第26話 東部辺境「霊狐姫」
────王都、ラグナディア邸にて。
柔らかな燭台の光がゆらゆらと壁を舐め、
仄かな影を部屋の隅々へと押し広げていく。
王都に堂々と構えるラグナディア邸の応接室は、
重厚な木製の家具が醸し出す威厳に満ち、
静かな威圧感を訪れる者に与えずにはいられない。
手入れの行き届いた家具の艶めきは、それだけで主の高貴さを語っているようだった。
「魔王の兆候がいよいよ本格的になってきましたな、エドモンド公」
静かに、しかし確かな威厳を込めてそう切り出したのは、
銀髪を上品に撫でつけたロールスロイス公爵だった。
彼の冷静な碧眼は、相手の反応を鋭く探っている。
その視線の先にいるエドモンド・グランヴェール・ラグナディアは、
口元に微かな笑みを浮かべながら応えた。
「ああ。都はまだ平穏ですが、問題は地方、特に東方辺境だ。
魔物の被害報告が日に日に増え、民の動揺が無視できなくなっている。
あちらの情勢は、もはや放置できぬ……」
エドモンドの言葉に、ロールスロイス公爵が薄く微笑む。
「ここまでとなると、辺境大公イゼルカ様にご協力を仰ぐ必要がありますね。
ただし、露骨な干渉は避けねばなりません……
政治的な繊細さが求められる場面です」
「イゼルカ様のご気性を考えれば、慎重に事を運ぶ必要がありますな」
「そのための、娘というわけです」
エドモンドの視線がわずかに鋭さを帯びると、
ロールスロイス公爵が微笑を深めた。
「ええ、我が家のエスメラルダ、貴公のエリュシアお嬢様──。
彼女たちなら、優雅な使節として適任でしょう。
無用な警戒も引かれにくい」
エドモンドは一瞬沈黙し、やがて頷いた。
「ええ、我が娘エリュシアは少々活発過ぎるきらいがありますが、
こういう任務にはむしろ適しているでしょう......恐らく」
微かな苦笑がエドモンドの口元に浮かぶ。
娘の積極性と時折無謀とも取れる行動力は、
公爵家として頭を悩ませることも多い。
しかしその行動力が、時に予想外の成果を生むことも、
彼はよく理解していた。
娘の資質に対するエドモンドの評価は複雑だったが、
少なくともこの場面ではその大胆さが活きると踏んでいた。
「そういえば、学園から訓練生を預かっておりまして、
彼らも勉強代わりに宜しいですか?」
「若き者に経験を積ませる機会だ。異存はない」
「......ああそうだ、ならもう一人、
娘の婿となりそうな男もお願いしたい」
エドモンドが静かに告げると、対面の公爵がわずかに眉を上げた。
「エリオス殿、ですか?」
その名を口にしたロールスロイス公爵は、興味深げに目を細める。
エドモンドは肩をすくめ、
燭光に照らされた黄金色の水面を軽く揺らした。
「おや、存じ上げておりましたか」
「どうもエスメラルダが連れてきておりまして……」
ロールスロイス公爵が思案するように呟く。
その声音には、ただの偶然にしては妙な含みがあった。
エドモンドはそれを聞き流し、わずかに微笑む。
「庶民なのだが、どうも骨のあるやつらしい」
言葉に宿るのは、感慨というよりも興味だった。
どうやら軍でも評判になっており、
その評判はエドモンドにも届いていたのだ。
「エリオス殿はかなりお強いとか。
ただ、エスメラルダの執心ぶりにはいささか参ります」
戯れのような口ぶりで言うが、その背後には確かな事実があった。
エスメラルダは気に入ったもをそう簡単に手放そうとはしない。
それがたとえエリュシアの"婚約者"であろうとも。
