オガタハルオの、ある1日

筒井透子

オガタハルオの、ある1日

見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。およそ100年前の尾形晴夫のその日記から見つけ出されたその1日が、腸内フローラのポジティバルキスおよびフィジカルピスが、最初に出現した日とされている。


 尾形晴夫は当時32歳。独身。一人暮らし。中堅の文具メーカーのサラリーマン。中肉中背、眼鏡をかけ、髪は短く、2枚買ったらお得になるスーツ上下と無難な青系統のネクタイを着用、「令和のサラリーマン」として博物館に飾りたくなるような極めて普通の人物である。趣味は映画鑑賞と読書、映画には多少こだわりがあったが読書は話題になっているベストセラーがメイン。そして、時折RPGのゲームをする。普通であった。

 職場では無口で、余計なことは一切言わないタイプであった。彼の通常の人となりを把握するため、尾形晴夫についての会社の同僚たちの証言をここに集める。あの1日(後述)のあと尾形晴夫についての取材が少し入り、記事が残っている。貴重な資料だ。

「尾形くんは世間話っていう概念を知らないんじゃないかと思ったね。仕事はとてもよくできる人でした」(上司談)

「無口だけど飲み会には案外きてました、歓迎会とか同期との集まりとか、気がつくといました。まあでも黙ってるんだけど。あ、そうそう、映画好きを称する課長が、映画の蘊蓄をずっとだらだら話してる時があって俺はうんざりしてたんだけど、その課長の蘊蓄を尾形は一つ一つ訂正していってね。ぼそっと、それは是枝監督じゃなくて濱口監督、それはコーエン兄弟、みたいな。検索したら全部尾形の方が合ってて、課長がだんだん静かになって、あれは面白かったなあ。映画詳しいの? って聞いてみたけど笑顔で黙ってるだけでしたけどね」(同僚談)

「エクセルで自動で計算できる表を作れって課長に指示されて、私全然エクセルとかわかんなくて困っちゃって、他の仕事してたんです。そしたら夕方になって隣の席の尾形さんからメールが届いて、見てみたら言われてたエクセルの表ができてて、一つ数字入れたら全部計算してくれるの。え、すごーい、ってなって、尾形さんって陰キャだと思って一言も喋ったことなかったけど、もしかしてあたしのこと好きなのかな、って思っちゃって、ほらあたしちょっとかわいいでしょ、よくあるんですよそういうの。ありがとうございます、お礼にご飯奢ります、って言ってみたら、すごいきょとんってされて、「すぐできたからやっただけだから」って断られちゃったんですよね。誰にでも親切なただのいい人じゃんね、なにそれ」(後輩談、言い分ママ)

 

 尾形晴夫の特筆すべき特徴として、彼が毎日きっちりと日記をつけていたことがあげられる。

 天気、朝食、昼食、夕食のメニュー、平日はその日の仕事の概要、休日は観た映画や読んだ本の簡単な感想、ゲームの進捗(たまに夜更かしをしていた)。旅行に行った時には旅の行程が、電車の時刻まできっちりと書かれる。一般的なノートに小さく几帳面な字でびっしりと綴られているその日記は、それだけで博物館に陳列できるほどの歴史的価値がある。彼が、ポジティバルキスとフィジカルピス発現前に何を摂取していたかは貴重なデータであるが、彼の日記にはその食事が克明に記録されており、それも史料価値を高めていた。

 発現の数年前から尾形晴夫は急にキムチにハマった。それも熱烈に。毎日必ずご飯のお供に食べていた。和食だろうがハンバーグだろうがカレーだろうが、横にはキムチ。彼はその頃ほとんど外食はしなかった。そのため毎晩キムチが食卓に上がった。同僚の証言どおり、職場の飲み会などは参加するタイプだったらしいが、たまたま発現の日の前日は飲み会であったようだ。しかも焼肉。尾形晴夫はその日、キムチ盛り合わせを二皿頼んで一人で全部食べていたという目撃証言がある。後年、ポジティバルキスの発現要件としてキムチの継続摂取があげられるが、当時はもちろん知られていない。

