ファンガス ファンズ ‐一核菌糸の恋人たち‐

珠野 休日

第1話 アミガサタケ


 ふかふかの、白い掛け布団から首を出して、おかっぱ頭の男の子は左手を伸ばした。

「ママン、ぼく、へんなんなっちゃったよ」

「へんなになるって、どういうこと? ハルカ」

「なんだかね、へんなの。人間じゃないの。そんな気がするの。ぼくはなにになっちゃったのかな」

「まあ」

 そうだ。昨日パルクでシャンピニョンに顔を近づけすぎちゃったので、鼻と口に、粉がたくさん入ってきちゃったせいかな。

 白いツクリタケのまわりには、シロツメクサの花がたくさん咲いていて、きのこなのか花なのかわからないから、鼻がくっつくくらい近寄っちゃったんだ。

 ママン、ごめんね。ぼく、きのこになっちゃって。

 そう思ったところで男は目を覚ました。

 甲羅こうら屋根の天窓から、朝のひかりが差し込んでくる。

 泣いていたんじゃないだろうか。

 男は右手の指先で、自分の左頬を探ってみた。頬はつべつべとなめらかだったけれど、濡れてはいなかった。

 ああ。そうか。

 もう、月は、なんかいも、数えきれないくらい夜空を照らしたのだ。

 男は、吹きぬけの中二階に敷かれたふとんから這い出て、ちいさく息を吐いた。それから全身でいっかい大きく伸びをして、バスローブをまとうと、床に放ってあった下着と靴下を手に持って、無垢材むくざいの階段で一階へと降りた。



 Chapitre 1  アミガサタケ


「シェフうう、たいへん、たいへん!」

 ビストロ奥寺おくでらの古民家の引き戸をぶち破る勢いで、天童てんどうみもざが、頭を丸めたウサギのように飛び込んでくる。

 どうしたって色気のかけらも感じられない。

 ざぁんざぁんばーらばーらショートヘアー。

 なんか歌いたくなっちゃうな。そう思いながら顔をあげない奥寺隆之介おくでらりゅうのすけの耳に顔を近づけて、大学生のみもざは「大変だいッ」、をふたたびがなる。

 こまく破れるじゃんか! きみは、「てえへんだ、てえへんだ」のおかっぴきか?

「ドクター・モノーに、懲戒処分のはなしが持ちあがっているッ!」

 隆之介はこの時はじめて、顔をあげた。

「ちょう?」

 自身が漏らした奇妙な声に驚いて隆之介は、にぎっていた包丁で、左手中指の第一関節を、ざっくりと切り落としそうになる。

「どういうこと?」

 店の従業員で姉の天童さくらが、厨房から身をよじるようにして、ホールへ出てくる。

「ヒマな学生がさぁ、見つけたんだよぅ。コレ」

 みもざが姉の鼻先へ、握っている通信機器を押しつける。

 手の角度をかえると、中の画像が、はっきり見えるようになってきた。

 隆之介とさくら、そしてさくらの後ろから、若いコックの梨田(なしだ)くんまでもが、スマートフォンをのぞき込む。

 ひいっ。隆之介が短くうめく。

「こ、これ、も、も、桃生ものう先生?」

 隆之介は、左手指を口にあて、ちょっと震える声でみもざに尋ねる。

 そうですよ! と断言口調でみもざはスマホをスワイプし続ける。

「くっ、ポルノぉ」

 姉のさくらはうれしそうに笑って、隆之介の肩に手をかける。

 局部がかろうじてさらされていないだけで、ほとんど全裸の桃生ハルカの、ポートレートのような写真が七枚、全世界に向けて公開されている。

「こ、これ、自撮り?」

「ううん、それは違うらしいんです、シェフ。ポルノはポルノでも、リベンジポルノ!」

 卒倒しかかっている隆之介を、みもざがせかす。

「シェフ、フランス語できるでしょ? この英語読んでください」

「言ってることわからない。フランス語はちょっとだけできるけど、英語はぜんぜんできない」

 みもざの言うところを要約すると、この村にある大学の農学部の准教授、桃生ハルカに対するリベンジポルノらしきものが、ネット上で展開されていることが知れ渡り、学内で騒ぎになっているという。

