ヨモツヘグイの香り

書三代ガクト

第1話

 さびれたマンションの踊り場。壊れた南京錠を横目に扉を開いて、屋上に入った。振り返ると、足が揺れる。

 顔を上げれば目を丸くする彼女がいた。同時に彼女の顔にノイズが走る。

「やっぱりいた」

 僕は小さく笑ってペントハウスの梯子を上る。彼女の横に腰掛けて、視線を前に向けた。彼女が見ていたであろう景色を眺める。

 住宅が並び、その向こうには山が広がっていた。

「海を探してたの」

 挨拶もそこそこに、彼女がぽつりと言った。少し震える声。彼女が教室でした自己紹介の声と同じだった。

 彼女の両親は世界的な銀幕スター。彼女自身も昔から「見えないほどに美しい子役」としてテレビに出ていた。

 そんな彼女が僕の通う中学に転校してきたのは一年前。銀幕スター二人の死と彼女の引退が報じられた日だった。薄汚れた扉から入ってきた彼女にクラスメイト全員、目を奪われた。テレビで見るよりも存在感のある姿に。

 彼女は黒板に名前を書いて、ゆっくりと振り返る。転校生らしく、不安そうにはにかんで教室を見渡した。

 その瞬間、彼女の顔にノイズが走った。後に聞いたら他のクラスメイトも同じものを見たとのこと。彼女のキャッチコピーは嘘でないと気付かされた。

 

 彼女は美しすぎた。美しすぎてうまく見えないんだ。


 そして誰かが言った。「都市伝説みたい」と。

 気づけば彼女は学校に来なくなり、一人屋上でたたずむ少女となった。

 また「屋上の人影」という変な噂のもとになっている。


 僕はそんな彼女は見つめるものを知りたかった。

 昔から特殊な呼ばれ方をして、両親を失って、今も噂の中心になっている彼女の視界を。


「海を探してたの」

 彼女はまた呟く。横に目を向けると、彼女は窺うように、上目遣いをしていた。ノイズが走る。

 埼玉のどちらかと言えば田舎の方。さびれたマンションからは海なんて見えやしない。

 僕が首をかしげると、彼女は慌ててポケットから酢昆布を取り出した。

「食べる?」

 震える声だ。初めての教室で受け入れられるかの不安がにじむ声と同じ揺れ。

 ふとヨモツヘグイという言葉が頭に浮かんだ。古典の授業でやった食べると取り込まれてしまうごはん。

 都市伝説みたいな彼女が差し出す食べ物。

 

 僕もそっち側に行けるんだろうか。

 

 僕はゆっくりと手を伸ばした。指先が触れる。包装を解いて口に入れる。海の香りが広がった。

 彼女の言う海がなにかまだ分からない。

けど――。

「悪くないね」

ノイズの向こうで。彼女の笑みが見えた気がした。

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ヨモツヘグイの香り 書三代ガクト @syo3daigct

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