 また、彼の朝御飯は大麦のたくさん含まれたシリアルに牛乳と決まっていた。これも毎日同じであり、毎日同じなのに彼は毎日記録していた。お気づきの方もおられると思うが、大麦と牛乳の継続摂取は、フィジカルピスの発現要件である。

 尾形晴夫はその几帳面な性格から、約100年昔に、ふたつの腸内フローラ発現要件を知らず知らずのうちに満たしていた。


 運命の日、それまでも、この日以降も、前述したとおりの日記を書く尾形晴夫であったが、その日、令和9年10月22日の日記を、前日、当日、翌日との比較で掲載する。


令和9年10月21日 木曜日 晴れ

朝食 シリアル、ヨーグルト

昼食 唐揚げ弁当600円 野菜不足

夕食 伊藤らとの同期飲み会 焼肉天山屋 4500円

生ビール2杯、ハイボール1杯 焼肉、キムチ食べ放題

伊藤は2年ぶりだが、変わりなし。

仕事 企画会議。メモ帳についての若手の意見が斬新。


令和9年10月22日

今日はヤバかった☆ 楽しかったなー!


令和9年10月23日 土曜日 曇り

朝食 シリアル

昼食 カレー

夕食 ご飯、キムチのみ

身体中が痛くてだるく、1日家で過ごす。

昨日の記憶がほとんどなく、不安。病院での検査結果が心配。


 22日だけ、完全に別人である。ご丁寧に☆マークまでついている。

 今これを読んでいる読者諸氏なら原因は承知であろう。

 腸内フローラのポジティバルキスが異常に増えて常在菌を追い出し、1日だけ腸内を占拠し、宿主を支配した結果である。さらにその日は、シリアル摂取の結果であるフィジカルピスも異常繁殖し、その2種類のフローラが腸を占拠した。

 説明するまでもないことだが、ポジティバルキスは脳内にポジティブを呼び込むフローラだ。現代では鬱病の治療に活用されている。フィジカルピスは、筋力を異常に増強させることで知られる。この二つが異常に繁殖して、尾形晴夫を乗っ取った。ここで思い出して欲しいのは、ポジティバルキス、フィジカルピスについては、尾形晴夫が初めての発現例であり、100年前の人類は、乗っ取られたらどうなるか、誰も知らなかった、ということである。

 本来、この二つに乗っ取られた人格が日記を書くことは想定しづらいが、そこは几帳面な尾形晴夫の常在菌たちが頑張ったのだろう。彼は夜に日記を簡単にしたためた。彼の言葉で。超ポジティブに。そんな彼でもしかし「ヤバかった☆」と言っているその1日とは、どのようなものであったのか。

 その日の尾形晴夫の記憶はほぼなかったようだが、彼が後日語ったわずかな記憶と、数々の目撃証言、あと想像による補足によって、尾形晴夫のその1日を振り返ってみることとしよう。ポジティバルキスとフィジカルピスに乗っ取られている尾形晴夫については、区別するために以後「オガタハルオ」と記す。


 令和9年10月22日は金曜日であった。平日であるため尾形晴夫はいつもどおり六時半に起きる。朝食のシリアルを食べ、軽くシャワーを浴びて、髪を整えた。それからトイレに行った。その日は下痢の症状が出た。尾形晴夫はトイレにこもった。通勤電車で何かあっては大変だと、尾形晴夫は液体状の便を出し切った。ここで彼のその日の常在菌を全て追い出したのだと、研究者は口を揃える。

 家を出る。尾形晴夫の足取りは軽い。あれ、俺、なんだかいつもより元気だな。外は秋晴れ、運動会日和だ。ちょっと走ってみようかな。

 オガタハルオは走ってみた。スーツを着込んでいるのにすいすいと走れてしまう。体が軽い。速い。こんなに走ったら汗だくになって会社にいくころには臭くてたまらなくなるんじゃないか、隣の席の浅井ちゃんに嫌われちゃうかな、いや大丈夫、前エクセルの表作ってから彼女、俺のこと好きだしな、ワイルドさにますます惚れられちまうわ。って、走ってたら駅にいつもより早くついちゃったな。一本早いやつは混むんだよなあ、まあいいや乗っちゃえ。ぎゅうぎゅうだ、汗臭いな俺。まあいいか。あれ、前の女子、めっちゃ顔顰めてるけど俺が臭いせいかな、そんなわけないか。俺が嫌われるわけないもんな。今日も俺こんなにイケメンなメガネ男子なんだし。