 英語で書かれたその失恋リベンジは、笑ってしまうくらいに切実な内容らしく、こちらもかいつまんで翻訳すると、次のようになる。

「きのこ野郎! わたしのきのこは放りっぱなしなのに、どうして野生のきのこやシャーレの上のきのことは毎日毎日、ち×こをくっつけあって仲良ししているんだ!」とか、「ハルカ、きみのきのこを毎晩夢に見て、気が狂いそうだ!」とか、とにかく「きのこ」の連発、連射だったので、現況、学生たちの夢にまでも、きのこがもこもこ生えまくりちゅうらしい。

「相手は誰なのっ。どこの国のやろうなの!」

「わかりませんっ。ドメインからしてフランスらしいって!」

 ひどくめまいがしてきた隆之介の背後で、コックの梨田くんが、

「それにしてもきれいですよね」

と、冷静に言う。

「ぼく、こんなに筋肉がはっきりあらわれないし、たぶん尻も、これほど引き締まってないと思うんですよね」

「はあ? 今、我が身ふり返ってなんの意味が?」

 さくらが突っ込む。

 ううっ。小さくうめきながら隆之介は、足もとに視線を落とす。

 そうやって夜な夜な、この騒動を知った連中は桃生ハルカの肉体美をのぞくのか、おれみたいに、と隆之介は悲しいやら、嬉しいやらで、複雑な気持ちになった。


 パーティでかぶるような三角帽子のかさは、凹凸であみあみだ。だからアミガサタケである。フランス語では「モリーィユ」と呼ぶ。

 中が空洞のアミガサタケは、一見ホルモン料理で使う牛のハチノスのような、不気味ともいえる形状だが、世界の多くの地域で食されているきのこである。

 隆之介はそのアミガサタケの、かさの下についている柄の石づき部分から、イタリア米として知られるカルナローリ米を、生のまま流し込む。

 このアミガサタケを今朝がた、十六個、カウンターの上に置いた天童みもざは、

「六名、夜七時の予約で!」

と言い残し、授業へ向かっていった。

 准教授桃生ハルカと、農学部のお金のない学生五名のための、カジュアルなフレンチコースの要望である。

 サラダとスープでスタートして、魚料理ポワソンとシャーベットは省き、肉料理アントレとデザート。そしてパンとライスは多めにつける。

 はいはい、みもざさま、なんなりとお申しつけを。あなたさまは大切な、わたくしめの情報源でございますので。

 ふんふん、と鼻歌が出そうになり、さくらやコックの梨田くんに聞きつけられていないかと、隆之介はうしろを振りかえる。

 梨田くんは茹でた玉ねぎとじゃがいも、三種のきのこを裏ごし器でしており、さくらは、サラダ用のリーフとフェンネルの根元部分を、水ですすいでいた。

 三日前、大学帰りのみもざが持ってきた、リベンジポルノに関する倫理面からの懲戒処分の後日談は、さくらと梨田くんを、イナバウアーくらいにのけぞらせたし、隆之介の脳内では、ルネサンス絵画で描かれるようなキュートな天使たちが、はたはたとはばたいた。

 調査会までにはすでに、桃生ハルカの素の姿に魅了された多くの学生と教員の一部が、モノー擁護にまわっていたが、本人はそんなことはどこ吹く風で、学生たちも隆之介も、そんなハルカが大学を辞めさせられるのではないかと、気をもんだ。

 本人が呼び出された調査会でのやりとりがケッサクだったと、同席した大学の事務長が事務員たちにひそかに耳打ちし、それがまた一気に拡散してしまったのだと、みもざはその場にいたかのように、詳細を伝えた。

