第29話 異国情緒の町「カーヴェン」

 霊狐宮・門前──異国情緒の町カーヴェン

 

 門を抜けた瞬間、王都とはまるで違う空気。

 緊張の大事が済み、エリオスは思わず深く息を吸い込む。


 「……なんだろう、王都よりも気が休まるな」


 エリオスの呟きに、

 エリュシアとエスメラルダも周囲を見回した。


  目の前に広がるのは、木造の家々が整然と立ち並ぶ町 。

 石造りの城郭や貴族の大理石の館とは違い、どこか温かみがある。


 「確かに……王都とは雰囲気が違いますわね」


 エスメラルダが、興味深そうに視線を巡らせる。


  家々の屋根は緩やかに反り返り、

 軒先には繊細な彫刻が施された木柱が支えている。

 建物の多くは朱や黒を基調とし、

 ところどころに金属の装飾が施されていた。


 「目に優しい色が多いわ」

  

  エリュシアも少し背伸びをしながらゆったりとした歩幅で歩く。

 低い塀に囲まれた庭先には、布地の装飾が風に揺れ、

 家々の軒先には、優しい光を灯す提灯が吊るされている。


 「さあ、案内してやろう!」


  道は細やかな石畳で敷き詰められ、ところどころ苔が生していた。

 そこを行き交う人々は、ゆったりとした服装に身を包み、

 衣の端には精緻な刺繍が施されている。


  ふと、鼻をくすぐる香ばしい匂いにエリオスが目を向けると、

 道端には湯気を立てる屋台や、茶屋が並んでいた 。


 「この町、やっぱりいいな……」


  エリオスは改めてそう呟いた。

 王都では常に誰かの視線を感じていたが、

 ここでは肩の力を抜いて歩ける。


 「そうじゃろう?」


 イゼルカが嬉しそうに微笑んだ。


 「自然との調和、これが一番なのじゃ」


 エリュシアが腕を組みながら、周囲を見渡す。


 「とはいえ、魔物が出る土地なのに防壁なしでやっていけるのかしら?」


 「王都はともかく、城壁はあまり意味をなさないのじゃ」


 「どういうことですか?」

 

 よくぞ聞いた、と言わんばかりにイゼルカは胸を張る


 「壁なんぞ所詮は単なる少し硬い土壁。雑魚は防げても大物は防げん。

 じゃが魔物も馬鹿ではない。

 強力な存在が根付く土地には近づこうとはせんのじゃ」


 「……なるほど」


 エリオスはイゼルカに視線を移す。

 壁に頼らないのではなく、

 彼女の存在そのものが魔物避けと化しているのだ。


「それに、"壁"よりも確実な守りもあるのじゃ」


  イゼルカが小さく笑いながら、人差し指を一振りする。

 すると、空が金色の波紋で答え、心地のよい風が吹く 。

 エリオスは思わず足を止めた。


 「……今のは?」


 「これが、イゼルカ様の"霊力"なのですか?」


 イゼルカは満足そうに微笑む。


 「その通りじゃ。ワシの霊力がこの町を覆っておる。

 魔物ごときに、この町を脅かすことはできぬ」


 その言葉は、絶対的な自信に満ちていた。


  エリオスが周囲を見回すと、住人たちは穏やかに過ごしている。

 まるで、魔物の恐怖など感じたこともないように──。


 「なるほどな……結界ってわけか」


 「ふむ、似たようなものじゃな。

 ただし、結界のように"術式で組んだ壁"ではない」


 イゼルカはゆっくりと指を動かす。


 「この地そのものが"ワシの領域"なのじゃ。

 霊力は、この土地そのものに根付いておる」


 まるで大地そのものが彼女の意志で動いているような、

 そんな話し方だった。


 エスメラルダが涼やかに微笑む。


 「さすがは"霊狐姫"。単なる結界ではなく、

 まるで土地ごと支配しているかのようですわね」


 「ふふ、支配はせんよ。

 この地は余の箱庭じゃ」


  イゼルカはこの街に根付く神のような存在。

 王都の事情に介入する気がないのは明白だった。

 辺境の重鎮として人々の行く末と往来をただ見守る、

 霊狐姫というのは謂わば「境界の守護者」なのだ───


 ──ドンッ!!


