さらに厄介なことに、いかなる霊術も、結界も、
この脅威を止めきる算段が立たない。
イゼルカは視線を外したまま、掛け布団の端を握っていた。
そこに無意識に力が入っていたことに、
自身すら気づいてはいない。
さあどうするか、表情こそ冷静さを保ってはいたが、
"打つ手がない"。
この齢にして、なおこれほど冷たい絶望に触れるとは、と。
「──俺が行きます」
それは静かな言葉だった。
だがその響きには、かつての彼にはなかった“重さ”があった。
迷いではなく、覚悟。
"流れ"ではなく、理解の上での決意。
イゼルカはふっ、と顔を向けた。
その瞳の奥には、わずかな驚愕。
しかし、次の言葉は決まっていた。
「……すまんが、頼むぞ」
イゼルカがわずかに目を細める。
その瞳は、かすかな驚きを湛えながら──希望を託すように。
エリオスの声は低く、だが迷いはなかった。
「俺の魔法は“全ての魔法を遅らせる”こと──
それにこの剣、これで十分だ」
ラグナディア公爵家の紋章がゆらりと風格を見せた。
そして、イゼルカはふっと笑みを浮かべた。
「己の力の意味を、ようやく受け入れたようじゃの」
立ち上がったエリオスの背に、
すっと霊流の気配が集まりはじめる。
《──理の風結び》
彼を支えるように、守るように、イゼルカの霊術がその身に宿る。
「お主に、わしの“術”を重ねよう。
多少は力にならんとな」
「……ありがとう」
その背に、もはや迷いはなかった。
“庶民の法術師”ではなく──
“守る者”としての眼差しが、彼を形作っていた。
そして彼は、静室を後にする。
外の空気は鋭く、冷たく、霧を孕んでいた。
だがその中を歩く彼の歩調に、いささかの揺らぎもなかった。
────────
──霊狐殿を出た瞬間、空気が変わった。
エリオスの靴が、露に濡れた石畳を踏みしめる。
空はまだ灰色に染まりきっておらず、
薄明の気配が辺境の空を滲ませていた。
霧が深い。
それはただの霧ではなく、
魔力の粒子を孕んだ“異質な気配”を伴っていた。
彼は立ち止まり、深く息を吐く。
イゼルカが感じ取ったもの。
それは彼の皮膚を撫でるように、意識の縁を侵すように忍び寄っていた。
恐怖は、あった。
“見えない”ものに対する本能的な恐れ。
だが同時に、胸の奥に確かに灯るものもある。
──“逃げる選択肢”はない。
「行こう」
呟くと同時に、脚が走り出していた。
結界の外で待っている──“気配の源”へと向かって。
足音が、濡れた地面に吸い込まれていく。
────────
一人、外回廊の陰に立ち、
エリオスの後ろ姿をただ黙って見送っていた少女。
──メレーネ
彼の存在に気づいたのは偶然だった。
いや──どこか、感じ取ってしまったのかもしれない。
「……あの人、どこへ……」
呟きは、自分でも驚くほど静かだった。
無理もない。
彼の纏う空気が、明らかに変わっていたのだ。
“庶民の青年”ではなかった。
“マナーがなっていない村人”でも、“腰巾着”でもない。
貴族の風格? いや、それとも違う。
メレーネは自然と足を踏み出す。
何をするのか、何が起こるのか、エリオスの背中越しに何が見えるのか。
それが"気になって"仕方がなかった。
──風が靡く。
彼の姿を追うように、メレーネの影が揺れた。
音もなく、彼女の足取りはカーヴェンの結界境界線へと消えていく。
日が雲の切れ間から覗き、その行方を静かに照らしていた。
その先に何が待っているのかも知らずに───
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