【KAC20254 書き出し指定】胡蝶の夢

日崎アユム(丹羽夏子)

『今』の暮らしだと思っている暮らしはおれの妄想で、

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 まだ少年の頃の夜隆と肉の壺でしかなかった自分が会話をする夢だ。


 夢の中の夜隆はまったく無邪気で純粋な顔と声で、夢之助に、どうした、と問い掛けてくる。


 ――子供はもう寝ていなければいけない時間だぞ。それとも、迷子か?


 そう、迷子なんだ、と言ってしまえればどれだけ楽だっただろうか。

 けれどあの時の夢之助にはそれを言うための勇気がなかった。ただその一言で世界を欺くことになると思っていた。そうして世界を転覆するための度胸と覚悟がなかった。

 今思えば、右衛門に飼い慣らされていたせいだとわかる。洗脳だった。右衛門に奉仕することの他に何もできないと思い込まされていた。右衛門の言いなりになっていただけで、本気で逃げ出したいと思えば手段はいくらでもあったと思う。

 だが、あの頃の夢之助にとっては、右衛門に従うことが世界のすべてだったのだ。


 あの時、夜隆にしがみつけなかった。


 あの夢は、いつも、夢の中の夢之助が口を閉ざしたところで終わってしまう。


 まぶたを持ち上げると、障子の向こう側が明るかった。


 九回目の朝だ。


 この城に住み始めてから、今日で十日になる。


 しかしこの生活は本当に現実なのだろうか。


 もしかしたらこの城での暮らしのほうが夢で、夢之助の願望なのかもしれない。本当は自分はまだ右衛門の屋敷にいて、あの夜を繰り返しているのかもしれない。そして右衛門の布団に潜り込んで、もう二度と夜隆に会うこともない、と思うのかもしれない。


 起き上がって、布団をたたむ。

 その布団を抱える腕が夢の中の自分より長くたくましくて、大人の男の腕になりつつあるのを感じる。

 でも、今の自分は何歳なのだろう。

 右衛門の屋敷で病気になったあの時は何歳だったか。確か十三歳だか十四歳だかだったと思う。

 今の自分が見ている自分は、そんな自分が死ぬ間際に見た幻覚なのではないか。


 障子を開けて、外を見る。枯山水の石庭が見える。


 少し、縁側を歩く。日の光が当たる。


 ここは、獅子浜城本丸の、殿様のための南向きの中奥だ。


 本当に?


 隣の部屋の障子の前に立った。


 中からは何の物音もしない。誰もいないのだろうか。この城には誰も住んでいないのだろうか。


 そっと、こっそり、障子を開けた。


 そこに敷かれている布団の上に、暑かったのか掛け布団を蹴っ飛ばして、寝間着の胸をはだけて能天気に寝ている青年がいた。短く切ったぼさぼさの髪がほうぼうを向いている。静かだが、焼けただれた手で押さえている胸がゆっくり上下しているので、呼吸をしているのはわかった。


 寝返りを打って、足元で丸まっていた掛け布団を引っ張り上げる。


「なんだよ、まぶしいな……閉めろ」

「起きてるのかよ」

「寝かせろや……まだ眠い……」

「寝るのかよ」


 夢之助は彼に近づいて畳に膝をついた。正座の姿勢を取る。


 彼はそんな夢之助を無視してそっぽを向いている。


 いたずら心に駆られて、膝立ちの姿勢で彼の隣に移動した。


 布団に横になり、彼の背中に背中をつけた。


「なんだ」


 火傷で皮膚を失った大きな手で、夢之助の頭を撫でる。


「なんだかわからんが、ここにいたいならいていいぞ。俺が守ってやるからな」


 夢之助は少しだけ笑って目を閉じた。


 ぬくもりを感じながらまどろみに身を任せるのは、心地よかった。


 もう、大丈夫。きっとこちらが現実。





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