第3話 揺れ動く思惑と新たな局面

ーー執務室ーー


「……お呼びでしょうか」


信長は父・今川義元の執務室前に立つと、深くため息をついた。

先ほどの応接室で、せっかく家康との交渉がいいところまで進んでいたのに——。

義元の呼び出しは、どうせ“また”うるさく説教するだけだろう。


(親父の説教なんぞ、聞いてられへんねんけどな。しゃーない、手短に終わらせるか…)


ドアをノックすると、「入れ」という低い声が聞こえた。

扉を開けて中へ足を踏み入れた瞬間、義元の厳しい眼差しが射すくめるように信長を見据える。


「遅かったな、信長」


「秀吉から呼び出し聞いて、すぐ来たっちゅうのに。俺様だってスケジュールくらいあるんやで?」


つい口調がとげとげしくなるが、義元はまるで取り合わない。

重厚なデスクの椅子に腰かけたまま、傍らのファイルを取り上げる。


「これを見ろ。先方から届いた追加要望書だ」


そう言って突き出されたのは、武田商事から送られてきたらしい書類。

つい先ほど家康が話していた“追加の提案”に関わるものだろうか。

信長は軽く眉をひそめながら、その内容に目を走らせる。


「……ほう。向こうはなんや、共同の新プロジェクトを立ち上げたいと。たしかに、俺が話していた件と合致はしとるけど…」


「家康からはもう聞いたのだろう? だが、ここの条件を見ろ」


義元が指差した先には、微妙に今川コーポレーション側の負担が増えるような数値が示されていた。

もちろん、それに見合った利益を得られる見込みはあるものの、リスクの大きい案件であることも事実だ。


「なぁに、別に問題ない。こんなん、ちょっと社内の調整が必要なだけやろ?」


「おまえはリスクを軽んじすぎだ。数字だけでなく、社内体制の混乱も考慮しろと何度言えばわかる」


義元がテーブルにバンと手を置く。

信長は内心うんざりしつつ、押し黙るしかなかった。


「自分ひとりが“やれる”と思ったとしても、実際に動かすのは大勢の社員だ。

 社長になるなら、そこまで見届ける度量が必要だろう」


「…俺は、そういうとこも含めてやっとるつもりやけどな」


「口だけならなんとでも言える。だが——」


義元は一瞬言葉を切り、鋭い視線で信長を射抜いた。


「徳川家康という男…おまえが思っているより手強いかもしれんぞ」


「……」


一瞬、心臓がドクンと跳ねる。

ただでさえ意識している相手の名を父の口から聞かされると、妙に胸がざわめく。


「手強い、っちゅうのは…どういう意味や」


「武田商事の若手筆頭として注目されているだけでなく、あの男の背後にはいくつかの政財界のコネクションがあるという噂だ。

 つまり、ただ契約をまとめるだけではなく、今川を思うままに利用しようとしている可能性もある」


義元の言葉に、信長は心中で苦笑する。

それはもう、ビジネスの場でひしひしと感じていることだ。

家康が“穏やかに見えて抜け目のない存在”だというのは、最初の交渉で思い知らされた。


(それでも、俺はあいつと仕事してみたいと思ってもうたんや。あいつのやり方は絶対おもしろいはずやから)


「ふん、だから何やねん。あいつがどんな手使おうが、俺様の勝手にさせてもらう。

 親父こそ、余計な口出しはせんでええわ」


「信長…っ!」


義元が苦い表情を浮かべる。その目には、息子の未熟さを憂う気持ちが混じっているようにも見えた。


「…もうええか? 俺は急いで応接室に戻らなあかんのや」


「勝手にしろ。ただし、何かあればすぐに報告するんだ。

 もし手に負えない案件になれば、わたしが出張らねばならん」


「いや、結構。そこまでする前に、俺様がきっちりまとめたるわ」


そう言い捨てて踵を返す信長を、義元は複雑そうなまなざしで見送った。

バタンとドアが閉まり、室内には静寂が戻る。


(あいつ…ほんとうに大丈夫なのか)


