軍編

第10話 ふたつの道

  王都アルサメルの空に、夜明けの蒼が広がっていく。


 ラグナディア公爵家の屋敷の前庭には、二台の馬車が並べられていた。


 それぞれ、異なる道へと向かう二人のためのものだ。




  エリオスは深く息を吸い込み、荷物を持ち上げる。


 軍から支給された装備は、村にいた頃よりはるかに質の良いものだった。


 剣の重みを確かめるように鞘を指でなぞる。




 「……じゃあ、行くか。」




 自分に言い聞かせるように呟いたとき、後ろから声がした。




 「随分と早いのね。」




  エリュシアだった。


 彼女もまた、学園へ向かう準備を終えていたのだろう。


 貴族らしい気品のある衣装を身にまといながら、


 どこか名残惜しそうな表情を浮かべていた。




 「まぁ、軍隊はそういうものらしいからな」




  エリオスは冗談めかして言う。


 エリュシアは小さく笑ったが、その瞳には何か言いたげな色があった。




 「本当に、軍に行くのね」


 


 エリオスは小さく「あぁ」と返す。


 エリュシアは短く息を吐くと、




 「……そう」


 


 と息を吐くように呟いた。


 その言葉には、どこか未練が滲んでいた。




 「……軍で何をするつもり?」




 エリオスは少し考え、静かに答えた。




 「魔法を鍛える、それがまずは第一だ」




 エリュシアの瞳が微かに揺れる。




 「そんなに戦うつもり?」




 「そんなつもりはない。ただ……"知らなすぎる"んだ」




 エリオスは遠くを見つめながら続ける。




 「貴族社会のことも、魔法のことも。


 俺の魔法がなんなのかも——軍なら、それが分かるかもしれない」




 エリュシアはゆっくりと頷いた。




 「……それは、"独立"が目的?」




 エリオスは静かに微笑む。




 「俺は貴族じゃない。お前みたいに血筋や家柄で守られるわけでもない。


 だから、軍で実力を証明すれば、それが俺の"立場"になる」




 「それは──」




 エリュシアはその言葉の続きを呑み込めなかった。




 「……いずれは、この"偽婚約"なしでも立っていられるように?」




 自ら放ったその言葉が、エリュシアの胸をざわつかせる。




  彼が "独立" を口にするたび、なぜか心が波立つ。


 ほんの少しだけ、指先に力がこもるのを自覚した。




 ——何を期待しているの?




  彼は最初から、貴族の枠に収まるつもりなどなかったはずだ。


 最初に彼を"駒"として選んだのは、自分の方だったのに。




 「……どうだろうな」




  エリオスは少し考え、そして静かに微笑む。




 「少なくとも、今の立場はエリュシアの偽の婚約者としても、


 相応しくないんじゃないか?」




  エリオスはそう言うと、馬車へと歩みを進める。


 その背中を追うエリュシアも、思わず口を開いた。




 「……なら、私も学園で"立場"を確保するわ」




 エリオスが歩みを止め、振り返る。




 「立場?」




 「ええ。"軍で強くなる"っていうなら、私は"貴族としての力を持つ"わ」




 エリュシアは堂々と笑う。




 「軍で立場を上げるなら、私がその道を整えてあげる。


  あなたが選ぶ道を、通るべきものにするのが貴族の役目と言ったでしょう?」




 エリオスは、少しの間だけ彼女を見つめ、やがて肩をすくめるように笑った。




 「……そうだな」




 その言葉に、エリュシアの表情がわずかに緩む。




 「じゃあ、"貴族らしく"、また会いましょう?」




 「ああ、それじゃあ行ってくる」




  エリオスが馬車へ向かう。


 エリュシアはただ背中を見送る。




 「——エリオス様」




  メレーネの静かな声が、朝の冷たい空気に響いた。


 彼女は涼やかな表情のまま、手に一本の剣を携えていた。


 漆黒の鞘に、銀糸の細工が施された、威厳のある一振り。


 そして、柄頭にはラグナディア公爵家の紋章が刻まれている。




 エリオスは眉をひそめる。




 「……そ、それは?」




 「公爵閣下からの贈り物です」




 メレーネは淡々とした口調で剣を差し出す。




 「この剣は、ラグナディア公爵家の者にのみ許されるもの。


 すなわち、閣下が単なる庶民ではなく、


 


 “あなたをラグナディア家の人間として扱う”


 


