第3話 素数と偽証

ロンドン大学数学研究所の一室は静まり返っていた。


散らかった書類の中、ハーディーはカーライル教授の研究ノートの最後のページを見つめる。

明らかに、誰かが意図的に切り取った跡がある。


「完全に消されたな……」


「証明の核心部分が盗まれたということですね。」


ラマヌジャンは腕を組みながら、天井を見上げた。


「先生、数学の世界において、証明を盗むことはどういう意味を持ちますか?」


「歴史を奪うことだ。」


「つまり、教授の研究成果を奪い、自分のものにしようとした可能性がある?」


「それもあり得るが、もっと単純な理由も考えられる。」


ハーディーはペンを取り、紙に数式を書いた。


ζ(s) = 0


「これはリーマン予想の核心だ。もし教授がその証明を完成させていたなら、それが表に出るのを阻止したい者がいても不思議ではない。」


「証明そのものが危険な存在になることもある、ということですね。」


グレイブス警部が腕を組みながら呆れたように言った。


「お前らの話は相変わらず難しいな。つまり、犯人は証明が世に出るのを防ぐためにカーライルを殺したってことか?」


ハーディーは微かに笑い、机の上の資料を指で弾いた。


「だが、証明は完全に消えたわけじゃない。教授の研究に関わっていたもう一人の数学者がいる。」


ロンドン大学の講義棟。

彼らが向かったのは、カーライル教授の共同研究者アンドリュー・サリヴァンの研究室だった。


「サリヴァンは、教授とともにリーマン予想を研究していた男だ。」


「彼が何か知っている可能性は高いですね。」


研究室の扉をノックすると、しばらくして中から男の声が聞こえた。


「……どなたです?」


扉が開くと、痩せた男が立っていた。

三十代半ば、細身の眼鏡をかけた神経質そうな顔つき。


「G.H.ハーディーです。あなたがアンドリュー・サリヴァン博士ですね?」


「……ええ、それが何か?」


「カーライル教授の事件についてお話を伺いたい。」


サリヴァンは警戒した目つきで二人を見た。


「……研究とは関係ないでしょう?」


「いいや、大いに関係がある。」


ハーディーはそう言いながら、サリヴァンの研究室の机の上に置かれている書類を指差した。

そこには、カーライル教授の筆跡とよく似た数式が並んでいた。


「あなたは教授の研究ノートの内容を知っている。」


サリヴァンの表情が一瞬、こわばった。


「……何のことです?」


「あなたはカーライル教授の証明を見たのでは?」


ラマヌジャンが優しい口調で問いかけた。


「教授の最後の論文は、あなたにも見せられていたはずです。あなたが何を知っているのか、教えていただけませんか?」


サリヴァンは小さく息を吐き、椅子に座り直した。


「……私は何も知りません。」


「本当か?」


「本当です。」


ハーディーは彼の顔をじっと見つめた。


「では、あなたは嘘をついている。」


サリヴァンの顔色が変わる。


「私は……何も……」


「数学者の嘘は簡単に見破れる。」


ハーディーは机の上の書類を手に取り、素早く数式を眺めた。


「これは、教授が亡くなる前にあなたに見せた研究の一部だろう?」


サリヴァンは言葉を失った。


ラマヌジャンはゆっくりと口を開いた。


「先生、彼の数式の中に、ある違和感を感じませんか?」


ハーディーはサリヴァンの論文を改めて見た。そして、ペンを取り、ある部分を指摘した。


「この証明の流れ……どこかで見たことがある。」


サリヴァンは顔をそむけた。


「まさか……教授の証明を、そのまま書き写したのか?」


サリヴァンは震えた声で答えた。


「……私は、教授の証明を……見た。」


「やはり。」


「でも、私は……それが本物だとは信じられなかった!」


ハーディーとラマヌジャンが顔を見合わせた。


「証明を見たのに、信じられなかった?」


サリヴァンは力なく笑った。


「教授の証明は、常識を覆すようなものだった。もしそれが本当なら、数学の世界は完全に変わってしまう……。」


「だから、あなたはそれを否定した?」


「そうじゃない……」


サリヴァンは顔を上げ、青ざめた顔で二人を見た。


「証明が盗まれる前に、私はそれをそっくり書き写していたんです。」


ロンドンの片隅の倉庫。

暗闇の中、男が机の上に広げられた研究ノートのページを見つめていた。


「サリヴァンがどこまで知っているか、確認が必要だな。」


もう一人の男が薄く笑う。


「なら、彼を動かす方法を考えるとしよう。」


机の上には、ある数式が書かれていた。


ζ(s) の解は、——


「証明はまだ、俺たちの手の中だ。」


次回予告

•サリヴァンが書き写した証明の行方は?

•証明を狙う謎の組織の正体が明らかに!

•ラマヌジャンが驚愕する、数式の「秘密」——!


数学者たちの証言が、真実へと導くのか、それとも新たな罠なのか。

次回、『数学者たちの迷宮』——。

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