義元は表には出さないものの、息子を思うあまりこみ上げる不安を噛み殺した。


一方、部屋を出た信長は荒れそうになる感情を必死で抑える。

義元の言うことにも一理はあると頭ではわかっているが、素直に受け入れられない自分がいる。


(あいつ…家康が俺を“利用”する? そんなん、別に構へんやろ。

 俺様がそいつ以上に利用してやれば、全部俺の勝ちや…)


わざわざ応接室で待たせている家康の元へ戻る足取りは、自然と早くなる。

父の言葉が胸の中でわだかまっているが、それ以上に早く家康の姿を見たいと思う自分がいる。


(俺は何を焦ってるんや。こんなん、ただの交渉の続きやろ…)


自問しても答えは出ない。

けれど、その胸の奥を熱くする正体が“単なる興味”だけではないことを、信長は薄々感じ始めていた。


ーー応接室ーー


バタン。

勢いよくドアを閉め、信長は足早に応接室へと戻ってきた。

父・義元の言葉が胸に残るが、いまはそれよりも家康との交渉を再開することが先決だ。


「待たせたな、家康」


声をかけつつ室内を見渡すと、家康はソファに腰掛けたまま、書類に目を落としていた。

信長の姿に気づくと、すぐに柔らかな笑みを向けてくる。


「いえいえ、お気になさらんといてください。ちょうど資料の整理しとったとこなんで。

 …社長さんとは、どんなお話を?」


「たいしたことやないわ。ちょっと親父がゴチャゴチャ言うただけや」


信長はなるべく無表情を貫きながら、家康の向かいに腰を下ろした。

しかし、家康はそんな彼の様子を見逃さない。

まるで人の心を見透かすかのような視線を向けてくる。


「そちらさんの社長、ちょい厳しそうなお人やね。もしや、武田商事との提携に反対気味とか?」


「反対っちゅうほどやない。けど、あれこれ細かいこと抜かしとったわ。

 …『徳川家康という男には気をつけろ』ってな」


本音をぽろりと漏らす信長に、家康はほんの少し目を見開き、それからクスリと微笑んだ。


「それはまた…光栄なんやろか。実際、わたしが警戒されとるってわけですね。

 けど、織田さんはどう思てはるんです? わたしが危険な存在や、て思うてます?」


その問いかけに、信長はわずかに息を呑む。

さっきまで義元と交わしたやり取り、そして自分の心に芽生えている奇妙な感情。

警戒するべきとわかっていても、どうしても家康を拒めない——いや、むしろ惹かれてしまう気持ちが拭えないのだ。


「…俺様はそんな甘ちゃんちゃうし、お前が何企んどろうが関係あらへん。

 要は、俺がそれを上回るやり方で稼げりゃええだけの話やろ」


強がるように言い放ちながら、視線を外せずにいる自分がもどかしい。

家康はふっと口角を上げ、まるで“面白い”と言わんばかりに微笑む。


「なるほど…わかりました。せやったら遠慮のう、わたしも手を打たせてもらいますわ。

 お互い利用し合えるくらいの関係の方が、ビジネスもうまく回りますやろ」


「へっ、そういうこっちゃ。お前が俺様を利用しようって言うんなら、俺が倍にして利用したるわ」


言葉だけを切り取れば、まるで冷たいビジネスライクなやり取り。

けれど、今にも触れ合いそうな距離で向かい合う二人の間には、奇妙な熱が蠢いていた。


「…ほな、さっそく続きの話、しますやろか」


家康が書類を開きなおし、信長も「おう」と応じる。

しかし、書類に目を落とした瞬間、どうしても家康の気配に意識が引き寄せられてしまう。

鼻腔をくすぐる家康の香りと、言葉の端に滲む余裕。


(なんや…こいつの雰囲気、どんどん近うなっとる。俺、負けてへんやんな…?)