「モノーくん、ここにあるとおり、きみは、研究対象の菌類に、その、きみの、ちん…、ええっと、局部をくっつけているというのは本当ですか?」

 懲戒委員をつとめる教授のひとりが問いただした。

「そんなこと、事実であるわけがないでしょう!」

 桃生ハルカはきっぱりと言い切って、続けた。

「わたしとしては、そうできれば本望ほんもうですが、菌類のほうがそんなことは、これっぽっちも望んでおらず!」

 桃生准教授を取り囲んでいる七、八人の出席者全員が、いっせいに下を向いた。唇をかみ、吹き出さないように、一生懸命こらえている。

「ここにある七枚の写真はすべて、あなたということでよろしいですか」

「はい、それはわたしです」

「どうしてこのような事態になったのですか?」

「まったくわかりません。十年近くも前のことなんじゃないですか? とにかくしつこい男でした。ヨーロッパの菌類について尋ねただけで、彼氏、とか、恋人、などとは一度も思ったことないのに」

「あ、相手は、お、男なんですか?」

 列席者全員が上目づかいで、おそるおそるモノーを見上げる。

「ど、どちらにせよ、ストーカー、ということで?」

 懲戒委員の別のひとりが、どういう表情をしていいかわからないというように、複雑な笑いを浮かべて尋ねた。

 桃生ハルカは、ふんっ、と鼻をならして言った。

「なんだったんだ、あいつ。西洋人だからといって特別視されているとでも思っているのだろうか。おまけにこのコメントの醜悪なこと。すべての子実体きのこと全菌類に詫びを入れてほしいと、わたしはいきどおっています」

「で、でも、全裸、ということは、ええと…、か、関係を持った、ということですよね」

「持ちませんよ!」

「では、なぜ全裸の写真が」

「きのこの季節にわたしは居室では全裸ですよ! きのこが服着てますか? 自分の家で全裸でいることのなにが悪い!」

 委員の二人ほどが、手やハンカチで口を押さえて会議室の外に飛び出した。ひとりは階段で、ひとりはエレベーターの近くで、悶絶もんぜつしていたということだった。

「そ、それではあなたは被害者だったということで?」

 委員たちは口々に、被害届を出したほうがいい、とか、事業者に削除要請をしなさいとアドバイスをした。

「被害者がそれをしなければならないなんて、世の中どうかしている! なにも悪いことをしていないのに。アホ相手に時間をつぶすなんて!」

 結局、そんなことに動じる器じゃなかったんだよ、ドクター・モノーは、と、みもざは言った。

 そうなんだよ、みもざちゃん。わたしも同感です、と、隆之介はこぶしを握る。

「菌類に対する愛」はハンパないし、その愛が熱量となって、授業中、学生たちにもびんびんと伝わってくるんだよ。そう言ってみもざは、桃生ハルカのものまねをする。

「きみたちぃ。短い人生のなかでいったいどこのなにを見ているの。足元をよおーく見てね! 目の前に見えていないからと言って、その世界がないとでも思ったら大間違いだよ。きのこは子実体といって、植物に例えれば花です。じゃあ、本体はなんですかといえば、おもに土のなか、何千年単位ではりめぐらされた、菌糸の世界を指しますよっ!」

 そこから、生物を分ける五大体系の菌界きんかいが、昆虫に次いで地球上で二番目に多様な生物群にもかかわらず、まっとうな評価を得ていないと、ハルカはせつせつと訴えるそうである。

