第2話 タマゴタケ
Chapitre 2 タマゴタケ
奥寺隆之介は定休日の木曜、朝八時から五時間ほどかけて、鶏の
これがコンソメスープのもとになる。
血や内臓をきれいに掃除した鶏ガラと、香味野菜のポロねぎ、にんじん、玉ねぎ、セロリ、にんにくを、濁りのない琥珀色と香ばしさを引き出すことを目的にローストしてから、タイムやローリエなどのブーケガルニ、こしょうと一緒に煮だす。
材料を焼く温度や、煮だしている時の温度管理と、最初の
それは野菜作りにも共通する、と、隆之介は思う。
「うおっ。一週間で、こんなに雑草が!」
古民家レストランをぐるりと取りかこむわずかばかりの農地で、隆之介は菜園もはじめた。
新鮮な野菜はまわりからいつでも入手できるので、まったくの園芸初心者にもかかわらず隆之介は、アーティチョークやビーツ、フェンネルなど、手に入りにくい西洋野菜やハーブ類を、みずから育てはじめた。
「それ、どうやって食べんの?」
通りがかる農家のあとつぎたちが、ときには興味をしめして尋ねてくる。
「この西洋アザミなんかは、ゆでて、ディップにつけて、歯でしごいて食べるだけだっていいんだよ」
そう説明してみるが、日本じゃ
時には、いかにも好奇心の強そうな農家の奥さんが、隆之介に種をねだっていく。数ヶ月すると、みすぼらしい隆之介の作物に比べて格段上の、すぐにでも商品になりそうな作品を、「お手本よ」というように、持ってきてくれる。
くっそ、とは思うが、さすがプロ(のご伴侶さん?)。まいりました、と、隆之介はすなおに脱帽する。
店ではそういった農家の、まっとうな野菜を使うが、それでも隆之介は、雨の日以外、ひまさえあれば土いじりをする。
土に触れていると、自分の邪念を、土が吸収してくれるのがわかる。
それはフォンを作る時にも似ていた。
無心に、集中する。
ただひたすら、土やフォンの声に耳を傾ける。
当然、忙しいときは、野菜づくりやフォンづくりじたいがストレスになる時だってある。
それでも、三十二歳になった隆之介は、そのバランスをとることもできるようになった、と感じている。
フランスで、日本の都会で、感じることのなかった安らぎ。
少なくない割合で、人には、いくつかの恋愛の失敗経験があるんだろうな。ハルカを思うとき、隆之介は、そうやって自分の黒歴史を、なぐさめてみることがある。
十八歳で料理の世界へ飛び込んだ自分。
下積み時代が、辛くなかったといえば、まったくもって嘘になる。
右も左もわからない隆之介のような見習いは、シェフや先輩コックたちの邪魔や足手まといにならないよう、掃除や下準備やあとかたづけなど、言われたことをまずは愚直に、こなさなければならなかった。
調理器具の保管位置がちがったり、あつかう食器に清潔さが欠けていたりという、ちょっとした態度や気のゆるみに、怒声が飛ぶことなど日常茶飯の世界である。
一年もたたないうちにやめていく見習いも多いなか、自分が長い見習い期間を過ごしてこられたのは、なぜだったのだろう、と隆之介は考える。性格的な要因があったからかもしれないけれど、つまるところは楽しかったのかな、と思うのだ。料理が好きなのだ、それだけだ。
見習い先のレストランでは、先輩たちが、その場、その時、なにを望んでいるかが、先んじてわかるようになると、自分の立ちまわりが好転しはじめることを学んだ。
先輩たちの様子を肌で感じとりながら、客への目くばり、心くばりも怠らない。
そうすると、見習いである隆之介への信頼も、自然と上がっていった。
そのあたりからやっと、客へ出す料理にかかわらせてもらえるようになったのだ、と思いかえす。
センスは悪くなかったのだろう。だから先輩の幾人かは隆之介に、「これ、やってみる?」と、前菜やデザートなどの仕事も任せてくれるようになった。
ところが、なのだ。ようやく一歩前進したその大切な時期に、隆之介は失敗を犯してしまう。
先輩コックのひとりに、恋をしてしまったのだ。
