第5話 揺れる決意と“桶狭間商事”の攻防

ーー役員会議室ーー


「…で、結論としては、桶狭間商事を全面的に立て直すには、わが社のリソースを惜しみなく投入する必要がある、というわけか」


上杉謙信がビジネスライクな声で資料に目を通す。

ここは今川コーポレーションの役員会議室。

社長・今川義元をはじめ、副社長の雪斎、そして謙信や信長、さらに秘書の竹中半兵衛が一堂に会していた。


数日前から進められてきた「桶狭間商事再生プラン」が、いよいよ経営陣の検討段階に入っている。

だが、その表情は一様に険しい。

現状のままでは、桶狭間商事をテコ入れするのに相当の時間とコストがかかる。

それだけではなく、他社との協力体制の締結も不可欠だ。


「正直、このプランはリスクが高すぎます。

 ただでさえ、今川本体の新プロジェクトにリソースを割かねばならない時期。

 ここで大規模な立て直しを図るのは得策ではない、と考えますが」


雪斎が冷静な口調で意見を述べる。

すると、信長がすかさず反論の声を上げた。


「何を消極的なこと言うてんねん。

 こういう時期やからこそ、一気に変革を進めるべきやろ。

 弱いとこを放ったままやから、外部から揺さぶりかけられたらあっという間に崩れるで」


「しかし、資金も人材も限られています。現実問題として——」


「その点については、武田商事と協力する段取りを進めてるわ。

 あいつ…いや、徳川家康とはすでに交渉しとる。うまくやりゃ、思ってる以上の相乗効果が見込めるはずや」


信長の言葉に、義元が渋い顔のままうなった。


「武田商事…か。たしかに彼らとなら、巨大なリスクをある程度カバーできるだろう。

 だが、そもそも桶狭間商事など、切り捨てても構わん程度の子会社ではないのか?」


「…!」


ピシリと空気が凍る。

桶狭間商事を“切り捨てる”という極論に、信長の眉間には怒りの皺が寄った。


「親父、そんな考えやったんか? 俺様は、ここを立て直すことで今川の足元を固めるつもりや。

 それに、本気で変えれば大きな利益を生む可能性だってある」


「現実を見ろ、信長。机上の空論だけで会社を動かすな」


義元の言葉に、一瞬、会議室の空気が重くなる。

そこへ取締役の上杉謙信が口を挟んだ。


「しかし、織田くんの言うことも一理ありますね。

 もし武田商事との連携が上手く機能し、桶狭間商事の再生が成功すれば、今川全体の評価も格段に上がる可能性があります。

 当然、業績面だけでなく、社内外への影響力も…」


「ふん…謙信、あまり夢を見させるな。

 おまえは常に冷静な判断を下す人間だと思っていたがな」


義元が不機嫌そうにぼやくが、謙信はあくまでも落ち着いた調子だった。


「ですから、私も“可能性の一端”だと言っているだけです。

 問題はリスクとリターンのバランスをどう取るか、ですね」


ここで再び信長が前のめりに机へ手をつく。


「リスクを恐れて何もせぇへんやったら、それこそ会社が衰退するだけや。

 俺様は、武田商事…つまり家康と共に、この計画を前に進める。

 親父や他の役員がどう言おうと、止める気なら全力で説得してやるわ」


その言葉には珍しく熱がこもっていた。

義元は黙って息子の目を見据え、やがて短く息を吐く。


「まぁいい。おまえがそこまで言うなら、ひとまず計画の実行可能性を検証しろ。

 結果が出ないうちに大きく動くことは許さんが、正式なビジネスプランとして提示できるなら、私も考えなくはない」


その言葉が出た瞬間、信長ははっと目を見開く。

どうやら、完全に門前払いを食らったわけではないらしい。


「上等や。絶対、後悔させへんからな」


決意を滲ませる信長の横顔を、竹中半兵衛や上杉謙信は安堵の表情で見つめる。

しかし義元が足を組み替えた拍子に、彼の視線がある人物へと向いた。


「……そういえば、明智はどうした? こういう重要な席におらんとは、何をしているのやら」


「明智光秀ですか? 彼は今日、営業先の調査と言って早朝から外出しており、連絡が取れません…」


半兵衛が申し訳なさそうに答えると、義元はますます眉をひそめる。


「営業先…? あまりにも自由に動きすぎではないか。

 明智の動きには注意しろ。余計なことを企んでいなければいいが」


そんな言葉が交わされる中、信長の脳裏にはふと、明智光の不穏な微笑が過った。

凄腕の営業マンでありながら、その正体は産業スパイであるという噂がある。

だが証拠はなく、いまだ誰も確信を掴めていない。


(あいつ…気味が悪いくらい仕事できるくせに、なに考えとるかわからん。

 まぁ、今は家康とのプロジェクトを優先や。もし明智が邪魔するなら、そん時は叩き潰してやるだけや)


