龍娘と従者編
第25話 キケンな氷の公爵令嬢
柔らかいシーツの感触が、意識の深層をくすぐるように揺らした。
仄かに漂う花の香り。
肌を包み込む上質なリネンの感触。
(……軍の宿舎じゃないな)
意識が覚醒するにつれ、体に残る鈍い痛みがじわじわと浮かび上がってくる。
頭がぼんやりとする中、天井を見上げた。
白い木目の天井が、ふんわりと広がる雲のように、
エリオスの視界を静かに覆う。
王都の貴族の屋敷特有の、過剰なまでに豪華な天井装飾。
蒼く透き通るカーテンが、窓から差し込む朝の光を優雅に和らげていた。
(……どこだ、ここは)
軽く上体を起こそうとするが、
鉛のような重さが、身体の隅々まで圧し掛かる。
意識は覚醒したはずなのに、
まるで自分の身体が自分のものでないかのように鈍い。
観念して意識を整理しようとしたそのとき——
「お目覚めですの?」
——至近距離で声がした。
反射的に体を起こそうとすると、そこには……
「っ——!?」
目の前、ほんの数センチの距離に、白銀の髪が揺れていた。
碧色の瞳が細められ、優雅な微笑を浮かべている。
エスメラルダ・フォン・ロールスロイス。
彼女は、こちらをじっと覗き込むように顔を寄せていた。
心なしか、涼やかな笑みの奥に、少しばかりの"愉悦"が滲んでいる気がする。
「……なんでそんなに近い」
エリオスが呆れたように問いかけると、
エスメラルダはゆるりと目を細めた。
「あら、そんなに驚くこと?」
まるで"当然"と言わんばかりの態度。
「いや……普通、もう少し距離を取るだろ」
エリオスは残念ながら村での異性経験は皆無だった。
「意識を取り戻したか確認していただけですわ?」
彼女の手が、するりとシーツの上を滑る。
指先が、すっと額に触れ、ゆっくりと汗を拭うような仕草。
その動作はあまりにも自然で、まるで"日常的なこと"のようだった。
「えと、その……そこまで近づく必要があるか?」
「ええ、貴族の"手厚い看護"を受けたことがないから、
知らないのでしょう?」
エスメラルダは、こともなげに言う。
その碧の瞳には、微かに挑発めいた光が宿っていた。
「いや、これは関係ない、だろ……?」
エリオスは眉を寄せながら、体を起こそうとする。
だが——
「ダメですわ。」
その瞬間、思い切り肩を押し戻された。
「っ……おい」
彼女は優雅な仕草のまま、エリオスの肩に手を添え、
そのままベッドへと押し戻す。
「まだ安静ですわ」
「いや、もう動けるし……」
「いいえ。"私が許可するまで" ダメですの」
エスメラルダは、微笑みながら告げる。
そのまま彼女は、エリオスの両腕を枕の上へと押し付け、
さらには軽く膝を立てて、ベッドの上に跨る形となった。
エリオスは瞬間、思考が停止した。
(は……?)
「……何をしてる」
「貴族の看護、ですわ」
エスメラルダは、何事もないかのようにさらりと答える。
だが、その仕草の一つ一つが、やけにゆったりと優雅で、妙に"近い"。
肌が触れるほどの距離。
彼女の白銀の髪が、エリオスの肩へと微かに落ちる。
甘やかな薔薇の香りが、近くなった。
そして——
彼女の顔が、さらに傾く。
「……近い、近いって……」
「ふふ、そんなに警戒しなくてもよろしいのに?」
その言葉に、エリオスの眉が僅かに動く。
いつもの余裕を漂わせた微笑み、けれど——
"試すような眼差し"
彼女の瞳が、エリオスの表情をじっくりと観察するように細められていた。
(わざとやっているな……?)
「ふぅん……やはり、"庶民" らしい反応ですこと」
ゆるりと紡がれる言葉ひとつひとつが、
まるで甘やかな毒のように響く。
「なんだ、それ」
「少し顔が赤いですわよ?」
エスメラルダの指が、氷の刃のように冷たく、
しかし繊細な動きでエリオスの頬を撫でる。
その指先が触れた瞬間、何とも言えない感覚が背筋を撫でた。
ゆっくりと、意図的に間を置くように、
指が頬から顎へ、そして肩へと滑る。
「なにを──」
エリオスが反射的に腕を動かそうとした瞬間。
────バァンッ!!