その先輩は、仕事場では冷静に、どんなに忙しくても淡々と、仕事に向き合う男だった。
いっぽう休みの日など、みなで飲みに行ったりする機会には、料理にたいする思いを、熱く語る人でもあった。その情熱は、その人が試食やまかないに出す料理にもあらわれていた。
やさしいなぁ。
やさしいけど、深い、味。
隆之介はその先輩に憧れ、その憧れが、恋心にかわってしまったのである。
それからは、来る日も来る日も、職場で先輩を目で追うようになった。
隆之介のその異変を、当の先輩のみならず、他の先輩コックたちまでもが気づきはじめた。
厨房全体に困惑が漂った。
そして隆之介は、決定的なミスを犯してしまう。
今の隆之介なら絶対に考えられないような、初歩的なミス。
シェフが「フォンを」といったところ、先輩に気をとられていた隆之介は、「コンソメ」を、渡した―。
「おまえ、明日から当分、厨房へ入らなくていいから」
シェフは隆之介に、そう言い渡した。
何年もかかってコツコツ積みあげてきたものが、恋心によってあっけなく崩れてしまった瞬間だった。
その日を境に、隆之介は起き上がれなくなった。
そのまま引きこもってもおかしくはなかったが、三週間ほど寝込むと、残っていた力をふりしぼるようにして、レストランへ退職願いを出しに行った。
シェフは、隆之介が今までに見たこともないような、悲しそうな顔をした。
直後にワーキングホリディヴィザを取得し、アパートを引き払って、たったひとり、つてもなく、知り合いもいないフランスへと渡ったのは、二十二歳も終わりの頃だった。
シュウシュウと湧きたつ寸胴のなかの音を聞いていると、ちからが湧く、と隆之介は思う。
あのとき、引きこもらなかったのは、それまでの自分の身体のなかに蓄積されていた料理の力だ、と、今の隆之介には、はっきりわかる。
自分はそんな料理をつくりたい。
人に元気を与え、明日の活力となる料理を提供したい。
五感をくすぐる味や、必要とされる栄養素、そして食べた人たちの笑顔。それらを飽くことなく追っていきたい、と思うのだ。
積み上げてきたものは、ぜんぜん、崩れていなかった。
フランスのイヴリーヌで、レストランの下働きの仕事を見つけた時、見習い時代につちかった粘り強さや観察力、技術すべてが役にたった。
ことばには苦労したけれど、最初に入ったレストランは、日本のレストランよりも、すべてにおいておおざっぱで、几帳面に、ち密にものごとをすすめようとする隆之介は、重宝がられた。
そこが、パリを中心としたイル・ド・フランス地域圏であったことも、帰国したあとの隆之介の仕事に、少なからず良い影響をもたらした。
海なし地域のイル・ド・フランスのなかでも、イヴリーヌ県は、農村や森林が広がる場所だった。そして秋冬にはそこで、狩猟がさかんに行われていた。その土地でジビエ料理の基本を学べたことは、隆之介にとっての、ほかではなかなか経験できない、財産となったのだ。
それから二年近く経った頃、隆之介に生まれてはじめて、付き合う男性ができた。
さかのぼれば、自分が同性を意識しはじめたのは、小学校の高学年あたりではないかと、隆之介は思いかえす。
生まれ育った場所は、首都圏の、中心部よりもかなり離れた、いわゆる郊外といわれる土地だった。
「りゅうちゃん、クラスの中で、だぁれが好き?」
先んじて大人になる女子たちにこう問われ、半ズボン姿の隆之介は戸惑った。
そして、少し考えた末に、
「たすくちゃん」
と、答えた。
「仲良しのことじゃないの! 好きな子。好きな女の子だよ!」
好きな女の子…。
隆之介のこたえを待ちきれないで、女子たちは、いちょうやけやきの大木が、遠くに見えるのっぱらをかけ去って行く。
隆之介はひざを曲げ、両ももをぴったりとあわせた。股間がもぞもぞ
たすく、ってどんな子だったかな。女の子? いいや、男の子だった。美大にいった、と、ずっとあと、誰かから聞いたことがある。