佐伯明子の証言

 痴漢がいたんです。女性専用車両はぎゅうぎゅうすぎて乗れなくて仕方なく普通車両に乗ったんですけど、一駅くらいずっとお尻をむぎゅって触られてて全然気のせいじゃなくて。最初は隣の汗臭い眼鏡の人かなと思ったんですけどどうも違って、後ろにいるハゲのおっさんでした。不愉快だけどこの電車だとしょっちゅうだったし、騒ぎを起こしたら会社にも遅れるし。とにかく全然動けないし、カバンを後ろにもまわせないし、あと二駅だからと目を瞑っていたんです。人の流れがあったら逃げられるから、駅についてドアが開くのを待っていました。ドアが開いたとたんに、男の人のすごく明るい声がしました。

「はい、この人痴漢ですー!」

 眼鏡の細い男の人が、そのハゲ親父を後ろから羽交い締めにして、持ち上げていました。そして「ちょっとどいて、通してくださいー」って明るく言いながら、まるで荷物を運ぶみたいにおっさんを外に運んでいました。おっさんめちゃくちゃ暴れていたのに男性はピクリともしていなくて。ぽかんとしている私をその男性が見て、「ねえ、被害届出した方がいいと思うからきてほしいけど、お仕事遅れそう?」と聞くんで、腹括って降りましたよ。それで一緒に駅長室まで行って被害を伝えてたら、横でその男性、あ、尾形さんが、「僕も見てました」「騒いでも全く動けない感じだったから駅にくるまで待っちゃって。ごめんねー」とか証言してくれて、そのハゲ親父は警察に連れていかれていました。尾形さんそのあと派出所にもついてきてくれました。帰りに尾形さんに、「さっきのおっさん常連だと思うんですよ、ありがとうございました」ってお礼言ってたら、「お姉さんスタイルいいから被害に遭いやすそうだよね、気をつけなよねー」とか、嬉しいことをあっけらかんと言ってくれました。

 まだ話せそうだったから、「なんでそんなに怪力なのか」聞いてみたら、尾形さんは、初めて気づいた、って顔をして、「本当だ、どうしたんだろ俺」って言ってて、その後急に、「ねえねえ、ためしにお姫様抱っこしていい?」っていうんです。ええっ、ってすごいびっくりしましたけど、あんまり楽しそうなものだから、駅前の人通りの多い道だったのに、私、うんって言っちゃって。そしたら一瞬でお姫様抱っこされました。軽々とです。周りはめっちゃ見てるし超恥ずかしかったですけど、こんなこと二度とないよなと思うと楽しくなりました。尾形さん、いやらしさが全然なくって、さわやかでした。


(注)その日、オガタハルオがお姫様抱っこをした女性は4名であった。


浅井かおりの証言

 はい、尾形さんから電話があったのは朝の9時くらいだったかな、始業時刻をすぎてて、尾形さんきてないな、どうしたんだろうな、と思っていた矢先です。電話が鳴ったので取りました。

「はい、オオタ文具、浅井です」

「あー! ちょうどよかった、浅井ちゃん?」

 こういう時はだいたいうちの社の上司の誰かなので私は黙って続きを待ちました。でも浅井ちゃんとか呼んでくる人いないけどな、と思っていたら、「俺よ俺、オガタ」と言われたので仰天しました。絶対に違うと思いました。尾形さんがそんな話し方をしているのは聞いたことがありません。どうしよ、変なのがかかってきちゃった、と思っていたら、そのオガタさんは続けます。

「ごめんね、今日遅れるわ。ちょっと痴漢を捕まえちゃってさ」

「痴漢?」

 私がそこだけ復唱しちゃったもんだから、皆がこっちを見ました。

「うん、そうなの、さっきから電車に乗るたんびに痴漢見つけちゃってさ、もう今で4人目。また警察に話しにきてて。あのさ、資材課の森さんと打ち合わせ予定だったんだけど、今日は無理、って言っといてくれる? あ、警官戻ってきたから、じゃねー」

