第7話 名前流し

「今年は、お祭り再開されるんですね」

 その日、郁子が鏡池の掲示板に自分で制作したポスターを貼っていると、一人の中年男性に声をかけられた。夏休みも終わったというのに、まだ暑い日が続く。首にタオルを巻いて作業する郁子とは対照的に、目の前の男は全く汗をかかない体質なのだろうか、涼しげな顔をしてニコニコしている。

「ああ、はい、そうなんです」

 汗を拭い、戸惑いながら返事をする直子に、男は軽く自己紹介をした。白いシャツの上に麻のジャケットを羽織り、照りつける太陽の暑さを感じさせない爽やかな佇まいで、名刺を渡す。

「へえ、大学の先生、上田、さん。こんな調査もされるんですね」

「調査なんて大仰なものではなく、趣味です、好きでここの池をウロウロしてます」

好きでウロウロ、そうですか。清潔感のある風貌ではあるものの、大学教授でなければ、かなり変な人だと郁子は思った。「最近、この鏡池の側で老婆を見た言う話を聞いて。まあ完全に興味本位ですねん。その老婆ってだれなんでしょうね。ここの池に“名前流し"をされた人なんかなあ、なんて空想広がりますね。なんせ、誰もがその人の存在を忘れてしまうわけですから」

「えっ、老婆って……」

 何か心当たりあるんですか?上田がズイッと近寄る。

 いや、関係ないと思いますし変な話ですけど、そう前置きして、郁子は、ここ数日の間に起きたことを上田に話した。


「なるほど……。福井さんの場合は“混線”が、起こったのかも、知れないですねえ」

郁子の話をに興味深そうに耳を傾けていた上田は、そのように感想を述べた。


「混線、ですか?」

「はい。混線、福井さんの世代はもうギリギリ経験無いかなあ、昔のプッシュ式の電話で、通話する時たまに、自分の意図しない場所と繋がってしまうことがあったんですよ」

「ああ、ありましたね!受話器をあげて、外線を押してから相手先の番号を押さず、そのままじっとつながらない外線の先の音を聞く遊び、私あれ好きだったんです」

「そうそう、そんな感じです。福井さんはお葬式、それも、今時、白装束を着て、延べの送りのような古い儀式を行ったわけでしょう。それを通じ、こちらとあちらが、混線したのかもしれない」


どういうことかわからない、という顔をする郁子に、上田は話し続けた。

「昔は、そこらじゅうで混線が起きていたのですよ。翻って、今の世の中は、全てがスマートになり、いわば日常の“隙”が無くなった。スマホをタップすれば、混線どころか番号をプッシュしなくても確実に通話先につながることが出来る。間違い電話なども格段に少なくなった。例えばメッセージアプリの登場前は、メールという手段、その前はポケベル、黒電話。そういった通信手段だけでなく、まあお葬式の風習もそんですね、今は葬儀屋がとにかく簡素で合理的な式を催してくれる。けれど昔は違った。時を遡れば遡るほど、そのような“隙”は、生活のそこかしこにあったわけです。そして、その“隙"に怪異はいつも潜んでいた。それは言い換えれば、想像力を広げる余地、と言い換えることもできるのですがね」


 ヒートアップする上田の話が、郁子は途中から頭に入ってこなかった。というのも、郁子の視界の右側、ガードレールの向こう側の池のほとりに、誰かが佇むのが見えたのだ。手足のか細い、髪の長い少女。見たことがある、あれは、そう、田宮の娘の佐奈ではないか。

「うえ、だ、先生……あの子、何してるんやと、思いますか?」

 そう言われて、初めて上田は佐奈の存在に気付いた。

「うそ、上田先生、あの子、池の中に、入っていこうとしてません……?」

 郁子は、精気を失った佐奈の顔に釘付けになりながら、隣の上田に顔を向けたとき、もうその姿は無かった。

 上田は、猛スピードで駆け出し、池の水でずぶ濡れになりながら、半分水に浸かった佐奈の腕を掴み怒鳴った。

「きみ!!何をやってるんだ!?何をしようと、していたんだ」もの凄い剣幕で声を荒げる上田に、佐奈は能面のような表情を崩さず、何も答えなかった。

「佐奈ちゃん、その紙、何?」上田のあとから追いかけた郁子が、息を切らせながら問う。

「きみは“名前流し”をしようとしていたのか。これは、誰の名前なんや?」

その赤い紙には、タミーママ、と書かれていた。

「それって確か、お母さんのこと、やったよね?」横から覗き込んだ郁子がそう言うと、初めて佐奈は、大声を上げて泣き叫んだのだった。


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