たすくちゃんが好きだって言っていたら、どうなっていただろう。
女子たちや、いわんや、たすくちゃんはなんて言っただろう。
あのとき不安にかられて、その勢いでふり仰いだ空には、西の方角に雲がわいていたことを、うっすらと覚えている。
その郊外で中学、それから少し離れた、ちょっとだけ都会の高校で学生時代を過ごした隆之介は、男性と付き合う術など、身につけるすべもなかったし、いいな、と思っても、相手はノンケだった。
だから、渡った先のフランスでの体験は、ほんとうに新鮮だった。
そこでは、同性愛の男性が比較的わかりやすく、目につきやすかった。
ある人はきれいにお化粧をし、爪も美しく整えていた。ある人は、ぴったりしたジーンズをはき、腰をふるように歩いていた。
ただ、そういう人たちは隆之介にとって、うまく会話すらできない人たちのようにも思えた。
でもノーランは、ちょっと見、なんのへんてつもない、「ふつうの男の人」だったのだ。
今、現在、日本の村で、こうしてレストランを開いている自分にとってノーランは、いったいなにものだったのだろうかと、隆之介は反すうする。
彼に恋していたのだろうか。
いいや、ちがうな。たぶん、絶対といっていいほど、ちがう。
あれは明らかに、性愛だったのだろうな、と思う。手放せない調理道具のような。自分がはじめて性交した相手。
ノーランに最初に会ったのは、同僚三人ばかりと、レストランのオーナーに連れて行かれた狩場だった。
統計を見たことがないから正確ではないかもしれないけれど、隆之介自身が聞いた話によれば、フランスでは百人にひとりくらいが狩りをするという。
野生動物の肉が旨みを増す秋に、あちらこちらで、シカやイノシシなどの大型動物をターゲットにした狩猟の催しが行われている。
野生動物を調理するなら、いちから見ておいたほうがいい。そう、オーナーに命じられた記憶がある。
あの時、隆之介が見学者として入ったチームに、ノーランがいたのだった。
滞在許可の更新が一年ほど過ぎたころだったから、隆之介が二十四歳のおわり、そして七つ年上のノーランは、三十二歳のちょっと手前だったのだろう。
五十人ほどの参加者が、小さいチームに分けられた。隆之介のチームは、全部で七人だった。
自分と同じ班に、見慣れぬ東洋人が加わったとわかったメンバーは、まとまりを欠いたような、よそよそしい空気をかもしていた。
「おーい、なんだ。今日は大猟を狙うんじゃないのかぁ?」
ジャケットのボタンがはじけ飛びそうなくらいに、でっぷりと腹の突き出たオーナーが、快活に声をかけてきた。
「大丈夫。この東洋人は、狩猟免許も持っていないし、馬にも乗れない。だから安全な場所で待機させる。それから、ことばはわかるし、なかなか美味い料理も作る」
ほめているんだか、けなしているんだかわからない紹介に、五人が、安堵ともつかない表情を浮かべた感じが伝わる。
だけれどその時のノーランが、ほんとうに変わっていたのだ。
なぜだかというと、子どものような笑みを浮かべて、自身の立っていた場所でくるりと、一回転をしたのだから。
少々驚いた隆之介以外の五人が、見て見ないふりをするか、くちびるの端に軽蔑の念を浮かべたのを、隆之介は目の端でとらえていた。
さっぱりと刈られた栗色の髪に、青色と灰色が混ざったような瞳のノーランは、ほかの参加者と同じように、オレンジ色のジャケットを着て、右肩には猟銃をぶら下げている。
「さて、早いところ、配置につこうじゃないか。陽が高くあがっちまうよ」
どこからか、声が響く。
ひとりですたすたと、森へ向かって歩き出そうとするノーランを、目で追った隆之介のうしろで、ひそひそ話が交わされる。
「まいったなぁ。イノシシ以前に、流れ弾に気をつけるはめになったか」
「ノーランかぁ。腕は悪くないよ」
「いや、あの普段の落ち着きのなさ」
「それから、かんしゃく持ちだ」
「特性ってやつさ」
特性?
