第27話 辺境大公「イゼルカ」
辺境大公領・霊狐宮──謁見の間
薄闇の中、燭台の炎がちらちらと揺れていた。
辺境の夜は冷たい。山の麓に広がる城館〈霊狐宮〉は、
霊的な結界によって外界の脅威を寄せ付けない造りとなっている。
しかし今、この場には外界の脅威よりも目障りな不快な存在 がいた。
──浮ついた笑い声が、静寂を乱す。
「いや~、さすが"霊狐姫"のお城ですなぁ。
王都の貴族どもとは格が違うなぁ?」
不用意に踏み込んできた男の声は、どこまでも軽薄だった。
その主──グリフォード・ヴェルナード は、
紅の軍服を纏い、黒銀の髪を無造作に掻き上げながら玉座の少女を見上げていた。
一見すると、単なる軽薄な青年。
だが、その紫紺の瞳の奥には、底の知れぬ不敵さが滲んでいる。
彼の背後には、数名の護衛が控えていたが、
グリフォード自身はまるで 自分がこの場の
主人であるかのような不遜な振る舞いを見せる。
──それが、何よりも気に食わなかった。
イゼルカ・フォン・フェンリルは、金色の瞳を細める。
玉座の肘掛けに手を添えたまま、
まるで虫を見るような目でグリフォードを見下ろした。
「……そんな質の低い世辞を言いに来たのか?」
「おっと、違います違います!」
グリフォードは軽く手を振って、白々しく笑った。
「いやね、霊狐姫が仲間になってくれたら助かるなー、
って簡単な話なんですよ」
彼は無遠慮に歩み寄り、玉座のすぐ手前まで進み出た。
──その瞬間、謁見の間の空気が変わった。
イゼルカの霊圧が、一気に跳ね上がる。
護衛たちは反射的に剣の柄に手をかけるが、
その手が震えていることに、自分たちですら気づいていなかった。
しかし、グリフォードはまるで意に介した様子もなく、
ただ気楽に笑っていた。
「……気に入らぬのう」
イゼルカの声は冷たい。
「貴様……"客人"ならば"それ相応の態度"をとれ」
その声音には、何の感情も込められていなかった。
ただ、そこにあるのは 長き時の中で揺るがぬ威厳と、不変の冷徹さ。
だが、対するグリフォードはそんな圧に微塵も怯えた様子を見せない。
むしろ、その表情には 愉快そうな色さえ浮かんでいた。
「おやおや、手厳しい。
けどまぁ、堅苦しい挨拶ってのは"俺の趣味じゃない"んですよねぇ」
グリフォードは肩をすくめ、手をひらひらと振った。
彼は無造作に髪をかき上げると、玉座に腰掛ける少女を見やる。
その視線には、どこか挑発的な色が混じっていた。
「それとも……"古き伝統"ってやつに縛られるのが、
"辺境大公"の流儀なんスか?」
イゼルカの金色の瞳が、僅かに細まる。
「ほう……? では、貴様は"伝統"を何と捉えておる?」
「ん~……そうですねぇ……」
グリフォードはわざとらしく顎に手を当て、
考える素振りを見せた後、にやりと笑った。
「"無駄な足枷"……ってところでしょうか?」
──冷たい霊圧が、静かに流れ出す。
辺境に長く根付いた"霊の力"が、
まるで領主の意思に呼応するかのように蠢き始めた。
「無駄な足枷、とな?」
イゼルカはゆっくりと肘掛けに身を預けると、涼しげな眼差しを向ける。
「……ほう、ならば問おう。"理"とは何か?」
「"理"?」
グリフォードは眉を上げた。
「言うまでもあるまい。
秩序のことよ。"伝統"とは、長い歴史の中で積み重ねられた"理"。
それを守ることこそ、ワシの務めじゃ」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
だが、それが気に入らないのか、グリフォードは面白そうに首を振る。
「ははっ、それはどうですかねぇ?
確かに"伝統"ってのは、それなりに意味があったかもしれませんよ?」
彼は少し歩を進め、玉座へと更に近づく。
「でもねぇ……"守るだけ"じゃ何も変わらないんスよ」
彼の紫紺の瞳が、玉座の少女をまっすぐに捉えた。
「伝統、理、秩序……そんなものが何百年続こうが、
結局は"時代"に飲まれるんスよ。
変えなきゃいけない時が、必ず来る……
それが"今"じゃないんですかねぇ?」
イゼルカは、表情を変えぬままグリフォードを見据える。
「なるほど……つまり、貴様は"時代の変革"とやらを主張しに来たわけか」
「そういうことッス」
グリフォードは軽く指を鳴らす。
「"理"なんてのは、結局誰かが"決めた"ものに過ぎないんスよ。
そして"決める"のは強い奴だ」
彼は軽く肩をすくめながら、愉快そうに笑った。
「魔王様が目覚めた今、この世界の"主導権"は変わる。
貴族たちの秩序も、"辺境の伝統"も、そろそろ"終わり"にしません?」
その瞬間、イゼルカの目が細く光る。
「"主導権"……? ふむ……」
玉座の少女が静かに指を動かすと、"場"がわずかに震えた。
まるで空気そのものが"意思"を持ったかのように、辺りに重圧が広がる。
「貴様、随分と"軽い言葉"で語るのう。
己の力の及ぶ範囲を弁えぬ者の典型じゃ」
「……ん?」
グリフォードの眉がわずかに動く。
次の瞬間、彼の足元に"何か"が広がった。
──それは"霊の波動"
辺境に根付いた "理" が、イゼルカの意思によって一斉に目覚める。
まるでこの場の空気そのものが、彼の存在を "排除しよう" とするかのように、
瘴気のような霧が滞留を始める。
「……チッ、なんスかこれ」
グリフォードは無意識に一歩引く。
──いや、引かされた。
彼は 戦い慣れた本能 で、目の前の存在が "ヤバい" ことを理解する。