「ハハ、面倒な話は娘たちに任せてしまおうではないか。
ロールスロイス公、貴方は問題ないかな?」
娘たちの戦いには巻き込まれたくない、という表情だ。
ロールスロイス公爵が薄く笑いながら杯を傾けて頷く。
「娘も誰かに似て頑固でして、困ります……」
「お互い、親というものは大変ですな」
燭台の灯りが揺れ、二人の公爵の間にひそやかな共感が生まれる。
貴族であろうと、父親であることに変わりはない。
彼らの言葉の余韻を、静かな夜が包み込んだ。
「本当に」
響いたその一言は、妙に重みを帯びたものだった。
静かな笑いが、室内に広がった
・・・・・・・・・・・・・・・
──王都城門前。
早朝の爽やかな空気の中、
エリュシアが凛とした表情で一行に声を掛ける。
「では出発しましょうか」
その傍らには淡々とした表情のメレーネが控え、
少し離れた位置でエスメラルダが優雅に佇んでいる。
エリオスは軽くため息をつきながら、
晴れ渡った空をぼんやりと見上げていた。
「まあ、気楽にいこうか……」
エリオスは言葉とは裏腹に、
面倒ごとに巻き込まれたという表情を隠さない。
エリオスの背後では、騎士候補生の少年と治癒術士の少女が、
彼の様子を興味深げに囁き合っている。
「あの方が、エリオス殿?
軍でいきなり大活躍した法術師って噂だけど、本当に庶民出身なのか?」
「噂じゃ、あのエリュシア様とエスメラルダ様のお気に入りらしいよ?
どんな人なのかな……」
ひそひそとした声にエリオスは小さく肩をすくめた。
その時、エスメラルダが優雅な動作で
エリュシアの側に歩み寄り、意味深な笑みを浮かべて口を開く。
「あら、エリュシア。
『お気に入り』を連れてのご旅行とは、随分と楽しそうですわね?」
エリュシアの眉がわずかに動き、表情が冷たく硬くなる。
「ええ、おかげさまで。ただし、彼は『私の』従者ですから、
その点はお忘れなく」
エスメラルダが楽しげに微笑を深める。
「従者……あら、随分と『作為的』な理由で選ばれた従者ですこと」
空気が緊迫する中、メレーネが冷静な笑みを湛え、淡々と割り込んだ。
「……なるほど、貴族とは『従者』
にも独占欲を持つのですね。さすがはお嬢様方です」
その皮肉な指摘に、エリュシアもエスメラルダも思わず言葉を止め、
微かな緊張感が霧散した。
エリオスが苦笑すると、メレーネは小さく笑みを返した。
一行は東方へと向かい旅路を進める。
道中、立ち寄る村々では魔物が増えているという
不安げな噂ばかりが耳に入ってきた。
時折発生する二人の令嬢が繰り広げる舌戦を聞き流しつつ、
メレーネはふと東方を見つめた。その穏やかな瞳に、一瞬だけ陰りが差す。
胸の奥にわずかな違和感を覚えながらも、
すぐに何事もなかったかのような穏やかな表情に戻った。
「……で、そもそも貴女までついてくる理由は何かしら?」
エリュシアが厄介者に向ける目でエスメラルダを見やる。
エスメラルダは涼やかに微笑みながら、
銀糸のような髪を指で弄んだ。
その動作には気品が漂いながらも、どこか挑発的な余裕があった。
「あら、お父様からのお話は聞きましたの?
これは正式な使節団なのですから、
ロールスロイス家の代表たる私が同行するのは当然ですわ」
「それなら現地で合流でもいいでしょう?
そちらにも騎士団がいるはずだけれど?」
「……まあ、それも一理ありますが」
エスメラルダは、あえてため息をつくように首をかしげた。
「私一人が別行動することで、当家の戦力を過剰に割く理由が、
今のこの情勢でありまして?