 勢いよく電話が切れてしまいました。課長が私の前にいました。

「痴漢? どうしたの」

「いや。あの、尾形さんが」

「尾形が痴漢?」

 また課長が大きな声を出して皆がこっちを見ました。これはよくない、と思って、でも私自身も何が起こったかわかってなくて、だから今聞いたことをそのまんま大きな声で説明しました。

「うーん。尾形は痴漢しそうではあるが、助けそうには見えないが」

 と、失礼なことを言ってから、課長は席に戻っていきました。その後、資材課の森さんに電話をしたら、尾形さんと本当に約束をしていたようでしたので、あの電話はやはりご本人だと確信が持てました。

 でも、すごく、別人でした。


望月沙耶香の証言

 朝、電車に乗ってて、今日も痴漢だ、こんなショートカットでガリガリの女でも平気で触ってくるなあ、と思っていたら、その痴漢の腕を横にいた眼鏡の男性が軽く触ったんです。そしたら痴漢が悲鳴をあげて。本当に軽く触ってるだけに見えたので驚きました。何すんだ、って痴漢がキレてたもんだから、私が「あんた痴漢でしょ」と応戦して、そうしているうちに電車が駅に着いて、眼鏡の男性は痴漢の腕を掴んで電車を降りたんで、私も一緒に降りました。軽く掴んでいるだけなのに痴漢は全然抵抗できないみたいでした。眼鏡の人はすごく慣れてて、派出所に迷わず痴漢を連れていってたら、警官に「え、またですか」って言われてて、彼は陽気に「またなんすよー。この線、痴漢多すぎますよ、なんとかしてよ、職務たいまーん!」とか笑いながら、その痴漢を椅子に座らせて、それから私に、「じゃあ、被害届出すとかそういうの、お任せしますんで。俺さすがに会社行きたいし。今日だけで5人痴漢捕まえちゃったんで、全然仕事いけてなくて」って言って、5人? は? と思っている間に、彼は、「おまわりさん、俺いいこと思いついちゃった、会社に行く方法」って言って、にこにこと笑っていました。警官が首を傾げると彼は言いました。

「もう電車乗るのやめる、走るわー!」

 そして、大声で、最初からそうしときゃよかった、今日は足が軽いんだよねー、とか言いながら、去っていきました。助けてくれたのに申し訳ないけど、第一印象は、うざいな、でした。私、ポジティブとか嫌いで。


 グーグルマップでだいたいの方向をつかんで、俺は走り出した。どうせ遅れてるし、ま、適当に走ってたらいつかつくだろ。爽やかな天気。走っても走っても全然疲れない。さっきからおっさんを持ち上げたり腕を捻り上げたり、お姫様抱っこしたりしてるけど、全然疲れない。どうなってんだかわかんないけどまあいっか。さっき五人目で助けたショートカットの人、すごく美人だったな。お姫様抱っこは頼める感じじゃなかったけど、ああいう人も助けられて今日はラッキーだったなー。本当に足取りが軽い。俺は走る、いつまでもいつまでも。


(注)オガタハルオが走り出したその駅から、オオタ文具までは約30キロ。オガタハルオは結局その日会社にはたどりつけないが、さまざまな目撃証言や到達時間を勘案すると、彼は時速20キロ程度の速度で走っていたと推測されている。ちなみに、世界クラスのマラソン選手の時速は17キロ程度。


吉田照久の証言

 その日は、朝から車で営業先の小さな会社に行きました。はい、社用車です。取引先は入り組んだ住宅地にある小さな工場で、そこの社長さんとはもう五年くらい取引していて僕も道には慣れてて、だからちょっと僕も油断あったかもです。社長さんとの話が終わって、車に乗って、会社に戻ろうとしました。喉が渇いていて、自販機があればコーヒーを買おうと思って、自販機があったような記憶のあるあたりを走っていました。

 近くに小学校があります。午前中でしたけど小学生の通学時間は過ぎていて、体育の授業中のようで、先生の掛け声が聴こえていました。僕は小学校を過ぎたあたりで自販機がある気がしていて、ちょっと気が逸れていました。

