君が見えるこの世界で
えもやん
第1話 狂愛
朝、目が覚めると、彼女の姿がベッドの傍にあった。
白いワンピース、少し乱れた髪、そして笑顔。いつも通りの、愛おしい姿。
「おはよう、祐樹くん」
微笑みながら、彼女は俺の頬に触れる。ひんやりとした指先。でも、それが心地いい。
俺は言葉もなく頷き、彼女の手を握り返す。こうして目覚めた朝は、何度目だろう。
彼女――美咲は、もうこの世にはいない。
三年前、交通事故で命を落とした。
あの日から俺の世界は止まった。けれど、彼女は消えなかった。
見えるのだ。聞こえるのだ。感じるのだ。
精神科の医者は「深い喪失による幻覚だ」と言った。薬を処方され、通院もした。だが、それは意味をなさなかった。
だって、彼女は確かに“ここ”にいる。
手を握れば温もりがあり、夜になれば隣で眠ってくれる。俺を見つめ、俺だけを愛してくれる。
「ねえ、今日は出かけよう? 祐樹くんの好きな公園、行きたいな」
彼女が提案する。俺は頷き、着替えを済ませる。
街は春の気配。桜の蕾が少しずつ膨らみ始めている。
けれど、行き交う人々の目には、彼女の姿は映らない。
時折、俺が一人で笑っているように見えるのだろう。哀れみの目、時に恐怖の目。それでも構わない。
美咲がいない人生に、意味などない。
公園のベンチに座ると、美咲は俺の隣で足を組む。
風が彼女の髪を揺らす。彼女は目を細めて、優しく呟いた。
「ねえ、祐樹くんは……私がいなくても生きていけたと思う?」
答えは決まっている。
首を横に振ると、彼女は満足げに笑った。
「よかった。だって私も……祐樹くんがいなきゃ、きっと耐えられなかったから」
その言葉を聞くたび、胸の奥が熱くなる。彼女は俺を選び、今も共にいてくれる。
周囲が何を言おうと、この愛は真実だ。
けれど――ある日、異変が起きた。
彼女の姿が、少しずつ薄れてきたのだ。
声が遠く、触れた手の温度も感じにくくなっていく。
まるで、誰かに引き剥がされるように。
「……どうして?」
俺は問いかける。美咲は寂しそうに微笑む。
「祐樹くん……あなたが私から離れようとしてるの。心のどこかで、現実を受け入れようとしてる」
「違う……違う! 俺は……ずっと一緒にいたいんだ!」
「私も……でも、これはきっと、終わらせるべきだったのよ」
彼女は立ち上がり、そっと俺の額にキスを落とす。
その瞬間、すべての音が消えた。風も、鳥のさえずりも。
彼女の姿が、ふっと霧のように溶けていく。
「愛してるよ、祐樹くん。永遠に……」
――目を覚ますと、病室だった。
点滴、白い天井、看護師の気配。
母の泣き声が耳に届く。「戻ってきたのね……」と。
どうやら、俺は自宅で倒れ、意識を失っていたらしい。
あれは――夢? 幻覚? それとも、最後の別れだったのか。
ただひとつだけ言えることがある。
狂おしいほどに愛したあの時間は、確かに俺の中に生きている。
それが幻でも、病でも、呪いでも――俺は、後悔していない。
あれは、俺の“真実の愛”だったのだから。
君が見えるこの世界で えもやん @asahi0124
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