実際のところ、彼らのフランス語の半分も、正確に理解できていないのではなかろうか、という思いが、隆之介にはあった。
「危なっかしいやつに、銃はもたせるべきじゃない。ねえ。そう思わないか?」
「線引きは難しいところだねぇ」
別のグループに配置されていたレストランの同僚が、いつのまにか、背後に来て、ささやいた。
「まずもって、伯父がオーナーだし」
別のひとりが続ける。
「この私有地の持ち主も、主催者も、そのオーナーだから」
「一族そろって猟銃免許を持ってるってことが、彼にとってはアドバンテージだ」
「本人だって、審査試験には受かっているよ」
「まあ、能力があることは認める」
みなが、運は天まかせ、といったように、なんとなく脱力しはじめた。
「さぁて、行こうか」
「今まで彼に頭をぶち抜かれた奴はいないさ」
ノーランを追って、茂みの中へ分け入りながら彼らは、
「このなかの誰かが、第一号になるのはごめんだなあ」
などと、軽口をたたきあっていた。
狩りは苦手だな、と隆之介は今でも思う。
狩られた動物を解体し、調理し、食べることには、さほど抵抗がないのに、狩ることは慣れそうにない。
理由はよくわからないけれど、たぶん、狩られる側と自分を、重ね合わせてしまうのだろう。
狩りの最中ノーランは、落ちついていたようだった。
犬たちが茂みに入り、獲物を追い出す。先導役がホーンを吹き鳴らしている。かなたで銃声が響く。銃声の鳴った先では、ノーランに仕留められたシカが、秋の落葉の上に横たわっている。彼は正確に、頭を打ちぬいていた。どうだ、といわんばかりに、隆之介を見たノーランだったが、隆之介は知らん顔をした。
その日からノーランはときどき、隆之介の勤めるレストランに顔を出すようになった。
日中、ノーランがなんの仕事をしていたのかさえ、隆之介は、よく知らない。
うわさでは、フランス版シリコン・バレーで、IT会社のCEOをしているということだったが、もっともらしい話のようにも思えるし、もっともらしい嘘のようにも思えた。
レストランに来たノーランは、独特の風味があるジビエを好んで食べた。
手が足りない時にホールに出ざるを得なかった隆之介が見たのは、イノシシの煮込みを、皿まで舐めるんじゃないかと思うくらい、前かがみになって食べているノーランの姿だった。
そこそこきれいな風貌をしているのに、もったいないな、と隆之介は思った。
それから時には、厨房を、まさに、ひょっこりという態で覗いては、調理人たちに、
「この、IT長者! テーブルで、皿に顔でも突っ込んでろ!」
と、怒鳴られていたりした。
そんな罵声に臆することもなくノーランは、まるで子どものような笑顔をつくり、ウインクをして、テーブルに戻って行くのだ。
変わったやつ、なのかどうか、隆之介にはわからなかった。そんなおふざけが、ごく普通のフランス流なのかもしれないし。
そしてその変わったやつは、ある夜、裏口で隆之介の終業を、待ち伏せしていたのだった。
最初は自分が目的だとは思わなかった隆之介は、腕をつかまれて、事態が飲み込めた。
腕を振りほどこうと、一歩あとずさった隆之介に、ノーランは言った。
「ふたりで野うさぎ狩りに行こう」
そうだ。
あの日。
狩られるのは自分だとわかっていたのに。いや、わかっているからこそ、のこのこついて行ったのだ。
森に犬を放す。二頭の犬たちは喜んでそこいらを駆けまわる。
ノーランは猟銃を肩にぶらさげたまま、葉の落ちたカエデの木に、隆之介の背中を押しつけて、彼の口を吸う。
ズボンに入れられている隆之介のシャツをまくり上げ、胸をまさぐる。それからズボンを少しおろして、自分はしゃがんで、隆之介の性器を口に含む。
犬たちがもどって来ては、しっぽを振りながら、行為のまっただなかのノーランと隆之介のまわりを、ぐるぐる回る。
くちびるをはなすとノーランは、隆之介の性器を両手でしごいた。
「ううっ」
隆之介の短い叫び声と同時に、ノーランは隆之介の性器に、自分のハンカチをあてがった。
「同じことをしてくれないか?」
ノーランにそういわれた隆之介は、厨房でほめられている器用さで、応えた。
しゃがんで、ノーランの局部をくわえる隆之介の頬の横には、銃口があった。
「暴発したら死ぬんだろうか」
そんなことを考えながら、局所に舌をからませ続ける。
そのとき隆之介は、すぐそばの地面に、きのこが生えていることに気がついたのだった。