自問するように心の中でつぶやきつつも、信長はビジネスモードを装い続けるしかなかった。


「ええと、まずは“共同プロジェクト立ち上げ”の部分やけど…」


具体的なスケジュールや予算を話し合っている間も、家康の穏やかな声が耳をくすぐる。

自分をじっと見つめるあの深い瞳は、なにかもっと別のものを求めているかのようにも思える。


(仕事の話してるだけやのに…こんな気分になるなんて…)


思い返せば、初めて会ったときからこの妙な胸の高鳴りはあった。

家康の、あの淡々とした冷静さと底知れない狡猾さ。そして何より、その優しげな微笑み。

すべてが信長の中に、刺激と興奮をもたらしていた。


「織田さん…聞いてはります?」


「え? あ、ああ…聞いとるわ」


思わず意識が飛んでしまったところを家康に指摘され、信長はわざとらしく咳払いする。

自分らしくもない失態に、少し苛立ちすら覚える。


(あかん、完全にこいつにペース乱されとるやん…俺が“俺様”ってこと、ちゃんとわからせとかな)


そう決意し直して背筋を伸ばすが、家康はそれすら楽しんでいるように見えた。


「ほな、この提案内容で問題ないなら、正式に段取り進めますよ。わたしの上司にも報告せんとあきませんし」


「…ああ、ええで。それで頼むわ」


表面上は冷静にやり取りが続く。

だが、お互いの声の抑揚やちょっとした表情の変化に、ビジネスを超えた熱が織り交ぜられていることに二人とも気づいていた。


そして、ひと通りの話がまとまったところで、家康が手帳を閉じる。


「今日はそろそろお暇させてもらいますわ。これで失礼します」


「…ああ、そうか。じゃあ、改めて日程固まったら連絡する」


信長が立ち上がるのを見計らい、家康も応接室の扉へと向かう。

そして、ドアを開ける直前——

ふと振り返った家康が、意味ありげな笑みを信長に向けた。


「織田さん。ほんま、今後が楽しみやわ。

 わたし、もっとあんたの“本気”が見とうなってきてるんですよ」


「っ…」


家康の言葉が胸に突き刺さり、信長は思わず言葉を失う。

一瞬、何かを言い返そうと口を開くが、声が出ない。


そのまま家康は廊下へと去っていった。

ドアが閉じて静寂が戻ると、信長は大きく息を吐く。


(“本気”って…どういう意味や。ビジネスのことか、それとも…)


自問しても、自分の胸がどう答えを出しているのかわからない。

ただ確かなのは、このままではいられない、という危うさだった。


家康という存在が、どこまでも自分の心を侵食してくる。

その事実に、信長は戸惑いと同時に、奇妙な悦びを感じはじめていた。



家康が去った後の応接室に、しばらく静寂が降りた。

重苦しくはない。それでいて、どこか甘い余韻を残す空気。

それはまるで、嵐の前の不穏な静けさにも似ていた。


「はぁ…」


ソファに腰掛けたまま、信長は大きく息を吐く。

脳裏をよぎるのは、先ほど家康が残した言葉——「わたし、もっとあんたの“本気”が見とうなってきてるんですよ」。

あれが単なるビジネスの挑発なのか、それとも何か別の意味があるのか、判断しかねている自分がもどかしい。


(あいつ…絶対わかっとる。俺の心が乱れてるん、楽しんでるんちゃうか?)