 目の前を誰か、小さな影が横切りました。あ! と思った時、突然車がすごい音を立てて、止まりました。

 はい、本当に突然止まったんです。ガシ、って、当たる音がして。なんならそれから少しバックしたくらいで。いや、僕はブレーキを踏んでいません、踏む暇がなくて。

 車は軽のバンなのでフロントがわりとフラットなんですが、フロントガラスの目の前に人が立っていました。眼鏡をかけてスーツを着たその若い男性は、両手を広げて前に出して、僕の車のフロントガラスを押していました。ぐーっと。その反動で僕の車はバックしていました。

 その男性とはほぼ真正面から目があっていました。その人は僕を見てにっこりと笑いました。車を押しながらです。

 僕がそのあと我に返ってブレーキを踏んだので車は完全に止まって、するとその男性は僕の運転席の横に来ました。僕はドアを開けて外に出ると、その男性がにこやかに僕の肩を叩くんです。

「いやー、轢いちゃうところだったね、あっぶなかったねー。よそ見しちゃダメだよー」

 前を見ると、小学生、多分2年生くらいかな、が、しゃがみこんでいました。ものすごく怯えた目をしています。その眼鏡の男性が、今度はすぐに小学生のところに行っていましたが、小学生はびくりとしていて、僕よりその人に怯えているのだとわかりました。男性は意に介さず、小学生の頭を撫でます。

「ボク、学校に遅れたのかな? 急いでたのかな? でも、飛び出しちゃダメだよー」

 小学生は壊れたロボットみたいに首を縦に振り続けました。

 じゃ! と、その男性が去っていきました。僕は咄嗟に車のフロントの様子を見てみました。フロントガラスにはヒビが入っていて、少し張り出したボンネットが凹んでいました。しかし、どう見ても男性は無傷でした。

 いやこれ本当なら、僕、轢いてるはずだよね、この人。

 思い至ったので、僕はすごい勢いで走り去る男性を必死に追いかけました。僕は昔陸上部だったんですが全然追いつけないくらい早くて、僕は仕方なく「待ってください!」と何度も叫びました。男性は止まって振り返って、え、俺? って顔をしてから、すごいスピードで戻ってきました。

「え、なに? お礼ならいいよー」

「今の、交通事故だと思うんです。警察呼びますのでお待ちいただけませんか」

 あとから怪我したとか言われて慰謝料請求されてもたまらないし、そもそも車は凹んでいる。社用車だ。会社に説明しなければならない。

「えー、けいさつー?」

 男性はあからさまに嫌そうな顔をしました。

「今日、6回目だよー、行かなきゃだめー? 仕事行きたいんだけどなー」

 6回目? なんか話が通じないし、正直怖くなって、僕はその人の許可を待たずに、警察と、救急車を呼びました。

 救急車が来て、僕が事情を説明しても、係の人は信じてくれませんでした。横でその男性もにこにこして、「だいじょうぶっすよ、俺めちゃくちゃ元気でしょ?」と飛び跳ねたりしています。するとあの小学生が、証言してくれました。

「このひと、ひとりで、うごいてるくるまをとめてた。」

 男性はほぼ無理矢理救急車に乗せられ、去っていきました。

 僕が会社に戻っていろいろと伝えても、なかなか信じてもらえなくて、大変でした。


 そのあと、オガタハルオは病院で事情を聞かれた。彼が正直に「はい、車が子どもを轢きそうになってたんで、止めました。」「止めた?」「はい、両手で、ぐーっと」「走ってるのに? 一人で?」「そうなんすよね、なんかやってみたら止まっちゃって」みたいなやりとりをしたので、病院は大層困惑した。なにかとんでもない特異体質の人かもしれない、とにかく検査をしてみよう。病院はそう判断して、あらゆる検査が行われた。心電図、MRI、カウンセリング、検尿、検便、採血。