 ほんとに、愛だ。

 だって、見てよ。今夜のアミガサタケだって、たかだが十八やはたちの学生たちが、ドクター・モノーの指導のもと、人工栽培したもんだよ。すごいじゃないか。

 日本では近年になって栽培技術が確立されたアミガサタケだ。

 二重培地を作ったり、炭素源を供給する栄養袋を置いたり、温度と湿度管理をいろいろと試行錯誤する。

 そう考えると、ここにあるアミガサタケすべてがハルカの子どものように思えて、隆之介はほおずりをしたくなる。

 ポタージュの下ごしらえができました、と、梨田くんが声をかけてくる。

 オッケー、とこたえて隆之介が、仲良く並んだアミガサタケの浸るブイヨンの手鍋を握ったとき、ちりん、とドアベルの音がした。

 古民家の、かつては土間だった入口の引き戸が引かれ、こんばんはーと、学生たちがはいってくる。

 カウンター越しに引き戸のほうを見ると、六人隊列の最後尾の、いちばん背の高いハルカが、厨房に背を向けて、戸を閉めている姿が見えた。

 水のついた手を前かけでぬぐったさくらが、いらっしゃいませぇ、とホールに出ていく。

「シェフ、こんばんは。本日はアミガサタケがお世話になってまーす」

 厨房をのぞいて、みもざがへらっと笑う。そのうしろで、ハルカが身体を傾けて、

「お世話になります」

と、真顔で隆之介にあいさつをする。

 隆之介は瞬間、自分の顔が赤くなったんじゃないかと心配になった。目のまえに、あのネット上の画像がチラついた。口もとがゆるみそうになるのをこらえて隆之介も、まじめくさった顔で、いらっしゃいませ、と返した。

 なんびとも、いちど会ったら忘れられないんじゃないかなあ、と隆之介は思う。

人は呼ぶ、ドクター・モノーと。

 つやつやとしたマッシュルームカットのインパクトの強さに加え、かけているメガネのまん丸いこと。そのメガネが、野外活動時には黒の色つきになる。

 季節がら、今は、だぶだぶとした、後ろから見るとこうもりのような、これも黒く古びたコートを羽織っている。足もとは、土がつきっぱなしの編み上げブーツ。

 そういういでたちで、畑のまわりや農道をウロウロするものだから、以前は、おびえた農家のおじいさん、おばあさんたちから、不審者出没の通報がたびたび、地元警察に入ったらしかった。

 梨田くんが、温めておいた白いスープ皿を六つ、作業台の上に並べている。その反対側から、コックコートの袖をまくり、白くて長めの前掛けをした隆之介が、皿の中央にまず、ブイヨンで炊いた、だれが見ても不気味なきのこをひとつずつ置く。そこに、香りいっぱいの三種のきのこのポタージュをそそぎ、アミガサタケをもうひとつ、初めにのせたものの上に交差するように寝かせる。最後に茹でたそら豆を散らして、

「うん。さくらくん、出そうか」

と、隆之介は声がけをした。

 美味しくて、栄養のあるものを食べてほしい、と隆之介は願う。幸せな一皿を、ハルカさんに。

「わぁおゥっ。あたしたちのあみがっさーが!」

「きゃっふーっ。なんか詰まってる。米? いい匂い」

 テーブルで感嘆の声が上がる。

 五月の古民家レストランに、遅い春の山桜の花びらが、ときおりどこからかひらひらと舞ってくる。

 築九十六年のビストロは、片側一車線の道路が交差する十字路の北側に建っている。上空から眺めれば、そこだけにしか明かりがないような田舎路。むかいはガソリンスタンドだが、この時間にはとっくに閉店のチェーンがかけられている。人家はおたがい、二百メートルずつは離れているだろうか。家々のうしろ側には、杉林や田畑が広がっている。