会議は、ひとまず義元の「継続検討」の言葉をもって散会となった。

役員たちが去った後、信長は静かに拳を握り締める。


(桶狭間商事…絶対に俺の手で立て直す。そんで、家康の前でもっとデカい仕事を見せつけてやるんや)


思い浮かぶのは、あの底知れない笑みを湛える徳川家康の姿。


ーー執務室ーー


「ほんまに、やる気やねんな…織田様」


会議を終え、信長が自分の執務室に戻ってきたところへ、秀吉が苦笑いを浮かべながら声をかけた。

森蘭丸や前田利家も、遠巻きにこちらの様子を伺っている。


「当たり前やろ。あの親父や役員連中を黙らせるには、結果出すしかないんや。

 それに桶狭間商事が大化けしたら、面白いことになりそうやろ?」


信長は机に書類を置きながら、心の奥で高揚感を噛みしめていた。

義元たちは消極的だったが、一応“検討”という形で進められるのなら悪くない。

もしこの案件が成功すれば、今川コーポレーションの体質を変える大きな第一歩になり得るはずだ。


「でも、ほんまに間に合うんやろか。聞いたところによると、桶狭間商事の業績はかなり厳しいらしいでっせ?

 何より、社内の人材も流出しとるとか…」


秀吉が心配そうに言うと、信長は鼻を鳴らす。


「せやからこそや。底辺から巻き返したらインパクトは絶大やろ。

 …俺様はそういう逆境のほうが燃えるんや。お前らも腹くくっとけよ?」


「へいへい、もちろんですやん。わしは信長様についていくだけですわ」


秀吉が軽く手を挙げ、蘭丸や利家もうなずく。

その連帯感が、どこか心地いい。

そして、何よりこのプランが本格的に動き出すとなると、再び“あの男”と密に連携を取らねばならない。


(家康…あいつとは、また一対一で話す場面も増えるやろな)


先日のラウンジでの別れ際の囁きが、まだ耳の奥に残っている。

“遠慮なんかいりまへん。どんな手を使うても、わたしは逃げませんさかい”

あの瞬間感じたゾクリとするほどの昂ぶりが、再び胸を熱くさせる。


「信長様、そろそろ次のスケジュールに移られたほうがよろしいかと。

 桶狭間商事の現地調査や、経理資料の精査も急ぎで進めねばなりませんので…」


竹中半兵衛が冷静な口調で促す。

強烈な高揚感に浸っている場合ではない。

早急に情報を集め、具体策を立てねば、義元や上杉謙信を納得させるプランへと練り上げられないのだ。


「わかっとるわ。よし、秀吉、利家、それから蘭丸。お前らは桶狭間商事の実態を直接見てこい。

 事前に担当部門には俺から話つけておく。半兵衛、お前は資料まとめや。早急に各部署から数字を集めて、分析してくれ」


「了解しました!」


それぞれが指示を受け、すぐに動き始める。

信長も外部との折衝に備え、ひとまずデスクに腰を下ろした。

パソコンを開き、メールの受信箱にはすでに家康からの連絡が届いている。

件名は「桶狭間商事プロジェクト 追加確認事項」。


(仕事熱心なこっちゃな…

 けど、ただの追加確認で終わる気せぇへんのやけど…)


胸の奥でドキリとする感覚を覚えながら、信長はメールをクリックする。

文面は一見、業務的なものだったが、最後の一文が彼の心臓を鷲掴みにした。


> 「追伸:またお二人でお会いできる機会を、楽しみにしております。」




たったそれだけの一文なのに、どうしてこんなに動揺するのか。

自分が“俺様”であることを忘れるくらい、胸がざわめく。


「…ったく、あいつも調子ええわ」


小声で悪態をつきつつ、信長は深く息をついた。

だが、その吐息には期待と戸惑いが入り混じっている。


(好きにせえ言うたやろ。俺様も遠慮なんかせぇへんで…)


意を決して返信を打ち始める。

業務連絡を装いながらも、その言葉選びに少なからず気を遣っている自分がもどかしい。


そんな中、ふと脳裏に浮かぶもう一つの影——明智光。

会議に姿を見せなかったあの男が、どこで何をしているのか。

産業スパイという噂は本当なのか、それともただの疑惑なのか。


(もし明智が余計な真似をするなら、容赦なく排除するまでや。

 俺様の計画、誰にも邪魔はさせへん)