ギョッとするような朱色のかさに、黄色の柄。
毒きのこだな、と、横目でそれを眺めながら舌を動かしていた隆之介の口に、熱いものが一気に流れ込む。あわてた隆之介は、ごくりとそれを飲み込んだ。
口もとをぬぐった隆之介がもいちど見たそのきのこは、小首をかしげて、まるで彼を、嘲笑しているかのようだった。
一週間か二週間に一度、ノーランと性交することは、隆之介の、待ち遠しいご褒美のようになった。
日本での
その当時、自分はノーランの人となりなど、見ていなかったのではないか、と隆之介は思いかえす。ただただセックスがしたかったのだ。
誘われた日には、犬のように尾尻をふって、ノーランのアパルトマンの鉄格子のようなエレベーターに乗り込む。シャワーを浴びる時間も惜しむように、バスルームで性交がはじまることもしばしばだった。
そんなことを続けて半年くらいたったころだろうか。しっぺ返しがきた。
なにに対するしっぺ返しか、と問われれば、たぶん、そんな快楽に身をまかせていた自分へのいましめ、と答えるしかない。
ヴァカンスに向かう人々の数が増えるのと比例して、レストランには多少暇な時間が増える夏だった。仕事を終えた隆之介は、抑えられない性欲を感じて、連絡もせずに、ノーランのアパルトマンへ向かったのだ。
ところがその日は、いつもきちんと閉まっている玄関ドアが、ラッチの部分で半開きになったままだった。
ノブに手をかけ、隆之介は静かに部屋に入り込んだ。そしてすぐに後悔した。ドアの閉じられたノーランの部屋には、ノーランと、明らかに別の誰かがいた。
ふたりは、ノーランと隆之介がいつもするような行為を行っていた。
うめき声があえぎ声にかわり、それにつれてベッドのきしむ音が、次第に大きくなっていく。それからこんな会話が聞こえてきた。
「きみの東洋人趣味もいい加減、飽きがきたころじゃないかと思ってさ」
そんなことはない、とノーランは即座に否定した。
「でもさ、こうやってぼくを呼ぶようじゃ、白い肌が恋しくなったんだろ」
相手が言っているのが聞こえた。
「きみの好きな狩りと同じ。あっちの獲物、こっちの獲物に目をつけちゃ、狩って」
「狩りなんか、好きじゃないよ」
「へええ。それはまた。しょっちゅう鉄砲ぶらさげて発砲しているきみが?」
「嫌いだよ。音は大きいし、我慢ができない。気がおかしくなりそうだ」
相手の男は黙っている。
「だけど、そうしなきゃいけないように、勝手にそうしてしまうんだよ」
沈黙があった。
「いつもね」
ノーランのつぶやきだった。
「ときどき、頭の中に、一面の、あれは、なんだろう。アマンドだろうか。それともペッシュなんだろうか。白とピンクの一面のじゅうたんが…」
彼らが一度、くちびるを合わせている音が聞こえる。
「その光景が脳裏にあらわれると、手を伸ばしたい、追いかけたい、という欲求で、自分でもどうしたらいいかわからないくらい、多動になってしまうんだよ」
抽象的すぎてわからないや。
隆之介は立ちつくした。
ところが相手の男は、いくぶん慈しみを込めて、こう応えた。
「きみも、大変だね、いろいろと」
それからまた、ベッドがギシギシいった。
隆之介はいたたまれなくなった。足音を消しながら、ようやく玄関までたどり着き、それからつんのめるように、表通りへ出た。
日本に帰る時期が来たのだと思った。ごはんと味噌汁が食べたいと、切に思った。
日本に戻った隆之介は、いくつかの店をわたりあるき、最後に勤めた小さなレストランでは、シェフに次ぐスー・シェフを任された。
そして転機がきた。
二十九歳になった頃、母方の祖父が亡くなったと連絡が入ったのだ。田舎の村で、叔母の家族に見守られながら、晩年までひとり暮らしをし、できる範囲で農業を営んでいた祖父。
葬儀が済み、母と叔母は、残された生家を売却しようと相談しあった。今ではどちらにも持ち家があるし、使いようもないし、と。それが、今、隆之介がレストランを開いているこの古民家だった。野菜を育てている農地も、祖父からの土地だ。
あれから四年。
決心するまでに、いろいろと調べてみたらここは、人口推計において日本では珍しく、半世紀で十パーセント以上の人口増加が見込める村であった。