強い悔しさが込み上げるが、その奥にある妙な高揚感を否定できない。

否定するどころか、その感情が静かに胸を熱くしている。


「織田様…大丈夫ですか?」


遠慮がちにドアを開けて顔を出したのは、森蘭丸だった。

秀吉と利家も後ろから覗いている。どうやらみんな、信長の様子を気にしてくれているらしい。


「別に…なんともないわ。ちょっと考えごとしてただけや」


言いながら立ち上がった信長は、まだ家康の残像を振り払えずにいた。

あまり長く余韻に浸っていれば、取り巻きにも妙な疑念を抱かれかねない。


「そ、それより仕事戻るぞ。武田との共同プロジェクト、具体的な社内調整に入るで。

 俺様がトップに立って指揮取らな話にならんからな」


強がるように言うと、蘭丸たちも「はい」と素直に頷く。

会社としては今、まさに大きな勝負所。

そして、信長自身にとっても、これ以上ないほど刺激的な局面が訪れようとしていた。



---


夕刻、信長は自分のデスクに戻り、共同プロジェクトの資料を改めて読み返していた。

家康と詰めた内容を踏まえれば、方向性はほぼ固まったも同然。

あとは社内調整をしっかり行い、義元や上杉謙信の了承を得れば、正式に動き出せるはずだった。


(親父の言う“警戒”はわからんでもない。あいつは手強い。

 けど、それを理由に引き下がるような俺様じゃないんや…)


むしろ、手強いからこそ燃える——

それが信長の性分だし、そして家康への不可解な惹かれを抑え込むためにも、

とにかく仕事で結果を出すしかないと思っていた。


そんな折、机上のスマホが振動し始める。

画面には“徳川家康”の名前。


「なんや、もう電話してくんのか…?」


内心、動揺を噛み殺しながら通話ボタンを押す。


「もしもし、織田やけど」


『ああ、織田さん。お疲れさんです。さっきはお邪魔しましたな』


相変わらずの穏やかな口調。それが余計に心をざわつかせる。


「…で、何の用や? もう契約内容に追加でもあんのか?」


『いえいえ、そんなんやおまへん。ちょっと、わたし個人としてお願いしたいことがありまして』


「個人的…?」


一瞬、嫌な予感と期待が同時に胸を衝く。

まさか、あの“本気”がどうとかいう話を、また持ち出すつもりなのか。


『今度、うちの取締役連中と顔合わせをする場を設けたい言うてましてな。

 織田さんも出席してもろたら、早う仲深められるんやないか思うんですが、どないです?』


「取締役連中との顔合わせ…まぁ、ええんやないか? そっちが勝手に決めるんやったら、俺様は構わへんけど」


言葉にこそ棘を含ませるものの、心中では家康と会う機会が増えることに対する複雑な嬉しさを感じていた。


『そないですか。ほな、近いうちに日程組んでまたご連絡しますわ。

 …ああ、せやけど、もしよろしければ、その前に織田さんとわたしだけで軽く打ち合わせ…なんてのはどうやろ』


「俺と…お前だけで?」


不意に息が詰まるような感覚。

二人きりでの打ち合わせなら、いくらでも理由はつけられる。

だが、それは本当に“仕事”だけの目的だろうか。


『ええ。共同プロジェクトがスタートする前に、トップ同士の“腹の探り合い”も大事ちゃいます?』


家康の声はどこまでも柔らかく、けれど挑発的でもある。

それを聞いて、信長の中の闘争心と妙な期待感が再び燃え上がる。


「…ふん。ほな、場所と時間を決めたら連絡よこせや。俺様も忙しいんやけど…まぁ、しゃあない、付き合ったるわ」


『助かりますわ。ほんじゃ、また連絡します』


通話が終わり、スマホを置いた信長は大きく息を吐いた。

仕事を理由に二人だけで会う——それはこれまでとは違う密接な空気を生むだろう。

どう転んでも波乱は避けられない。


(上等や…あいつがどこまで俺に踏み込んでくるのか、確かめたる)


己を奮い立たせるように心中でつぶやく。

だが、その“踏み込み”がビジネスの枠を越え、どこまでも甘く危険な領域へと誘っているなど、

このときの信長はまだ思い知る由もなかった。



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