 角を曲がった瞬間、

 勢いよく駆けてきた少女がエリオスの腰にぶつかった。


 「きゃっ!」


  小さな悲鳴とともに、手に持っていた菓子が落ちる。

 その拍子に甘い餡が飛び散り、エリオスの服にぽつりと染みを作った。


  一瞬の静寂。


  少女ははっと息を呑み、青ざめた顔でエリオスを見上げた。

 まだ十にも満たない幼さで、服は質素ながらも、よく手入れされている。


 「ご、ごめんなさいっ……!」


  涙ぐみながら、震える声で謝る。

 その小さな体が、怖がるように縮こまった。


 「……ん? ああ、いいよいいよ」


 エリオスはまるで気にも留めず、軽く服を払う。

 甘い香りがふわりと漂うが、それだけだ。


 「そんなに気にしなくていいよ。それより、大丈夫?」


  エリオスは屈み、少女の腕をそっと持ち上げる。

 転びかけたせいか、小さな擦り傷ができていた。


 「ちょっと血が出てるな……」


 エリオスはハンカチを取り出すと、そっと血を拭った。


  少女は驚いたように瞬きをする。

 怒られると思ったのに、彼はそれよりも自分の傷を気にしている。

 周囲の空気が、柔らかく変わるのを感じた。


 その光景に、イゼルカはふとこう思う。

 ──王都では、こんな場面で何が起こるだろうか?


  服を汚された者は眉をひそめ、少女はより深く頭を垂れただろう。

 謝罪の言葉が重なり、弁償が求められたかもしれない。


 それが当たり前の世界、

 むしろエリオスの反応はあまりに異質だった。

 静かにその場を見守っていた者たちの間に、微かな変化が生まれる。


 誰かが目を細める。

 誰かがふっと微笑む。

 誰かが言葉にせずとも、何かを理解する。


 「……なるほどな」


 イゼルカの声が、心地よい余韻を残すように響く。


 「お主……やはり面白い奴じゃな」


 その言葉には、探るような響きがあった。

 だが、それだけではない。

 彼女の目が、ふと和らぐ。


 信頼とは、言葉で語られるものではなく、

 こうして積み重なっていくものなのだと、彼女自身がよく知っていた。

 そして今、彼女の中に小さな確信が生まれる。


 「そうか? 別にこれくらいで叱りつける理由もないだろう?」


 それはただの興味ではない。


 「まあ、それもそうかの」


 新たな"つながり"が、そこに生まれた瞬間だった。


─────カーヴェン 休憩処 「翠灯亭すいとうてい


  木造の涼しげな縁側に腰を下ろし、

 目の前に並ぶ湯気立つ茶器と香ばしい焼き菓子。

 辺境独特の温もりある静けさが、疲れを心地よく包み込んでくれる。


 エリオスは手元の茶碗を傾けながら、ふうっと一息ついた。


 「……やっぱり王都よりも落ち着くな」


 彼の呟きに、エリュシアとエスメラルダがちらりと視線を向ける。


 「王都にいたときは、落ち着くどころか、

 ろくに食事も取れなかったんじゃない?」

 

 エリュシアがからかうように笑う。


 エリオスは軽く肩をすくめ、茶をすすりながら答える。

 「……まあ、色々あったしな」

 

 「それにしても……

 あの子、相当焦ってたわね」


  エリュシアの言葉に、先ほどの少女の姿が思い浮かぶ。

 ぶつかってしまったことで、彼女は震えるほど怯え、すぐに謝罪した。

 それはあの齢ですら「謝らなければならない」と刷り込まれているような反応だった。


 「服が汚れるより、あの子が泣かなくてよかったよ」


 エリオスは淡々と答えた。

 エリュシアも軽く頷く。


 「そうですわね。庶民の方々にとっては」

 

