桜、雨、夢そして青紫の傘 《KAC20254》
ひとえだ
第1話 桜、雨、夢そして青紫の傘
あの夢を見たのはこれで9回目だった。
来年はあの場所に行こうと
ここではもう桜が咲きかけている。高速道路を降りると薄紅色の歓迎を受けた
「……譲様ですね。お2人様でご予約を承ております。お部屋は319号室になります」
自分と年齢が近そうな女性がルームカードを渡してくれた
「今日の日付と同じですね」
微笑み、軽いお礼を告げると、女性も微笑んで事務的な返答をした。
海が煙っている
窓の外は雨
雨音はない
雨は海に落ちた途端跡形もなく雨でなくなる
海を探しても雨の痕跡はなにも残っていない
僕が流した涙も
何の痕跡もなくただの水に変わってしまったようだ
窓の外の風景がひどく他人事に感じた
閉じられた窓ガラスは波の音さえ遮断している
波の音を聞くには
僕が窓を開けることが必要だ
頬を涙がつたっている。止まるまで涙を流すことにした。
花屋を検索して部屋を出た。
青紫色の傘を開いてホテルを出た。黄色い傘の小学生にすれ違いながら花屋を目指した。
ここは坂の町。坂道は幾つもあって海に通じているようだ。小さな花束を抱えて坂道を下る。
道には桜の木があって、開花の準備は整っているようだった。せっかちな花は咲いてしまうかもしれない。
1人で見る桜は寂しくて悲しい。それは桜の咲く時期がいつかをメディアに知らせられているからかもしれない。
海まで下って、海沿いの道を歩く
大学を卒業して海のない故郷に戻った
海を見ないで済むのはありがたいと思う
足を止めて小雨に霞む海を見る
海の中には魚達がいるらしい
僕は海の中で生活したことがない
本当に魚が小学生の時に学んだような
生活をしているかどうかは分からない
空想は字の通り
高校の理科で習う原子モデルが
インチキだって
そんなことは大多数の人生に影響しない
観測しないと現れない電子を
とやかく考えるのは愚考なのかもしれない
ネコが描かれた運送車が通り過ぎる
人は大抵の場合
実体で物事を考えないといけないのだ
歩き出さなければいけない。深呼吸をしてまた、足を進める。
目的地に近づくと、1つの傘が佇んでいる。女性のようだ。
女性が1人で来るような所ではない。8年前、摩耶は友達とここに訪れたようだ。そこで2人は海に
「譲?譲だよね」
両親の時代の映画をネットのチャンネルで見ているような感覚にとらわれた
「みずきか?」
女性はさしていた傘すら手放して、呆然と立ち尽くしている。風が女性の傘を攫って波の上を滑って行く。
咄嗟に女性を抱きかかえた
「ごめんなさい。私だけ帰ってきて」
「君も被害者じゃないか」
みずきは声を出して泣き出した
「僕も30分前に枯れるほど泣いたんだ」
みずきははしゃくりあげて泣き続けている。
5分程だろうか、波の音と胸に飛び込んで来たみずきの泣き声を黙って聞いていた。よくみると観音であろうか。比較的新しい小さな石像と花束が添えられていた。花束の主役はガーベラだった
「お
みずきのと海に向かって合掌した
「今日はどうして?」
みずきは僕の胸から離れた。傘を探しているようだが、海に浮かぶ傘に目線をやると「ああ」と悲鳴とも落胆ともとれる声を漏らした。僕はみずきに傘をさしかけた。
みずきの話によると、事故は4月19日に起きたが、摩耶の両親が毎年その日に訪れるので、逢うことが辛くて、1月前の3月19日にここに訪れているという。
みずきは摩耶の友人で、何度か3人で出掛けたことがあった。
8年前の旅行も誘われたが、外せない用事があり、摩耶とみずきで出掛けて事故に遭った。摩耶の両親は娘が帰ってくることを信じてずっと葬式は上げなかった。
みずきは長期間生死を彷徨っていたが、娑婆の世界に戻ってきた。意識を戻したみずきは家族以外の面会を拒否していたが、断られる覚悟で面会に訪れたところ、会ってくれた。お互い摩耶の話題に触れなかった。それ以来みずきとは会っていなかった
「譲は、どうして今日?」
もうあれから8年、駆け引きは不要だ
「春分の日の前日は必ず摩耶の夢を見るんだ
だから10回目の今日はこの場所で迎えようと思って」
桜が満開だ
空は雨
青紫の傘の下には
摩耶と僕
肩を寄せ合って歩いている
向かいから人の良さそうな老婆が歩いてくる
摩耶は老婆に聞く
「藤原実方の墓はどこですか?」
老婆は丁寧な言葉を添えて左の方向を指した
摩耶と僕は丁寧に御礼をして老婆と分かれた
摩耶は
「実方のところまでは行けないね
だって左ではないから」
ここで、目が覚めた。摩耶と目が合った
「譲と桜の下でデートする夢を見た」
摩耶の息が生暖かい気がした
「もしかして実方の墓の場所を聞いた?」
摩耶は唇を重ねてきた。手の平を重ねて、舌を絡めた。
摩耶は僕の下唇を軽く噛むと、唇を離した。
聞くと同じ夢を見ていた。
不思議はその翌年も起こった。
全く同じ夢を、春分の日の前日に見た。
スマホが鳴って摩耶も同じ夢を見ていることを知った。
その翌月、摩耶は娑婆の世界から消えてしまった。
不思議はさらに続く
摩耶がいなくなった翌年も
春分の日の前日に同じ夢を見る
その翌年も同様だった
そして今日の夜10回目の夢が訪れる予定である