「——そこまでよッ!!」
扉が勢いよく開かれた。
「エリオス!!」
雷のような声が響く。
エリオスの思考が、ついに完全に停止した。
扉の前に立っていたのは、
紅の瞳をカッと見開き、荒々しく息をつく
エリュシア・グランヴェール・ラグナディア だった。
視線の先、彼女の目に映るのは——
ベッドの上でエリオスを押し倒す形の エスメラルダ の姿。
沈黙が、数秒。
部屋の空気が、凍りついた。
そして——
「…………何やってんのよ、あなたたち」
エリュシアの声が、ひどく低く響いた。
エスメラルダは、あくまで涼やかな表情を崩さずに、
ゆっくりと振り返ると、微笑を浮かべながら言った。
「まぁ、見たままのことですけど?」
「はぁあぁぁぁ!?」
紅の瞳が怒りの焔を宿し、弾けるように見開かれる。
「——エリオス、説明しなさい!!」
エリオスは、視線を彷徨わせる。
本当に何も知らないのだ。
彼が言い訳を考える間もなく、エリュシアは真っ直ぐに踏み込もうとする——が、
「立ち入り禁止ですわ」
エスメラルダが軽やかに手を伸ばし、彼女の進路を制した。
「……は?」
エリュシアは眉をひそめる。
「何言ってんのよ! 私は彼の"婚約者"よ!
当然、ここに来る権利があるわ!」
「婚約者? ええ、それは素晴らしいですわね」
エスメラルダは微笑みながら、優雅に髪をかき上げる。
「ですが、それは"負傷者" であるエリオス様を、
"貴族の作法" で扱う"救護"の権利には及びませんわ?」
エリュシアの表情が険しくなる。
「何それ? まるで私に関与する
余白はないって言いたげじゃない?」
「……まぁ、簡単に言えば、そういうことですわね」
「っ!!」
エリュシアはこの野郎、と歯嚙みする。
「"貴族の婚約" とは、"家" の都合で決められるもの。
しかし——"負傷者の保護" は、それとは別に "個人の意志" で決まりますのよ?」
彼女は優雅に微笑んだまま、エリオスに視線を向ける。
「そして、"私の救護下" にある限り、
エリオス様は"自由に動けない" というだけですわ」
その言葉に、エリュシアの紅い瞳が激しく揺れる。
「……監禁じゃない!!」
「失礼な、保護ですわ!」
エスメラルダは涼やかに微笑みながら、軽くベッドの端に腰掛けた。
一方、エリオスは内心、深いため息をつく。
エリュシアは拳を握りしめながら、エリオスに向かって詰め寄る。
「エリオス、なんで"この女"の屋敷にいるのよ!?」
「……気がついたらいた」
「あなた軍で何してたの?!」
「俺が知りたい......」
その返答に、エリュシアは思わず頭を抱えた。
すると、エスメラルダがくすくすと
微笑みながら、少しだけ首を傾げた。
「エリュシア、その"婚約" 、
今は未だ"仮のもの" ですわよね?」
「……っ!!」
「つまり、あなたがどれだけ騒ごうと"貴族社会の枠組み" の中で、
私が"エリオス様の保護者" となることを
否定する理由はありませんわよね?」
「約束は約束よ」
「でもそれに拘束力はありませんのよ?」
二人の視線が交錯し、激しい火花が散る。
エリオスは頭を抱えながら、起きてから2回目のため息だ。
「......そんな話をしに来たわけではないのですよ?」
まるで、それ自体が些末な問題であるかのように、
淡々とした声が割り込んだ。
エリオスが顔を上げると、メレーネが佇んでいた。
涼やかな琥珀色の瞳は冷静そのもので、
まるで喧嘩に熱を上げる二人の姿を「滑稽ですね」とでも言いたげだった。
彼女は惨状を見まわし、微かな溜息をつくと、
「……まあ、予想通りの展開ですが」と肩をすくめる。
メレーネはエリュシアより先行して部屋にするりと入るが、
エスメラルダはそれを黙認する。
そして脇に抱えた大きな羊皮紙を近くのテーブルで広げた。
その音が静かな部屋に響き、
全員の視線が自然と広げた地図に向けられる。
「それより、大事な話があります」
メレーネの声は冷静だった。
それだけに、ただ事ではない気配を纏っていた。
エリオスはベッドから身を起こし、エリュシアも慎重に歩み寄る。
羊皮紙には、王都から遠く離れた要塞の位置が記されていた。
そこは——
「……なんだ?」
エリオスが低く尋ねる。
メレーネは指先で地図の一点をなぞり、淡々と告げた。
「ここで、魔王なる者が声明を出しました」