 エスメラルダが涼やかに微笑む。

 エリュシアがちらりと視線を向ける。


 「......どういう意味?」


 「そのままの意味ですわ」


 エスメラルダは穏やかに茶を口に含むと、静かに答えた。


 「庶民にとっては、貴族という存在は遠いもの。

 あの少女が怯えたのは、それが彼らにとって当然の環境だからですわ」


 「……待って、それって貴族なら違うってこと?」


 「ええ、そうですわ」


 エリュシアは少し眉をひそめた。


 「それはおかしいわ。彼がしたことは、人として当然のことよ」


 エスメラルダは微笑を崩さず、静かに茶碗を置く。


 「違いますわ、エリュシア」


 「......?」


 「貴族だからこそ、本来はあのような行動が必要なのです」


 エリュシアは一瞬、言葉に詰まった。


 「貴族は民を導く存在。貴族が正しき姿を示すことで、

 民はより誇りを持てる社会を築くことができるのです」


 「そんな理想論、現実には……」


 「ええ、形ばかりの貴族が多いのも事実ですわね」

 エスメラルダは、ふっと微笑む。


 「ですが、エリオス様は違います」


 エリュシアの目がわずかに揺れる。


 「彼の行動は、貴族としてのあるべき姿そのものですわ。けれど……」


 エスメラルダは、静かにエリオスを見る。


 「それを"自覚していない"ことが、唯一の欠点ですわね」


 「……!」


 エリュシアは言葉を飲み込んだ。


  彼はただの庶民としての感覚で行動したのだろうが、

 もしこれが「貴族としての意識」を伴っていたなら──

 それは本当に理想の姿だったのかもしれない。


 けれど、そう考えた瞬間、どこか悔しさがこみ上げた。


 「……そんなの、らしくないわ」


  小さく惜しむように呟いたエリュシアの声を、

 エスメラルダはただ静かに微笑みながら聞いていた。


 「"また"ですか」


 柔らかく、それでいて冷静な声が場の空気を切り裂いた。


 「その話の結論は、どちらにせよエリオス様の行動が

 正しかったということでは?」


 優雅な立ち居振る舞いで、メレーネが微笑んでいた。

 艶やかな髪が、控えめな光の中で揺れる。


 「お待ちしておりましたよ、皆様方」


  彼女の一言で、エリュシアとエスメラルダの目がそちらへ向く。

 その隣には、メレーネとともにマリアとレイドが席についていた。

 どうやら、先に侍女の案内でここに通され、待っていたようだ。


 「ふふ、少しお先に失礼いたしました」

 マリアが静かに微笑む。彼女の穏やかな雰囲気が、

 先ほどまでの議論を薄めていく。


 「エリオス殿、なにやら甘い香りがしますが?」


 「あー、えっとなんだ......」


 エリオスの困惑した顔に、

 再度、やや距離の詰め方が急すぎたと感じた青年。


 「あ、いや、また本当に失礼いたしました!」


 「いやいや!そういう意味じゃ!」


  エリオスの微妙な反応に、マリアが微笑ましげに目を細める。

 

 「ふふ、甘い香りの原因はともかく、

 皆様も一息つけたようで何よりです」


  違う違うと否定するも、正直またぶり返すのも面倒なので、

 エリオスはあえて煙に巻いたのだった。


 「とはいえ、このままここでのんびりしているのも......

 なにやら惜しいですわね」


 エスメラルダが涼やかに茶を口に運びながら言う。


 「うむ、せっかくここまで来たのじゃ。

  温泉にでも浸かっていくのがよかろう」

 

 イゼルカが、楽しげに唇を綻ばせる。


 「温泉……?」


 エリオスが少し首を傾げる。


 「ただ湯を沸かしたものではないぞ?

 浸かれば疲労も癒え、身体の流れも整うという自然の恵みよ!」


 イゼルカはどこか得意げに説明する。


 「辺境には霊泉の伝承が多く残っていますものね」


 マリアが静かに頷いた。


 「治癒効果があるとされ、

 戦場で傷ついた戦士も癒すことができるとか」


 「そうじゃそうじゃ。まさしく"加護"が宿る湯よ」

 

 イゼルカは胸を張る。


 「それは興味深いわね」


  エリュシアが腕を組みながら言う。


 「長旅の疲れも溜まっているし、甘えましょう?」


 「ええ、せっかく来たのですもの」

 

 エスメラルダも微笑み、すんなりと同意する。


 「よし、決まりじゃな!」

 イゼルカが立ち上がり、満足げに宣言する。


 「……というわけで、さっそく向かうのじゃ!」


 「エリオス、おぬしはワシの背中を流せ」


 「はいはい、分かりました......」


 「......?」


 エリオス、イゼルカを見る。


 「えっと……当然だけど、男女別なんだよな?」


 「そうじゃ?」


 イゼルカの金色の瞳がキラリと光る。


 「何を言うか庶民よ。余は霊狐姫 ぞ?」


 「いや、そういう問題じゃなくて……!」


 エリオスが思わず顔をしかめる。


 エリュシアが僅かに頬を引き攣らせる。


 「まさか……イゼルカ様、一緒に入るつもりじゃないでしょうね?」


 「なに、余にとって裸の付き合いなぞ交流の一環に過ぎぬ」


 エスメラルダが涼やかに微笑む。


 「まあ、確かに超常的存在であられるイゼルカ様には、

 人間の常識は関係ないのでしょうけれど......」


 「それでも!?」

 エリオスが焦ったように言う。


 イゼルカはどこ吹く風といった様子で、


 「ふむ、ならば"庶民"よ、どうする?

 ワシが"入る"ことに問題があるというなら、

 そちらが場を合わせればよい」


 「いやいや!なんで俺が合わせる前提なんですかね!?」


 「む?"貴族の適応訓練"中ではないのか?」


 「これは適応しなくていい!!」


 「私は一向に構いま──」


 「貴方はちょっと黙ってなさいッ!」


  エスメラルダを制するエリュシア、それをみてマリアが微笑み、

 レイドもまた温泉に心を高鳴らせる。


 「はぁ……」


  エリオスはため息をつきながらも、

 やや温泉には興味が湧いたのだ。

 

 そうして、一行は澄天のちょうてんのゆへ向かうのだった──。

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