だが、それでも 認めたくない。
「なんスか……この悪寒は」
冗談めかして言いながらも、
額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……"魔力"じゃねぇな、これ──」
彼は、"それ"を 見たことがない。
そして、"それ"が 自身の常識の外にあるもの であると直感する。
「……理解できぬか?」
イゼルカは わずかに首を傾げる 。
その目には、もはや "興味" すら感じられない。
「当然じゃ。
貴様のような"浅き者"に、この"理"が見えるはずもない」
──"格が違う"。
そう言い切るのに、これ以上の言葉は必要なかった。
辺境の霊力が、グリフォードを押し流そうとする。
無形の鎖が絡みつくような感覚。
心臓を直接締めつけるような錯覚。
「ッ……!」
グリフォードは思わず耐えの姿勢を作る。
自分の身体が 何かの支配を受けそうになる感覚、
まさに生物として隔絶した"差"がある事に疑いようがない。
「"魔力"に溺れた者どもが、"理"を知らぬのも無理はない」
イゼルカは つまらなそうにため息をつく 。
「よいか? 貴様らは"魔王"とやらの力で、
この世を"変えられる"とでも思っておるのか?」
「……は?」
挑発の返しとばかりに受け取った
グリフォードが歯を食いしばる。
「人間の魔王……?"魔王"なんて言葉は、ワシの生きた時代にも何度も聞いた」
イゼルカの声は 静かに、冷たく、そして侮蔑に満ちていた 。
「何度も、何度も……"自らを特別"と信じた者どもを見てきた」
彼女の指が、ゆっくりと空をなぞる。
それだけで、辺りの霊気が僅かに振動した。
「その末路も、な?」
言葉を放つと同時に、 空間が大きく揺れる 。
「いいや、過去は知らないが"魔王ごっこ"とはワケが違うぜ?」
「──それを決めるのはお主ではないわッ!」
このままこの場をエスカレートさせた先に、
必ず自分が"終わる"事に、
グリフォードは、身体を無意識にこわばらせた。
「ぐっ……!」
──本能が "死を感じている" 。
「出直せ、浅き者共よ」
イゼルカは目を細め、グリフォードを一瞥した。
──否定、完全な拒絶。
「クッ……」
グリフォードは、口元を歪ませる。
──プライドを砕かれた。
それがたまらなく 気に食わない 。
「……ははっ」
だが、グリフォードは ふっと笑った 。
それは 開き直りに近い 笑みだった。
「いやぁ、参った参った……"歴史の守護者"ってのは、
やっぱ手強いんスねぇ」
彼は肩をすくめ、まるで "冗談だった" かのように両手を広げた。
「……ま、今回は挨拶ってことで。お邪魔しました、"霊狐姫"様?」
踵を返し、ゆっくりと後ずさる。
だが、その背中越しに、彼は最後の捨て台詞を投げた。
「……けど、"魔王"は止まらないッスよ」
その言葉に、イゼルカは 何の感情も浮かべずに 答えた。
「ふん、止まれないのじゃろ?」
静寂が支配する中、グリフォードは バツの悪そうな
表情を隠しながら 扉の向こうへと姿を消した。
イゼルカは、それを見送ることすらしなかった。
「……愚か者め」
低く呟き、彼女は再び玉座に身を預ける。
──"魔王" 。
彼女にとって、それは 幾度となく訪れたもの であり、
幾度となく消えていった泡沫に過ぎない。
「……まぁ、また泡沫ならば、どうでもよいがの」
────この時代の"魔王"は、果たしてどれほどなのか?
それすらも、"霊狐姫"の関心を引くには値しないのかもしれない。
─────────
イゼルカが重く息をつき、指先で肘掛を軽く叩く。
グリフォードが消えた扉を見向きもせず、金色の瞳を静かに伏せた。
「……厄介じゃのう」
まるで吐き捨てるような声が、静かな謁見の間に響く。
長い歴史の中で、"魔王"と呼ばれた者は幾度も現れ、そして消えていった。
彼女にとっては、今回もただの"繰り返し"。
しかし、胸の奥にわずかに燻る "嫌な予感" 。
大体当たるのが厄介なこの胸騒ぎに、目を瞑って眉をひそめる。
──その時、結界の外からの報告が届いた。
「……イゼルカ様、お客様です」
それを聞いた瞬間、霊狐姫は 興味を失っていた瞳を微かに開く 。
「……今日は多いのう」
彼女の気だるげな言葉に、
侍女が少し困ったような表情 で報告を続けた。
「はい、"ラグナディア公爵令嬢"エリュシア様、
"ロールスロイス公爵令嬢"エスメラルダ様……」
──イゼルカの眉が僅かに動く。
「ふむ……? 随分と派手な取り合わせじゃのう」
侍女はさらに言いづらそうに視線をそらす 。
「そして、"エリオス・ルクレイ"……
という法術師が一行に加わっております」
その名を聞いた瞬間、 イゼルカの目が鋭く光った 。
「……ほう?」
つまらなさそうだった彼女の表情が、
ほんの少しだけ "愉快" という色を帯びる。
「"エリオス・ルクレイ"とな? 貴族の名ではないのう」
「はい、"庶民"出身の法術師とのことです」
「なっ、庶民とな?」
「そう伺っております」
王都とは長い付き合いでもあるイゼルカだったが、
庶民と公爵の娘の組み合わせを寄越すなど流石に初めてである。
どういう風の吹き回しなのか、と──
「……ふむ、興味深いのう」
イゼルカは ゆっくりと背筋を伸ばし 、一度、深く息をついた。
「良い、通せ──」
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