「隆之介シェフ、さぁすが器用。中指くらいの長さのものにも、きれいにイタリア米が詰まってるぅ」

 専用につけられたナイフで、三角帽子を半分に割っていた天童みもざが、いっちょまえに大人をほめる。

 あむっと口に入れたきのこは、なかのコメがもちもちに炊けたイカめしふうで、ポタージュとからまり、舌の上を滑らかに転がる。

「どうだい、美味いだろ」

 テーブルの横に立ったさくらが、自分の手柄とでもいうように、えっへんと胸を張る。

「ブイヨンとクリーム、いいとこどりの、スゥープ オ シャォンピニョンでございッ」

 それを受けてか、静かに赤ワインを楽しんでいた桃生ハルカが、

「アミガサの 胞子は春を 運びけり」

と、いきなり俳人になった。

 学生たちはその、俳句の先生に喝をくらいそうな、なんちゃって作品を完全に無視して、野生のアミガサタケの研究手順について、胞子の高速度ビデオカメラ撮影はだれそれの役割、とか、気象と発生量は必ずチェックね、とか、はなしあっている。

 隆之介はハルカにちょっと同情しながら、確かに春が来た、と思った。

 アミガサタケは、季節がいきいきと躍動しはじめる合図を担うきのこだ。だからサラダは「春が来た」風にと、エディブルフラワーを散らしていたときだった。

 学生たちの前に入ったディナー二組とあわせて、今晩四回目のちりりんが鳴った。  学生の数人が、なんとはなしに戸口に目をやる。

 現れたのは、品の良いシルバーのコートに身を包んだ、三十代なかばとみられる女性だった。

 さくらが、

「いらっしゃいませ」

と、すぐさま反応する。そして、ああ、見知った顔だ、というように、隆之介のいる厨房を振りかえった。

 いちど顔をあげた隆之介は、鴨のむね肉料理のソースの具合確認のために、ふたたび視線を落とす。

 さくらは客の名前を思い出そうとしていたようだったが、出てこずじまいで、とりつくろうように、学生たちが座っている八人がけテーブルから二席とばした、窓際の端の席へ、女性客を案内しようとした。

 ペーパーで手をぬぐった隆之介が、ホールへ出た。

「いらっしゃいませ、中尾なかお様。お久しぶりです」

 厨房に下がったさくらは、そうだ、中尾さんだった、と小声でひとりごちた。たしか中尾久仁子なかおくにこ。予約が入った時に何回もメモした覚えのある名前で、さくらは数回、彼女の別荘にデリバリーしたこともある。でかい別荘に、別世界の住人だわなと思ったよ、と、隆之介がやり残した花を散らす作業に入りながらさくらは、梨田くんにささやいた。