 滑稽なことである。今なら検便だけで済むのに、当時はこれが腸内フローラの作用だとは誰も知らない。

 ただ、闇雲な検査で検便をしていたことが後年大変参考になったことは申し添えたい。

 ちなみに心療内科では彼を診察して、「躁病とまでは認定できない」としたうえで、「尋常ではないポジティブさ」と所感を残している。


 検査から家に帰ったオガタハルオが、いつ尾形晴夫に戻ったのか、記録はない。

 ただ、翌日全身が痛くて、土日は寝込んだ、と後年尾形晴夫は語っていた。それはそうだ、フィジカルピスは、脳に筋肉を最大限に使うように指示する腸内フローラだ。彼の筋肉の限界を遥かに超える働きをするよう、脳が誤作動を起こした結果、彼は車を止め、そして翌日に人類が経験したこともない激烈な筋肉痛に見舞われた。その程度で済んだのは奇跡だろう。

 その日以降、彼は何度か自動車保険会社や警察から事情を聞かれ、さらに車を運転していた会社の総務担当が運転手の営業の吉田と菓子折りを持ってきたり、小学生の親がお礼を言いに来たりもした。その度に尾形晴夫はこう答えるしかなかった。

「いや、よく覚えてないんです。申し訳ありません」

 1日に痴漢5人を捕まえたことで警察から感謝状をもらったときも、彼は同じように答えた。

 そして、彼はその後も、朝食、昼食、夕食を毎日几帳面に記録する、「普通の人」尾形晴夫として、その82年の生涯を全うした。キムチはそのあとも食べ続けたが、もう尾形晴夫がオガタハルオになることもなかった。

 腸内フローラが人間を支配することが明らかになって、ポジティバルキスやフィジカルピスなどの起源を辿る研究がなされるまでは、彼が注目されることもなかった。

 最古の記録として、彼の便から、それは出現したのだった。


 ここでこの話を終わってもかまわないのだが、さらに特筆したいことがある。

 尾形晴夫は後年、令和9年10月22日以外の日には、つまらない人間のように語られることがある。日々同じように日記をつけ、定年までサラリーマンをまっとうしただけだと。それは違うと申し上げたい。たった1日の奇跡以外の彼の長い人生も、十分満たされたものであったのだ。


尾形(望月)沙耶香の証言

 令和9年10月22日から1ヶ月くらい経過したころです。私は夕方18時ごろ、オオタ文具株式会社の本社の前に立っていました。尾形さんにお礼を言おうと思って。うざい人だし会うのはだるかったんですけど、ちゃんとお礼が言えてないとか、私、そういうの、落ち着かない性分なんです。

 尾形さんが出てきたのは18時10分ごろだったと思います。声をかけましたが、尾形さんは私を覚えていないようでした。覚えてないんだ、と思いながら、説明しました。痴漢から助けていただいて。尾形さんはたしか、私が5人目だと言っていましたと。

 尾形さんは私を眼鏡の奥からじっと見て、言いました。

「ショートカットの方のことはほんの少し覚えています」

 ただ、自分にはあの日の記憶はほとんどなくて、申し訳ないです、と謝られて、私もいえいえそんなと首を振り、ありがとうございました、いえいえ申し訳ないです、いえいえこちらこそ、と不毛なやりとりを繰り広げました。

 そのやりとりのあと沈黙が訪れました。あれ? こんなに無口な人じゃなかったよ、私がうざいと思うくらい元気な人だったのに、どういうこと。戸惑っていたら声がかかりました。

「どうして僕がここにいるとわかりましたか?」

 説明しました。SNSで痴漢で検索していたら、カオリンという人が「今日、隣の席のメガネさんが痴漢五人も捕まえたらしくてめっちゃビビる、陰キャだと思ってたのに」と呟いていたこと、その一ヶ月後、同じカオリンが、「わが社の新作のメモ帳、超カワイイ☆」とオオタ文具の新商品をあげていたこと。尾形さんは一言「浅井さんだな」とつぶやいて、その日はじめて笑いましたが、その笑みは口の端をちょっとあげるくらいのものでした。多分笑ったのかな、と思ったので、私は意を決して食事に誘いました。尾形さんは応じてくれました。

 私が推理してたどり着いたのが面白かった、とあとで夫は言っていました。

 私も、うざい人だと思っていたら無口すぎてびっくりして逆に興味を持った、とあとで夫に話しました。

 夫は一見、毎日代わり映えのない生活をしていて、とても無口ですけど、内面はすごく豊かで楽しい人です。週末には、二人で映画を観ています。

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