『取材ノートは語らない』―真実を追う彼女が見た、この世ならざる怪異―

ソコニ

第1話「遺影の微笑み」



「私は死んだ娘の笑い声を聞くんです」


老婆の震える声に、私は録音機のボタンを押した。取材メモの余白に「幻聴?」と走り書きする。


「七瀬さん、もう少し詳しく聞かせていただけますか?」


私、佐倉麻衣は「本当にあった怖い話」という月刊雑誌の記者だ。今回の特集は「喪失と幻影」。愛する人を亡くした人々が体験する不思議な現象について取材している。


「あの子が亡くなってから三年になります。最初は何もなかったんですよ。でも、ある日…」


七瀬郁江さん(78)は三年前に孫娘の七瀬美月ちゃん(当時8歳)を白血病で亡くしていた。老婆の顔には深い皺が刻まれ、かつては黒かったであろう髪はすっかり白くなっていた。それでも、整った顔立ちからは若い頃の美しさが窺える。


「美月の写真、見せていただけますか?」


郁江さんは立ち上がり、仏壇から一枚の写真を取り出した。遺影の少女は満面の笑みを浮かべている。丸い瞳が生き生きとしていて、まるでカメラの向こうの世界を見ているかのようだ。


「いつから声が聞こえるようになったんですか?」


「あれは…去年の夏でした。猛暑の日で、冷房が壊れて。修理を待っている間、汗だくになって扇子であおいでいたんです。その時、突然『暑いね、おばあちゃん』って…」


郁江さんの声が震える。私はペンを走らせる。


「最初は幻聴だと思いました。でも、それから何度も…美月の声が聞こえるようになったんです。最初は声だけでした。でも今は…」


老婆は言葉を詰まらせた。


「今は?」


「今は姿も見えるんです。夜、布団に入ると足元に座って…」


突然、室内の温度が下がったような気がした。エアコンの設定は変わっていない。私の腕に鳥肌が立つ。


「それで…美月ちゃんは何か話しかけてきますか?」


「ええ。『おばあちゃん、寂しくないよ』って。でも…」


「でも?」


「最近は『一緒に行こう』って言うんです」


私の背筋に冷たいものが走った。郁江さんの目から涙がこぼれ落ちる。


「私、もう長くないんです。医者からも余命宣告されてます。美月が迎えに来てくれてるのかもしれません」


私は言葉に詰まった。これは取材記事のためのストーリーなのか、それとも老婆の願望なのか。あるいは…実際に何かがあるのか。


「その…美月ちゃんの遺影、もう一度見せていただけますか?」


郁江さんは微笑み、写真を私に手渡した。


「麻衣さん、どうぞお持ち帰りください。美月、きっと喜びます」


「え?いえ、そんな大切なものを…」


「いいんです。昨日、美月が『その人に渡して』って言ったんです。不思議ですね、まるで麻衣さんが来ることを知っていたみたい」


私は困惑しながらも、礼を言って写真を受け取った。取材を終え、家に帰る途中、何度も美月ちゃんの写真を見た。あどけない笑顔。でも、どこか大人びた表情にも見える。


その夜、私は取材メモを整理していた。録音を聞き直し、記事の構成を考える。時計は深夜0時を回っていた。


「麻衣さん」


小さな声が聞こえた気がして、私は振り返った。誰もいない。


「気のせいか…」


パソコンに向き直ると、机の上に置いていた美月ちゃんの写真が目に入った。さっきまで笑っていた少女の表情が、どこか悲しげに見える。


「気のせいよ…」


私は目をこすり、もう一度写真を見た。やはり表情が違う。ほんの少しだけど、確実に違う。笑顔は同じなのに、目が…目が悲しみを湛えているように見える。


「ばかばかしい」


自分を叱りながらも、写真を裏返して作業を続けた。一時間ほど経っただろうか。背後から冷たい風を感じた。エアコンは消してあるはずだ。


振り返ると、そこに小さな影が立っていた。


「美月…ちゃん?」


影は何も答えず、ただ私を見つめている。恐怖で声が出ない。心臓が早鐘を打つ。


「麻衣さん、おばあちゃんに会いに行って」


かすかな声が聞こえた。次の瞬間、影は消えていた。


冷や汗をかきながら、私は携帯電話を手に取った。郁江さんに電話をすべきか迷う。深夜の電話は失礼だろうか。でも、この不安は…


決心して番号を押した。コールが鳴り続ける。誰も出ない。


「七瀬さん…?」


不安が膨らむ。再び電話をかけるが、やはり応答はない。


翌朝、私は早起きして郁江さんの家を訪ねた。何度呼び鈴を押しても応答がない。不安が確信に変わる。


隣家の人に声をかけ、事情を説明すると、その方が持っていた合鍵で中に入れてもらえた。


リビングには誰もいない。寝室のドアを開けると、郁江さんはベッドで横になっていた。安らかな表情で眠っているように見えたが、その手は冷たかった。


医師の検死により、郁江さんは昨夜、心不全で亡くなったと判明した。亡くなった時刻は深夜0時頃と推定された。ちょうど私が声を聞いた時間だ。


葬儀の日、私は美月ちゃんの写真を持参した。仏壇に戻そうと思ったからだ。しかし、仏壇を見て私は凍りついた。


そこには既に美月ちゃんの写真が飾られていた。私が持っているはずの写真と同じものが。


震える手で、バッグから写真を取り出す。そこには美月ちゃんはいなかった。ただの白紙だった。


その日から、私の部屋では時々冷たい風が吹く。そして、子供の笑い声が聞こえることがある。振り返っても誰もいない。ただ、鏡を見ると、時々、私の後ろに小さな影が映ることがある。


三週間後、「本当にあった怖い話」最新号の特集「喪失と幻影」が発売された。私の記事には七瀬郁江さんと美月ちゃんの物語が詳細に綴られていた。読者は実話として恐怖を味わったことだろう。


しかし、誰も知らない。美月ちゃんが今も私の部屋に来ること、そして「次はあなたの番よ」と囁くことを。


私はそれを次の特集のネタにしようと考えていた。ただ、最近体調が優れない。医者からは過労と言われたが、なぜか胸が痛む。そして夜、目を閉じると美月ちゃんの笑顔が浮かぶ。


あの子は何を望んでいるのだろう。そして、いつ私を連れて行くのだろうか。


私は怯えながらも、ペンを走らせる。これが最後の記事になるかもしれない。でも、読者は喜ぶだろう。本当に怖い話だから。

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