第46話
私は化学準備室に毎日のように通った。
朝倉先生が机で何かを書いている、その横でずっとお喋りを続けた。
「でね、卒園式の日に押し花の栞くれたの!」
「ロマンチックじゃないか」
朝倉先生は時々相槌を打ちながら聞いてくれるので、私はすごく喋りやすかった。
この人はきっと天性の聞き上手なんだろう。
「でしょ?しかも、その花なんだったと思う」
「……さあ?」
「私にぴったりだって言ったの」
朝倉先生が私の言葉をヒントに少し考えた後、答える。
「……桜かな?」
「そう!正解!」
一発で当ててくれたことが私はすごく嬉しかった。
「芽衣子は花が好きなのか?」
「私、実は花とか植物とか好きじゃないの。だからと言って嫌いでもないんだけど。特別自分で育ててみようなんて思わないし、わざわざお花見なんかする意味がわかんない。でも、お父さんとお母さんは毎年お花見をしようっていうの。だから、私は喜んだふりして、桜を眺めるんだ」
「……そうか」
朝倉先生はずっと私の話を聞きながら、文字を書いている。
「さっきから何書いてるの?」
「レポート」
「大学の?」
「そう。教育実習終わったらすぐ試験だからな」
「……ふーん」
次の日も化学準備室のドアを勢いよく開けると、朝倉先生はまたレポートを書いていた。
「せーんせっ」
「静かに入って来なさい」
「はーい」
ドアを閉めて朝倉先生の隣に座る。
「レポートできたー?」
「まだ」
「ふーん」
先生が紙にペンを走らせる音がすごく心地よい。
化学準備室の小さな窓から差し込む夕陽が先生の顔を照らしている。
アンニュイに見えるその表情に、愛おしさを感じはじめていた。
「あと三日か」
「ん?」
「先生がいなくなるまで」
「まぁ、そうだなー」
喋る時に気を抜くと語尾が伸びてしまう癖も独特で可愛い。
「私、ちゃんと約束守ってるんだよ。ここ最近誰にも身体を売ってないの」
「偉いぞー」
「先生のおかげかなー?」
「お前が頑張ったからだよ」
私は意外だった。
そんな風に言われると思わなかったから。
そして、同時に次の言葉を聞きたくないと本能が叫んでいた。
「俺がいなくなっても……」
「イヤ」
私は先生の腕にしがみついた。
「……おい」
「いなくならないで」
「……」
先生はどんな顔をしているんだろう。
きっと困っているんだろう。
「私、先生がいなきゃダメ」
「……芽衣子」
「先生は大学卒業したら中学校の先生になるの?」
「それは、わからないな。高校かもしれない」
「そしたら、一緒の高校になれるかもしれない?」
「こっちは学校を選べないからな」
「なる。なるよ。……私の勘は当たるんだから」
根拠はなかった。
だけどそんな気がした。
私たちは絶対また出会う。
「運命の赤い糸で結ばれてるんだよ。私たち」
「それはないな」
朝倉先生がからかうように笑う。
「えー。酷い」
「まぁ、そうなったら。また三年間お話しに来たらいい」
朝倉先生はそう言って優しく微笑むと、私の頭を撫でてくれた。
「うん!」
稲山高校の入学式。
新入生が並ぶ教室の黒板には『入学おめでとう』の文字。
教壇に担任教師が立ち、その傍に副担任として新人の朝倉先生が立っていた。私は自分の席から朝倉先生に向かって微笑みかける。朝倉先生は驚いたように、そして呆れたように小さく笑い返してくれた。
高校でも、朝倉先生は化学準備室に篭っていることが多かった。薬品に囲まれていると集中力が上がるとか、意味のわからないことをいっていたけれど、それも先生らしいなと思った。
私はそっと化学準備室を覗いた。
朝倉先生は案の定、薬品の瓶を綺麗に並べ直していた。生徒たちは使った薬品を適当に戻すから、日課のように朝倉先生が並び直している。
「朝倉先生」
私が声をかけると朝倉先生は振り向いて、呆れた顔をした。
「……周りに怪しまれたらどうする」
そんな先生の言葉に私は微笑む。
「別にやましいことなんてしてないんだからいいじゃない」
「教師陣の目は鋭いんだよ」
でも、また3年間お話しにきていいって言ったのは朝倉先生だもん。と私は思った。
「あっ、そうだ!今日もまた告白されたよ」
「またか。まだ4月だぞ、これで何人目だよ」
「……15人目?覚えてないや」
「最近の男子は草食系とか言うけど、ありゃ嘘だなー」
朝倉先生は腕を組み1人でうなづいている。
「でも、ちゃんと断ってるよ」
「良さそうな奴なら付き合えばいいじゃないか」
「いないもん」
「そうか」
「いつも『私、朝倉先生のことが好きだから、ごめんなさい』って断るの」
「おまっ」
朝倉先生が持っていた薬品の瓶を落としそうになる。
「なんてね。嘘だよ」
私がそう言うと、先生はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「そんなこと言ったら先生、学校に居づらくなっちゃうでしょ?」
「よく分かってるじゃないか」
「だから言わないよ。我慢する。でもね……私が、高校を卒業して大学生になったら、先生のこと狙いに行くから」
「お前な……」
朝倉先生はまた呆れたような顔をした。
「俺以外にも、男はたくさんいるんだ。こんなオッサンじゃなくて、同年代のもっといい男探せ」
「いないよ。先生以上の男の人なんて」
私は先生の背後から抱きついた。
「おいこら」
「……先生。大好きだよ」
「……」
先生はどんな顔をしているだろう。
また困ったような呆れた顔をしているんだろうな。
でも、私は本気だ。
先生以外の男なんて考えられない。
はじめて、私が心から信頼できた人だから。
本屋で私は創ちゃんの参考書選びに付き合っていた。創ちゃんは私と同じ高校を受けるらしい。
成績に少し不安はあるけれど、中学の内容なんて、勉強さえすればなんとかなるようなものばかりだ。ハナからダメだと諦めさせるのはよくない。
「一問一答形式の方が、創ちゃんにはあってるかな……」
「そう?」
「だって、創ちゃん。問題読むだけで挫折するでしょ?今はとりあえず知識を詰め込まなきゃ」
「なるほど……うーん。早くも挫折しそう」
「大丈夫だって。まだ半年以上あるんだから。夏休みが追い上げ時だよ」
「はーい」
ふと本屋のショーウィンドウ越しに外を見ると、遠くに朝倉先生が歩いているのが見えた。
そしてその横には朝倉先生と同じくらいの年齢の女性がいた。
「……え?」
「ん?どうしたの、メイ」
「ごめん。ちょっと用事ができちゃった」
「え?メイ!」
私は、本屋を飛び出して人混みに紛れながら朝倉先生たちを尾行した。二人は談笑しながら、バスに乗ったので私も隠れながら同じバスに乗りこむ。二人が降りたバス停で一緒に降りる。幸い人が多かったので、先生はこちらには全く気づいていないようだ。
電信柱の陰などに隠れながら、あとを追う。
この道は知っている。朝倉先生のアパートに通じる道だ。アパートにつき私は、じっと2人を見つめた。玄関の前で別れるのか、それとも一緒に部屋に入るのか。
正解は後者だった。
私は朝倉先生のアパートの扉の前まで行った。
そして、そのドアノブを見つめる。
……バカなこと考えるのはやめよう。
私は何もせず、その場を後にした。
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