期限付きだが、「グローバル研究支援校」に指定された大学の農学部があることと、冷鉄泉だが温泉施設があること、そして避暑に適したこの地に、別荘エリアが整備されていることが要因だった。となり町には総合病院もある。幼稚園から大学院まである村には、都市部からの移住者もやって来ていた。
「ワンルームは、少ないんだよねえ」
不動産屋でそう言われる学生たちの多くは、アパートや借家がある隣接の町々に居住しているが、住むところさえ確保できれば、この先、実質「村人」のうちにカウントされるのだろう。
祖父の古民家は、大学へ行く道と、別荘地へ行く道の交差地点にある。地理的に大学は村の中心にあるが、古民家とて、そんなに離れた場所にあるというわけでもない。
「コーヒーだけなんだけど、大丈夫?」
大学関係者や別荘地の住民が、散歩やジョギング中に、飲み物一杯で立ち寄ることを、隆之介は拒まないどころか、歓迎した。
そういう細やかな店の営業とは別に、隆之介は、村の土建業を仕切っている叔母の夫に付き添ってもらい、ことあるごとに村の有力者たちにごきげんうかがいをする。
「このまわりを全部、草刈りすればいいんですね」
「ほんとに助かるわぁ、若い人がいると」
などと言われながら、あつかい慣れない
田舎暮らしが、自由気ままで別天地、などというのは、都会人の幻想でしかない。なにかのきっかけで一度はじかれてしまえば、生きることにも窮するのが田舎暮らしだ。
だから、Iターン者として、村のために自分ができることはよろこんでやります、という姿勢を見せておくことも、隆之介は忘れなかった。
そうこうしてはじめて、祖父の時代のおばあちゃん、おばちゃんたちが、気軽にレストランに寄っては、
「ほれ、こごみ」
「こっちは、タラの芽」
と言って、山菜を置いていくようになる。それをフランス料理風に仕立てて、おかえしに彼女たちにふるまう。彼女たちの評価は、口コミサイトよりもてきめんで、だから感染症が流行る時期も、都会から避難してきた別荘のオーナーたちや、地元の人たちで、レストランはにぎわうのである。
隆之介が村に根ざそうと奮闘して二年半ほどが過ぎたころ、桃生ハルカが着任した。
彼との出会いは今でも忘れられない。
あれは暑さの残る九月だった。
ランチとディナーの仕込みを終え、朝の散歩に出かけた隆之介は、路傍に、朱色のきのこが五、六本かたまって生えているのを見つけたのだ。
あの時見たきのこ。
ノーランの銃口の先にあったきのこ。
隆之介はいちど身ぶるいをしてから、きのこに近寄った。
間違いない。
たまごの殻のような根元の白い袋から、光沢のある、オレンジと赤が混ざったような朱色のかさが、黄色の柄にささえられて伸びている。
「なんでこいつがここに」
隆之介は吐き気をもよおした。こんなきのこが目の前にあるのが煩わしくて、踏みつぶそうか、それとも蹴飛ばそうかと、右足をあげたときだった。
「おおーいっ、やーめろーっ」
という叫び声がする。振り向いた先に、黒い丸メガネをかけ、きのこ型の髪をなびかせた男が、自転車で坂道を、猛烈な勢いでくだってくる姿があった。
白いTシャツに灰色のカーゴパンツをはき、編み上げのブーツでペダルをこぐ男は、隆之介の前まで来ると、乗っていた自転車を放り投げ、彼に頭突きをかました、というような気が、隆之介には、した。
あくまでも体感。
実際に頭突きはされなかったし、驚いた隆之介が、三十センチほどよろけたというだけだったのだが。
目の前まで来た男は言った。
「あなた、なにをしようとしてた?」
目をしばたたかせている隆之介の前で、男はかがむと、まさにきのこに話しかけたのだ。
「あ~、危なかったなぁ。ごめんよぉ。今日は早くに来られなくてぇ」
そして隆之介に向くと言った。
「あなた、ここまで条件がそろって、みごとに子実体になった胞子との、限られた貴重な出会いを、簡単に踏みつぶすんですか?」
「???」
「まず、条件の満たされた一核菌糸が、交配可能な別の性質の菌糸に出会って、互いに接合し、細胞内に二つの核を持ったニ核菌糸になるわけですから」
な、なんのこっちゃ? 隆之介がそう考えている間に、男は続けた。
「そもそもそうならなければ、目に見えるきのこになりさえしないんですからね!」
男はきのこを見おろしながらしばしたたずんだ。それから顔をあげると言った。
「
隆之介はおどろいた。これがタマゴタケ? ヨーロッパでは「皇帝のきのこ」と呼ばれ、珍重されている? 自分が見た、あれ、そうだったのか?