強い意志を胸に宿しながら、信長はひたすらキーボードを叩く。


ーー翌日ーー


「信長様、報告いいですか!」


翌日、朝早くから桶狭間商事を訪れていた秀吉・利家・蘭丸の三人が、今川本社へと戻ってきた。

信長はちょうど到着した彼らを執務室へ通すと、彼らの表情が何か焦りを帯びていることに気づく。


「おう、どうやった? 実際の現場は」


「それが…予想以上に厳しいですわ。人員は減る一方、業務フローも整備されとらん。

 なんなら、部長クラスが他社へ引き抜き決まりかけとる、てウワサまであるんです」


秀吉が苦い顔で言うと、利家も続いた。


「経理や在庫管理のデータもバラバラで、まともに数字を把握できていないようでした。

 現場のスタッフはがんばっているようですが…幹部クラスのリーダーシップが足りていない感じですね」


「…なるほどな。まさかここまでひどいとは」


信長は眉間に皺を寄せる。

役員会で父・義元が“切り捨て”をほのめかした気持ちも、わからなくはないほどの惨状だ。

しかし、今さら引き下がるつもりなど毛頭ない。


「蘭丸、お前は何か気づいたことあるか?」


「はい…。社内では再建策があるらしい、と噂している人もいましたが、具体的な情報は聞かされていない様子です。

 ただ、その噂を妙に詳しく探っている人物がいて…」


「人物? 誰や?」


「詳しくは掴めなかったんですが…本社から来た社員だと言っていました。

 名前は…たしか“明智”とか…」


その名を聞いた瞬間、信長の表情が険しくなる。

まさかここで明智の動きが浮上するとは。


「アイツ…やっぱり桶狭間商事に何か仕掛けとるんか?」


胸の奥がざわつく。

明智は優秀な営業マンという顔を持ちながら、その裏で産業スパイだという黒い噂が絶えない。

ただの噂と片付けるには不審な動きが多いが、決定的な証拠はまだない。


(くそ…もし明智が余計な邪魔してくるつもりなら、さっさと尻尾掴んで追い出したるしかないわ)


思わず拳を握りしめる信長。

秀吉たちも同じ不安を抱えているようで、互いに視線を交わす。

そこへ間を割るように、執務室の扉がノックされた。


「失礼します。織田様、武田商事・徳川課長がいらしてますが…」


秘書の竹中半兵衛がそう告げると、その場の空気が一変した。

家康が、こんな早い時間から?