みずきには概要だけ伝えた
「不思議な話ね。最初の2回は摩耶も同じ夢を見ていたんだ」
「全く同じだ。でも、質問した当人はなんでそんな質問したか分からないって言っていたな」
「”藤原なんとか”ってだれ?」
摩耶よりみずきの方が数段美人だが、反比例して頭脳は摩耶の方が優れていた
「百人一首の歌人で、清少納言の元カレ」
「清少納言なら知っている。”春は曙”よね。元カレってウケる」
ここでやっと笑顔ができた
「少し、飲まない?お清めのお酒」
みずきが提案した
「車じゃ無いの?」
「電車で来た」
「じゃあ、先に食事しようか」
「うん、傘、ありがとうね」
みずきに速度を合わせながら歩き始めた。みずきが使っているコロンはあの頃と同じような気がする。みずきも僕と同様に、娑婆世界の相対の森からはぐれて時計が狂っているのかも知れない。アインシュタインなら時計を合わせることを薦めるだろう。
会話が難しい。
数年前に100歳近くで大往生した近所の人の話をすることにした。
老人はかつて海軍の飛行士だった。愛機は紫電。戦争末期は特攻隊の護衛で出撃したという。紫電は高出力発動機で火力も十分。流体設計も見事であったが、燃料消費が大きく、航続距離が短かった。特攻隊を最後まで護衛することができず燃料切れで引き返さざるをえなかった。紫電や紫電改の護衛が帰るのを待って特攻隊は攻撃を受け旧式の零戦では特攻隊を護りきれなかったという。
愛機の紫電は終戦まで撃墜を免れた。そして護りきれなかった英霊達の
みずきは腕を組んできた。お互いの近況報告やたわいも無い話をした。
食事をして、個室のある居酒屋でお清めの酒を飲んだ。
酔ったみずきは発言が乱暴になっていた
”最初のデートでキスしたでしょう”
”私と初めて会った前日に、男女の関係になったでしょう”
”新婚旅行は、ハイゼンベルクとシュレーディンガーの故郷、ドイツとオーストリアがいいな”
摩耶は僕との話のいくつかをみずきに話していたようだ
「ねえ、気付いている?私が摩耶よ。令和版の”とりかへばや物語”だよ。身体はみずきだけど中身は摩耶だよ」
さすがにこれは怒りが込み上げた
「怒るぞ」
「もう、怒っているじゃん。
がっかりだよ、あんなに愛し合っていたのに、私だって分からないなんて」
「電車が無くなっちゃうぞ、もうお開きにしよう」
「まだ飲む。今日は譲の部屋に泊まる」
時計を見るともう東京に戻るのは厳しい時間になっていた。みずきの酔いも酷い。
「空室あると思うから、部屋を用意してもらうよ」
「そうだよね、8年もご無沙汰では、他の女を捜すわよね。もう私のおへその周りに執拗にキスしてくれないのよね」
居酒屋を出る頃には、みずきはすっかり千鳥足だった。雨は上がっていた
「おんぶして」
「はい、はい。お姫様。居心地の悪い乗り物で恐縮ですがどうぞ」
「ふむ、大義であった」
みずきは身体を僕の背中に預けた
「どうだ、8年ぶりの胸の感触は、臨場感が増すように今ブラジャーを外すから」
「何もせず、大人しくしていて下さい」
みずきは僕の首筋を舐め始めた
「しょっぱい。海の味は御免だ」
「頼むから、大人しくしてくれ」
「一緒の部屋に泊めてくれたら大人しくする」
深いため息をついた
「分かりました。そうします」
「ふむ、よきにはからえ」
「意味、分かって言っているか?」
「わらわは、太ももを触られて興奮しておる。お前も罪な男じゃのう」
「はい、はい」
ホテルに戻ると年配のフロントに声を掛けられた
「お帰りなさいませ。お連れ様と到着が別でしたのですね」
みずきが
「ふむ、大義であった」
とフロントに告げると、フロントの男は微笑んで
「ごゆっくり、お休み下さい」
と僕らを見送った。
部屋に入ると”酔った、酔った”と言ってトイレに向かい、出るなりベットに倒れ込んだ。シャワーはと聞くと、明日コンビニで下着を買ってから浴びるといった。
僕の居ることなど気にしないように服を脱ぐと、ブラジャーを取ってホテルの備え付けのバスローブを着てベットに入った。1分もしないうちに美しい容姿から発しているとは思えないいびきを立て始めた。
僕は荷物を片付け、シャワーを浴びた。
椅子に座って窓の外の深淵の海を見た
「”とりかへばや物語”って男と女が入れ替わる話だろう」
そう呟いて笑った。
深淵の海に合掌してベットに入った。
隣のベットでは
桜が満開だ
空は雨
青紫の傘の下には
みずきと僕
肩を寄せ合って歩いている
向かいから摩耶が歩いてくる
みずきは摩耶に聞く
「藤原実方の墓はどこですか?」
摩耶は丁寧な言葉を添えて左の方向を指した
みずきは丁寧に御礼をして指を指した方向に歩き出す
摩耶は僕に尋ねた
「1人で行かせていいの」
僕は答えた
「左道の者でなく右道の者ですね。松尾芭蕉は、雨の中で桜を詠んだ実方に敬意を示したのでしょう。自分は切望した塩竈神社の桜を見ることさえ叶わなかったから」
目覚めるとあけぼのの頃、みずきが僕のお腹の上に馬乗りに座っている。
-了-
桜、雨、夢そして青紫の傘 《KAC20254》 ひとえだ @hito-eda
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