「ゴールデンウィークあとに、めずらしいですね。今日は旦那さまと?」

 そう言って隆之介は、奥の落ち着いたテーブルに久仁子を案内しようとした。

「いいえ。わたしひとり。夫は…」と言いかけて、中尾久仁子はしばらく沈黙し、

「少し、静かにしたくて」

と、風貌に似つかわしくない、ちょっと厳しい顔をした。

 学生の横を通った時、久仁子は彼らの皿に目を止めて、驚いたように隆之介に振り向いた。

「モリーユを出してらっしゃるの?」

 テーブルの面々もしげしげと久仁子を見つめた。「モリーユ」を知っているなんて。このひと、ツウ? そんな空気が隆之介に伝わってきた。

「特別です。こちらのテーブルの学生さんたちが栽培したもので」

「ええっ。栽培? 学生さんたちが? すごいわね」

 久仁子の素直な反応に、学生たちは照れてもじもじし始めた。

「なつかしいわ。わたしもフランスでよく、いただいたものだから」

 表情を明るくして、あごのしたに右手を添えた女性に、学生たちは「おフランス」の香りをかぎ、気おくれしたように沈黙したが、その沈黙を破ったのは桃生ハルカだった。

「よろしければ召し上がりませんか?」

 そう言った男の、きのこの傘のような頭に驚いて、久仁子はしばし口をきけなかった。だから隆之介が助け舟を出すように続けた。

「あ、そうそう。まだ四本あまっているので、乾燥にしようと思っていたところです」

 久仁子はようやっと口を動かした。

「よろしいの?」

「生なので、イタリアンでもよかったら、パスタにしましょうか?」

「すごく、嬉しいわ」

「メインとお飲み物はいかがしましょう」

「お酒は駄目なの。車なので」

 学生たちが窓の外を見る。先ほどまではなかった、いかにも頑丈そうな白い外車が一台止まっている。都心のナンバープレートだ。

「メインはお任せします。今日は量的にも、それくらいで」

と言ってから、やっぱりここで頼るはビストロ奥寺だわ、と少しくたびれたような顔に笑みを浮かべた。

 梨田くんが、ぼくがやりましょうと、白エプロンのひもを締めなおした。

 八人がけのテーブルには、口なおしを兼ねたサラダに続いて、メインが出される段となる。

「めずらしい。オーナーが配膳はいぜんしてくれるの?」

 人数分の鴨のコンフィと、大皿に盛ったマグレ・ド・カナールを、卓上に給仕しはじめた隆之介に、みもざが少し驚いたように言った。

 窓側の席から順に皿が出される。

 じっくりとローストした鴨のコンフィには、昨年の秋、ドクター・モノーに分けてもらい乾燥させて保存しておいたアンズタケのソテーを添える。ポテトには、輸入品だけれど黒トリュフを混ぜてある。

 学生たちの瞳の輝きが半端じゃなく、机にまぶしく反射しそうだったので、一瞬目を閉じた隆之介の配膳の手が、テーブルの上に置かれていた桃生ハルカの手に、わずかに触れた。

 料理と、ハルカの、なんだかかぐわしい香りに、皿を落っことすんじゃないかという感覚に襲われたが、まわりからは、隆之介が普通に配膳しているとしか見えていないらしい。

 テーブルのまん中に置かれたマグレ・ド・カナールには、ドロッとしたソースがかかっている。

「鴨、全部使ってるんですね」

 さすがだな、ハルカさん。レバーも肺も、あますところなく使って仕上げたソースがわかるんだ。

「この鴨、板室いたむろくんの?」

「あ、はい。そうです。彼が仕留めたもの。冷凍保存ですけど、残念ながら。狩猟期間が終わってしまったもので」

 ハルカの口から板室伸二いたむろしんじの名前が出てきたことに、隆之介はちょっと驚いた。伸二に対してなにかしらの感情があるのかしらん。それを読みとりたくて、隆之介は背後からハルカの横顔を盗み見た。彼の表情は変わらなくて、なにを考えているのかは、まったくわからないや、と隆之介は思った。


「良かったですねえ、シェフ」

 ふきんを漂白し終えたさくらが流し目、アヒル口で、隆之介を見る。隆之介はとぼけて、

「なにが?」

と、あさってを向く。梨田くんが、お先に失礼しまーす、と引き戸を閉める。先日、さくらとふたりで仕込みをしていた時、彼女はこんなことを言った。

「あたしねえ、もしシェフが異性愛者ノンケだったら、惚れてたかな、って考えたことがあるんですよ」

 そのとき隆之介は動揺して、ハデにおたまを落とした。

「でも、それはないな、って、自分で即答しちゃった。うはははは」

 こいつ、いったいどこで、と考えて思い当たった。絶対に、レシピノートの中に挟まっていたノーランとの写真だ。先日、レシピノートが背ではなく、腹を向けて棚にささっており、そのノートから写真がはみ出しているのに気がついた隆之介は、青ざめたものだ。

 しまったな。早く処分しておくんだった。あの野郎から押しつけられるようにもらった写真。

「でもシェフ、シェフはイケてますよ。うん、うん」

 なんだよ。その、カヴァーにもなっていないようなフォローは、よう。

 すこし長めの前髪を七三で分け、後ろは刈り上げの、まあ、イケていなくはないかな、というオッサン? でも、どうしたってヘタレっぽさがにじみでちゃう、と自覚する。

 カウンターでカモミールティーを飲みながら姉を待っているみもざが、「おねえちゃん、まだあ?」、と眠たそうに言った。

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