何か急ぎの要件だろうか。


「…通せ。ちょうどええわ。こっちも“お前と話したい”と思っとったとこや」


本音を言えば、明智の件が気になって落ち着かない。

しかし、家康との連携なくして桶狭間商事の再生は進められない。

複雑な思いを抱えながらも、信長はデスク脇に立って出迎える体制を取った。



---


ほどなくして、スーツ姿の家康が静かに部屋へ入ってくる。

相変わらず丁寧な物腰だが、その瞳には確かな意志と野心がちらついている。


「お邪魔しますわ。織田さん、朝からお忙しそうで何よりです」


「ふん、そっちこそ早いな。

 …まぁええ。桶狭間商事の件で何か進展があったんやろ?」


「ええ、実はうちの取締役との打ち合わせで、早う動きたいという声が上がりましてね。

 織田さんが“本気”で取り組むっちゅう話、すでにいろんなルートから耳に入っとるようですわ」


家康はそう言いながら、控えめに笑う。

その言い方には、まるで「あなたの動向を常に見張っている」と言わんばかりの含みがあった。

だが、信長は表情を崩さない。


「そら結構なことや。俺様としても、さっさとでかい動きをかましたいからな。

 …今度の打ち合わせ、具体的にどんな段取り考えとるんや?」


信長がビジネスライクに切り出すと、家康は資料を取り出す。

だが、その仕草の合間に、ほんの一瞬だけ視線が絡む。

先日、耳元で囁かれたあの言葉が不意に頭をよぎり、信長の胸が熱くなる。


「具体的には、まず両社の担当レベルで現場を共有する場を設ける。

 それから幹部クラス…織田さんも参加して、細かい提携内容を詰める形にしようかと」


「ふむ…それなら、近いうちに合同チームを立ち上げるんが先やな。

 うちからは、秀吉・利家・蘭丸、それと竹中半兵衛をメインに動かす予定や。

 お前んとこも、実務に強いメンバーを揃えてきてくれ」


「了解しましたわ。うちには竹中や井伊…半蔵門と優秀な社員が揃うてますさかい。

 彼らを指揮するのはわたしになるやろうけど、どうぞお手柔らかに、織田さん」


あくまでも柔らかい口調。

しかし、その奥には“この戦い、絶対に勝ちましょうや”という不敵さが見え隠れしていた。

それは信長が持つ“俺様気質”と奇妙に共鳴して、両者の感情をさらに高ぶらせる。


「…お手柔らかに、やと? へっ、そっちこそ覚悟しとけよ。

 俺様のやり方に文句言わへんように、腹くくっとけ」


信長は挑戦的に言い放つ。

それを聞いた家康の瞳が、うっすらと笑みを深めた。


「ふふ…望むところですわ。

 遠慮なく攻めてきてくださいよ、織田さん。わたしも負けへんように全力で受け止めますさかい」


そのやり取りを黙って見守っていた秀吉たちが、目を丸くする。

明らかに二人の空気だけが異質に熱い。

だが、それを指摘できる雰囲気は微塵もない。



---


合同チーム立ち上げの概要を大まかに話し終えると、家康は「ほな、また連絡します」と言いながら資料をまとめ始めた。

いよいよ退室か、というタイミングで、秀吉たちが“それじゃ、失礼します”と一礼しながら部屋を出ていく。


気が利くのか、わざとなのか、

その場には自然と信長と家康の二人だけが残る形になった。

扉が静かに閉まり、外からは誰の視線も届かない。


「……」


一瞬の沈黙。

家康は資料を手に立ち上がったまま、ふと視線を横へそらす。

その先には、デスクのそばで腕を組んで佇む信長の姿。

こちらも何やら言葉を探しているようにも見えた。


すると家康は、サッと室内を見渡してから、まるで誰にも見られたくない秘密の行動でもするかのように、信長の背後へ回り込む。


「おい、何しと…」


信長が振り返りざまに言いかけた瞬間、家康はすばやく手を伸ばし、信長のネクタイをほんのわずか引き寄せる。

距離にして数センチ。鼻先がかすめ合うか合わないか、ぎりぎりの距離感。


「…わたしに言うたでしょ。“文句言わへんように、腹くくっとけ”って。

 けど、ほんまに攻めるんは、どっちなんか…考えさせられますな」


小さな声。息が触れるほどの近さ。

信長はゾクッとしたまま、反射的に相手の胸を押し返そうとするが、

家康はまるでそれさえも見越したかのようにさっと離れ、何事もなかったかのように笑みを浮かべる。


「…っ…お前、ここがどこやと思て…!」


「ああ、失礼しました。わたし、つい“本気の織田さん”を見とうてな。

 職場やし、大胆すぎましたかね?」


家康の声は淡々としているが、その瞳には冷ややかで甘い光が混在している。

一方、信長は胸の奥が熱くなり、息が詰まる思いだった。

仕事への意気込みがいきなり打ち砕かれたわけではないのに、体中が妙に奮え立つ。


「…ここでそんなことされたら、困るのはお前やろ。俺様は別に、構わへんのに」


あえて虚勢を張るように言い放つ。

家康はクスリと笑って、「それなら今度は場所を選ばんとあきませんな」と答えた。


「楽しみにしてますよ。織田さんが本気で攻める姿。

 ほな、ほんまに失礼しますわ。次の連絡、待っといてください」


そう言うが早いか、家康はスタスタと扉のほうへ向かう。

扉が開いて一瞬、外の会話や足音が聞こえるが、そのまま軽く頭を下げて廊下に出ていった。

わずか数秒の出来事。

しかし信長の呼吸は荒れ、心臓の鼓動が凄まじく早い。


「…何が“楽しみに”や。調子に乗りやがって…」


そう呟きながらも、背筋を撫でたあの悪寒にも似た快感が、まだ薄れない。

秀吉たちがいつ戻ってきてもおかしくない状況で、こんな一瞬を奪われるなんて。


(あいつ…ほんまにやりよる。

 けど、今度は俺様が…)


頭に浮かぶのは、家康をもっと追い詰めて、あの余裕を崩してみたいという熱い欲求。

同時に、桶狭間商事再生プロジェクトを絶対に成功させてみせるというビジネス上の野心。

その二つの思いがない交ぜになり、信長の心を激しくかき乱していた。



---


こうして、秀吉たちが戻るまでの短い間、信長は一人悶々としながら気持ちを落ち着ける術を探す。

外では誰かの足音や電話の声が響いているというのに、

まるで二人だけの秘密を抱えたような“残り香”が執務室の空気を染めていた。






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