「……魔王?」
エリオスとエリュシアが同時に言葉を繰り返す。
エスメラルダは微かに眉を寄せた。
メレーネの指さした先に書かれていたのは─────────
「「シュタルク要塞」」
瞬間、エリオスの表情が凍りついた。
エリオスは無意識に拳を握りしめる。
「守ったはず......じゃないか?」
エリオスの低い声が響いた。
焦りを最大限押し殺した、静かな無力感が滲む。
エスメラルダは目を伏せる。
「実は……」
彼女はゆっくりと視線を上げ、言葉を選ぶように続けた。
「貴方が倒れた後、確かに好転しましたわ。
でも、"深淵黒蛇(アビス・ヴァイパー)"が来てしまった......」
「結局、なんなんだ?その魔物は」
「──燃え盛る闇、決して消えない影」
メレーネの目の奥が暗くなる。
「斬撃、魔法、あらゆる攻撃を熱として吸収して、
炎が消えない水をばら撒くわ......」
エリュシアが補足する。
「結果的に、要塞は放棄せざるを得なかった......」
エスメラルダは、自身の言葉があまりに軽すぎると感じた。
心の奥底では、それを「仕方がない」と思う自分と、
「認めたくない」と思う自分が、綱引きをしていたが、
現実は非常にも"敗北"だったのだ。
——この話を聞いて、エリオスはどう思うのか。
彼が、どんな表情を見せるのか、
エスメラルダは静かに視線を向ける。
エリオスは覚悟したかのように深く息を吐く。
「……そういえば、セラたちは?」
エリュシアは整然と答えた。
「セラもいつものメンバーも無事よ。
でも、第一連隊そのものはしばらく再編が必要ね」
「エドモンド様も看過できない損害ではありましたが......」
メレーネが、ふとエリオスを見やる。
彼女の琥珀色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
(……やはり、この人は "ただの村人" ではなかったのですか)
生きて帰るだけなら、運が良かったで済むかもしれない。
だが、彼は戦場で"何か"を成し遂げ、生還した。
それがどれほどの意味を持つのか、
誰よりも理解しているのは、今ここにいる彼自身なのかもしれない——。
エリュシアは厳しい表情で地図を見つめ、低く呟いた。
「……これは"国家の危機"に繋がる問題ね」
「エリオス様、ここからが貴族社会の現実ですわ」
エスメラルダは目を伏せ、わずかに笑みを浮かべた。
「各貴族家は、自領を守るための戦力を温存するべきか迷うはず」
エリュシアの言葉にエスメラルダは頷く。
「他が静観を決め込むのなら、あるいはこの"魔王問題"を
国家レベルの問題にまで拡大し、
王都の介入を促すべきかもしれないわね」
メレーネは静かに地図を指さす。
「エドモンド様が懸念を抱かれていたのは、
"シュタルク要塞を魔族の拠点" として築き直し、
伸びる通商路を伝って他の村や都市を襲い始めた事です」
エリュシアの視線とエスメラルダの視線が重なる。
「まさか──」
「シュタルク要塞に立て籠もる魔物の数だけでおよそ数万、
それだけの"食料"を確保しようっていう算段ね......」
「これでも、他の家は静観を決め込む算段なのかしら?」
「えぇ、今のところ対抗を表明しているのは、
ラグナディア家とロールスロイス家のみです」
「そうね、それなら敢えて”穴"を作りましょうか」
エリュシアは鋭くエスメラルダを見た。
「そこまでしないと動かないのも考え物ね」
同じ国家でありながら、実際は各家が意思を持つ為、
自らの家に被害が無ければ動かないという者も少なくない。
貴族の教義と利害は密接なのである。
「……つまり、この"魔王問題"を利用して、
貴族社会全体を動かそうってことか」
エリュシアは視線を地図に移したまま重く頷く。
その沈黙を、エスメラルダの落ち着いた声が破る。
「ここまで話したなら、あなたも"立場"を考える時ですわね?」
「……俺の立場?」
エリオスが問い返すと、エスメラルダは薄く笑った。
「ここまで来たら、もうあなたは"庶民"には戻れない」
エリオスは、無言のまま地図を見つめた。
その視線の先には、赤く刻まれた"シュタルク要塞"の名があった——。
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