まさか、公爵家の令嬢としてその程度の戦略眼すらないとは……
本当に”家出”ばかりしてきたお方ですこと」
「失礼な!家出は一回だけよ!!」
エリュシアの紅の瞳が鋭く光る。
「あらそうでしたの、てっきり数回ほどしているのかと。
あなたはむしろ、今こうして”重要な役目”を戴けた事を感謝すべきですわね」
エリュシアは拳を軽く握り込んだ。
エスメラルダは、昔からこうだ。
言葉一つ一つに優雅な毒を仕込み、相手の反応を楽しむ。
そのたびに、こちらが不利な立場に立たされる。
しかし、今回は負けるつもりはない。
「ふん…… 役目ね。私が役目にふさわしいかどうか、
ここで証明してみせるわ」
「まあ、それは楽しみですわね」
エスメラルダは優雅に微笑みながら、
それ以上の追及はしなかった。
険悪な空気が漂い始めたが、その緊張を切り裂くように、
メレーネが口を開いた。
「ああ、皆様方。このままでは野宿になってしまいますよ?」
柔らかな皮肉を交えたメレーネの言葉が、一行の歩みを再び促した。
エリオスは先行きの不安に頭を抱える。
歩調を緩めることなく進みながら、ふと背後に気配を感じた。
ちらりと視線を向けると、騎士見習いの少年――
が少し戸惑いながらも、エリオスに歩幅を合わせてきている。
「ええと……エリオス殿」
「ん?」
「……エリオス殿は剣技も嗜まれるのですか?」
「いや、村で自己流にはやってたけど……
貴族の剣技は全然知らないかな」
「え!? ではどうやって
「え? えっと......」
(相手が止まるという抽象的な言い方でいいのか、
それとも独特な魔法で......というには自分で説明できない事象が多すぎる)
エリオスの困惑した顔に、やや距離の詰め方が急すぎたと感じた青年。
「自己紹介もせずに失礼しました!
私はレイド・エルヴァン、ロールスロイス家の騎士見習いです!」
レイドは不慣れながらも、軽く敬礼をした。
「学園で剣技を学んでおり、今回の任務で実戦経験を積むことになりました!
どうかよろしくお願いします!」
その真剣な眼差しに、エリオスは少し驚いた様子を見せる。
「剣技を学んでるなら、戦い方はマスターしてるのかな?」
レイドは一瞬戸惑い、それから苦笑した。
「正直、まだまだ未熟です。
でも、貴族の戦い方には誇りを持っていますし、
戦場でそれを証明したいと思っています!」
エリオスは軽く頷いた。
「なるほど……むしろ戦い方を教えて欲しいほどだね......」
「は、はい!お役に立てるように頑張りますッ!」
熱血漢のレイドが僅かに頬を紅潮させたところで、
もう一人の少女――マリアが静かに近づいてきた。
「わ、私はマリア・フォン・ルティアです!
回復術士として、皆さんのお役に立てるよう努めます」
落ち着いた声でそう言うと、
彼女はエリオスに向かって優雅に一礼した。
「回復術士……?」
「はい、怪我や病気などでお役に立てると思います!」
マリアは白を基調とした学園の制服に、
腰には小さな魔導具を携えていた。
回復術士としては典型的な装備だが、
彼女の雰囲気は単なる治療師というより、どこか鋭い観察眼を持っていたのだ。
「あなたのことは学園でもよく耳にしました。
とても"異質"な方だと」
「……異質ね」
エリオスは自嘲気味に笑った。
「まあ、確かに貴族の振る舞いは10日間しか勉強してないし、
貴族らしくもないと思う」
恩師メレーネがクスリと笑う。
「だから君たちからむしろ学ばせてもらう事になりそうだよ」
マリアはわずかに目を細める。
「貴族らしくない、というより……何かが違うのだと感じます。
あなたの魔法は教科書の尺度では見えない気がして」
エリオスは少し参ったように頭をかく。
「ただの治癒だけじゃなく”観察”も得意なんだな?」
マリアは静かに微笑んだ。
「はい、患者を治療するためには本質を
見極めることが大切ですから」
(本質、か……)
こうして彼らは一路、東部辺境──『霊狐姫』
イゼルカの待つ領域へと歩を進め始めたのだった。
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