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 父を殺してスラムを出てから、初めて自分の育った環境を俯瞰した。ごつごつと暗い色合いをした、触れるだけで皮膚が破れるような現実。守ると同時に逃げ場をなくして、臭気さえ噴き出して精神を苛む現実……。私は生まれたときから急峻な巌に囲まれていた。潤いは本に書かれた物語のみだった。


 物語は常に私から隔絶されていた。本の内容が遠く離れていればいるほど、読書は現実逃避になり得るのだ。文章が身近でないほど、透き通るような冷たさを愛するほど、私は幸福な気持ちに浸れるのである。


 それが今やどうだろう。私の周囲には恐ろしく非現実的な現実がひしめいている。まるで物語のような舞台装置たち。レナトス。クリーチャー。サングイス。通過儀礼。進化。両性具有。輪廻転生。魂。仲間を尊ぶ彼女たち。私を殺そうとする彼ら。父を殺した私。


 サングイスとクリーチャーが交わり切ったとき、人類は進化するそうだ。両性具有で単為生殖できる完全な存在になるそうだ。死んだレナトスは転生して次の少女に宿るそうだ。転生を経る度に強くなるから、軍部が使えないレナトスを殺したいそうだ。そんな状況を変えたい少女がいるそうだ。父を殺した私は因果応報、殺されてしまうそうだ。


 どうでもいい、と思った。本当に勘弁してくれ。どこかで勝手にやってくれ。私の人生にそんな大層なものは要らない。ただ飛びたいだけなのだ。シズクのように。空を翔けてサングイスを振りかざして、クリーチャーと戦いたいのだ。その末、死んでしまっても構わない。ただ誰かの物語に巻き込まれて死ぬのはごめんだ。私のことは私が殺すから、放っておいてくれ。心の底からそう思う。


 なぜタイガイの誘いに乗らなかったのか、ちょっと考えたら分かった。私はクリーチャーに殺されたかったのだ。想いの成し遂げられぬ今生なら、今すぐ終わらせたいと願ったのだ。死ねば来世でどうにかなるかもしれないし。周囲の環境は努力次第で少しくらいなら変えられる。自分だけは、どうしようもできない。どうしようもないなら、死ぬしかない。


 そういう勇気が必要なこともある。


 来世は剣職グラディウスがいいなと思った。こんな盾ではなく。


 任された場所はサッカースタジアムと思しき巨大な廃墟だった。昔は青々としていただろう芝はところどころ剥がれ、無残に土色を晒している。ひしゃげて錆びついた一対のサッカーゴール。剥落した瓦礫が積まれた無人の観客席。空漠としたコートには円形に曇った空がもたれている。開放的で隠れられそうな場所はなかった。そもそもそんな気もなかったが。コートの真ん中で救急キットに腰かけながら、死ぬときは快晴が良かったと恨めしく空を睨みつける。


 シズクやカノンに言っておけばよかったな。


 さよならくらい。


 そう思って立ち上がり、私は振り向く。


 スタジアムに入ってきたのは腰下くらいの、一輪の花だった。幾層にも重なった花弁に、茎に繁茂する鋭い棘。薔薇である。それは根っこが足のようになっており、芝生を突き刺しながら歩いて来る。私はヘルメットからシズクに連絡しようとした。しかし通話機能はなんの反応も示さなかった。やはり退路は断たれていて、今のはその確認であった。決して助かろうとしたわけじゃない。希望がさっぱりないと確信していなければ、私は安心して死ねないのだ。




 白薔薇の向こうから誰か歩いて来るのが見えた。

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