 意思を示している証でもあります」




  エリオスは剣を受け取り、鞘の表面を指でなぞる。


 上質な素材、細やかな彫刻——明らかに"ただの剣"ではない。




 「……期待されてる、ってことか」




 メレーネは微かに頷いた。




 「はい。ですが、それが“縛り”であることも忘れないでください」




 エリオスはその言葉に、わずかに目を細める。




 「縛り……ね」




 「貴族にとって、“恩義”は義務です。


 この剣を手にした時点で、あなたはラグナディア公爵家の名を背負うことになる。


 それだけの責務を負った事を十分に理解してください」




 エリオスは剣を手に取り、無言でその重さを確かめた。


 まるで何かを確かめるように、柄を握り込む。




 (ラグナディア公爵家……か)




 ——"独立"。


  それは、あくまでもエリオス自身の目標だった。


 だが、貴族社会で"独立"するには、結局は"価値"が必要だ。


 価値の総量こそが、謂わば貴族の"格”なのだ。


 メレーネはそんなエリオスの様子を見つめると、静かに言った。




 「あなたがこの剣を持つ限り、公爵閣下はあなたを完全に手放すことはありません」




 「つまり、俺は“公爵家の庇護下”にあるってことか?」




 「……ええ。少なくとも、あなたが“力を持つ”までは」




 エリオスは短く息を吐くと、剣を腰に差し、微かに笑う。




 「なるほど......な」




  メレーネはその言葉を聞くと、


 ふっと目を細め初めて柔らかな表情を見せる。




  エリオスは最後にエリュシアを一瞥すると、軽く片手を上げた。


 馬車の扉が閉まり、御者の掛け声とともに車輪が動き出す。


 エリュシアはその背中を、ただ見送るしかなかった。






 エリオスの乗った馬車が見えなくなってからも、エリュシアは動かなかった。




 馬車の行く先を見つめたまま、微動だにしない。




 そんな彼女の横で、メレーネは静かに口を開いた。




 「……名残惜しいのですか?」




 エリュシアはピクリと肩を揺らし、すぐに顔をそらす。




 「そんなこと、あるわけないじゃない」




 だが、メレーネは微笑を浮かべたまま、続けた。




 「……ですが、あなたは“エリオス様を手放したくない”と考えている」




 エリュシアは無言でメレーネを睨んだ。


 だが、彼女は少しも怯むことなく、静かに言葉を紡ぐ。




 「あなたは貴族です。貴族は、価値あるものを手元に置こうとするもの。


 特に“未知のもの”に対しては、より強く、独占欲を抱く」




 「……言い方が悪趣味よ」




 エリュシアは短く言い放ったが、内心、その言葉が刺さっていた。




 (……私は本当に、そんなふうに思ってるの?)




 エリオスの魔法が未知だから?


 それとも——彼そのものを、もっと知りたいから?




 答えが出ないまま、メレーネの声が続く。




 「ですが——彼は貴族ではありません」




 「……わかってるわよ」




 エリュシアは苛立たしげに言う。




 「でも……彼が“離れる”って思ったら、ちょっと、腹立たしくなる......」




 メレーネはその言葉に、珍しく微かに笑った。




 「それは、貴族的な感情ではなく、“個人的な感情”ですね」




 エリュシアは黙り込む。




 “貴族の都合”ではなく、自分の意志として、エリオスを手放したくない。


 それがどういう意味なのか——彼女は、まだ整理できていなかった。




 メレーネは穏やかな声で続けた。




 「ですが、エリュシア様……あなたは貴族です。


 だからこそ、"貴族のやり方"で、エリオス様を"制御"する方法もあるのでは?」




 エリュシアはその言葉に、ゆっくりと目を細めた。




 「……つまり?」




 「彼が軍で立場を得るなら、あなたは学園で“立場”を作るべきです」




 メレーネははっきりと言い切った。




 「貴族社会での発言力を持つ者となれば、


 彼を“あなたの意志”で引き戻すこともできるでしょう。


 それは伝統と血筋が無いエリオス様にはできない事です」




 エリュシアはしばし沈黙する。




 彼が軍で何かを掴むなら、自分は貴族としての立場を強化する。


 そうすれば——




 「……そうね」




 エリュシアは小さく微笑む。




 「なら、私も負けていられないわね」




 メレーネは静かに頷いた。




 「ええ。エリュシア様なら、きっと成し遂げられます」




 エリュシアは再び空を見上げる。


 王都の朝が、ゆっくりと広がっていく......

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