「ヨーロッパのものは、セイヨウタマゴタケといって、日本のものとは異なります。でも同じようにどちらも美味しい。ちなみに、皇帝クラウディウスを殺したのは、セイヨウタマゴタケではなく、タマゴテングタケだったのではないか、というのが通説です」
と言いながら男は、学名や、両者の違いをこと細かに述べたが、「日本に生えているものは、
「このタマゴタケも、特定の樹木と関係を作って生きている
キンコンキン?
隆之介の頭のなかに、鐘の音が響く。
なんだかよくわからないなりに、男のはなしをまとめると、樹木の劣化や環境の変化に、きのこがどう影響を受けるか、長期スパンで、定点観測調査を始めたばかりだということであった。
きのこのある種類は、それぞれが樹木と関係を作るため、なわばりがある。そのため、標高などにてらしていくつかのサンプル種を決め、それを数年、あるいは数十年かけて追う計画なのだそうだ。
ゲノム解析とか遺伝子、という単語が出はじめたあたりで、隆之介の頭は、白くなっていった。
そんな隆之介を察してか、男は地面にかがむと、彼の髪型と同じ形をした、朱色にてりてりと輝くタマゴタケを一本、それから、かさが七分ほど開いたものも一本、どちらも左右にやさしく振り、白い殻の部分をのこして、そっと手折ると、隆之介の目の前に差し出した。
「食べてみます?」
隆之介はちょっと躊躇した。こんな毒々しい、白雪姫か眠り姫が食べてこん睡するようなきのこ、本当に大丈夫なんだろうか。
「ど、どうやって食べるんですか?」
「どうとでも。和風、洋風、中華風、くふう次第でなんにでも合います」
と、言ってから男は、肩をすくめて、しまった、というような顔をした。
「申しおくれました、わたし」
男は自転車のかごに入れてあるかばんから、名刺を取り出した。なんのへんてつもない、白地に横書きで漢字とローマ字が印字された名刺だった。
「この歳になっても、常識がないと、よく言われます」
男はAIロボットが、銀行員かなにかを真似て動くように、名刺を両手で差し出した。
隆之介が目をこらすと、名前の上に、「農学博士」、と印刷されているのが見えた。
「あっ、はい。ごていねいに、どうも…」
隆之介は、しどろもどろしながら、自分も名乗るべきなのか、名刺に印字された「桃」という字を凝視しながら、口をもごもごさせた。
「見守ってやってください」
不意にそう言われて、隆之介は顔をあげた。
見守るって、なにを?
きのこを?
それとも?
ぽかんと口を開けた隆之介にきのこを手渡すと男は、自転車にまたがり、風の又三郎ように去っていった。
村にある大学の准教授、桃生ハルカ。
彼が借りている民家が、別荘地エリアの手前にあることは、あとで知った。あれは確か、猟友会の会長の持ち物だ。孫のために建てたらしいが、当の孫はこんなド田舎を嫌ってさっさと都会に出てしまった、と聞いたことがある。
現代風の、おそらく中二階があるんだろうなと思わせる大屋根の、そんなに大きくはない平屋。なんでここまであの男にぴったりくるんだろうという、濃い灰色のファインカットログハウス。そこから毎朝彼は自転車に乗って、隆之介のレストランの前を通り、大学へ向かうのだった。
手渡されたきのこを、隆之介は帰ってすぐに、スープにしてみた。ひとくち飲んで驚いた。確かに、なににでも合いそうな旨みが、口の中に広がる。こんなに美味いきのこを、踏みつけようとしていた自分に腹が立ったくらいだ。
タマゴタケ。
あの、暗く寒々しいモノクロームの風景が、生命の躍動する、みずみずしい色に塗りかえられた瞬間であった。
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