ハーディー&ラマヌジャンの数学探偵録

湊 マチ

第1話 1729号室の謎

ロンドンの夜は霧に包まれていた。

クロイドン・ハウス・ホテルの高級客室。1729号室の扉が静かに開かれる。


部屋の中央には、一人の男がうつ伏せに倒れていた。

エドワード・カーライル教授。 世界的な数学者であり、「フェルマーの最終定理」に関する新たな研究を発表するはずだった男だ。


彼の血に染まった手の先には、一枚の紙が落ちていた。

そこには、こう書かれていた。


1³ + 12³ = 9³ + 10³


「また、意味不明な遺書か?」


グレイブス警部は、床に落ちた紙を拾い上げた。

数学には全く興味がないが、これが普通のメッセージでないことは直感的に分かった。


「警部、被害者の机の引き出しに……」


部下の刑事が震える声で指さした先には、一冊のノートが置かれていた。

表紙には乱れた筆跡で、こう書かれていた。


『証明が完成した。しかし、彼らはそれを望んでいない——』


「……彼ら?」


グレイブスは顔をしかめた。

この事件は、単なる殺人ではない。


「数学者を呼べ。俺には、この数式の意味はさっぱりだ。」


「1729号室、か。」


数時間後、ロンドン警視庁の依頼を受けた数学者 G.H.ハーディー は、タクシーに揺られながら小さく呟いた。


「1729……これは偶然ではないな。」


助手席の新聞には、「数学者エドワード・カーライル教授、ホテルで殺害」の見出しが踊っていた。


彼は車窓を眺めながら、病床の友人の言葉を思い出す。


「先生、1729は、とても興味深い数ですよ。」


「やれやれ、また君の出番か。」


ハーディーはタクシーを降りると、クロイドン・ハウス・ホテルの正面玄関へと足を踏み入れた。


ロンドンの病院。


シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、ケンブリッジ大学から遠く離れた病室で療養していた。

ハーディーからの電話を受け、彼は微笑んだ。


「先生、問題ですか?」


「お前の得意なものだよ。数学と殺人だ。」


「なるほど。数式が遺されたのですね。」


「1729だ。」


電話の向こうで、ラマヌジャンが楽しそうに笑った。


「それは、二通りの方法で立方数の和として表せる最小の数ですね。」


1³ + 12³ = 9³ + 10³ = 1729


「それだけじゃない。被害者の研究ノートには、こう書かれていた。『証明が完成した。しかし、彼らはそれを望んでいない——』」


「彼ら?」


「おそらく、数学の世界に何か隠されたものがあるのだろう。」


ラマヌジャンは考え込む。


「先生、私は行きますよ。」


「病院を抜け出す気か?」


「数学が呼んでいるのです。」


ハーディーはため息をつきながらも、微笑んだ。


「君がそう言うなら、止める気はないさ。」


ホテルの1729号室。


グレイブス警部が苛立った様子で腕を組んでいた。


「つまり、この数式が何かの暗号だっていうのか?」


「可能性はある。」


ハーディーは落ち着いた表情で、机の上のノートを手に取った。


「カーライル教授は、この数式を遺した。そして、証明を完成させたと記している。」


「じゃあ、そいつの証明が殺害の動機になったってことか?」


「まだわからん。ただ、数学者にとって『証明』とは、命よりも価値のあるものだ。」


ハーディーはふと、机の引き出しに目を向けた。


「これは?」


引き出しの奥から、小さな紙切れが出てきた。


そこには、手書きの筆跡で、こう書かれていた。


『リーマン予想は——』


そこで紙は破られていた。


ハーディーは息をのんだ。


「リーマン予想……?」


「なんだ、それ?」


「数学界最大の未解決問題のひとつだ。もし本当に証明されたのなら……」


彼は声を詰まらせた。


「これは、数学の世界を根本から覆す発見かもしれない。」


その夜、ロンドンの片隅で、ひとりの男が新聞を眺めながらニヤリと笑った。


「ハーディーとラマヌジャン……か。」


男は新聞を折り畳むと、机の上に置かれた古びた数学のノートを手に取った。


その表紙には、こう記されていた。


『ラマヌジャンの最後の定理』


男はそれを手に取り、静かに呟く。


「彼らがこれに辿り着くのは、時間の問題だな。」


次回予告

•カーライル教授が遺した証明の謎とは?

•『リーマン予想』の証明が隠された秘密とは?

•そして、ハーディーとラマヌジャンを監視する謎の男の正体は——?


数学が導くのは、真実か、それとも新たな謎か。

次回、『盗まれた証明』——。

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