どうでもいい日常
宮田秩早
フローリングを走る幽霊
我が家は集合住宅である。
分譲。
建築当初は和室を除いて、廊下も含めて全面、カーペット敷きだった。
私は当初の購入者から二十年ほどまえに買い取り、入居のときに壁紙を、おととしに風呂の水回りを新調したほかは、建築当初の仕様のまま使っている。
高い階層ではないため、夏はコンクリートの暖まるのが遅いのか、比較的ひんやり過ごしやすく、冬は遮蔽性が高いために暖房を入れなくてもわりと暖かい。
築年数にして四十年になろうかという物件だが、なかなか快適である。
このマンションは、比較的防音が良い。
静かなのは建物自体のポテンシャルのほかに、おそらくは幼児等、飛び跳ねて騒ぐ世代が入居していないのもあるだろう。
マンション新築当時から入居している古参の区分所有者はのきなみ七十代。
途中で買った私でも五十代。
居住者の年齢的なものもあるし、五年ほど前まではほとんど出入りのなかったマンションなので(私の入居が珍しかった)、向こう三軒両隣にくわえて上下、顔見知りでもあることでやはりみな音には気を遣っている。
しかしながら最近、転居してきた私のお隣など、高校生男児ふたりを含む世帯である。
にもかかわらず、生活音を含め、暴れ回るような音は聞こえない。
もちろんしつけのよく行き届いたよいお子様たちである可能性はとても高い。
廊下で顔を合わせたときなど、きちんと挨拶してくださる。
とはいえ、私と同じような間取りの場所にカロリーの高い男子ふたりを含む世帯が生活していて物音がほぼ聞こえないというのは、ものしずかなご家庭というだけではないだろう。
総合的に判断して、やはり建物の防音性が高いと評価して差し支えないように思われる。
これまでは上階の物音も聞こえなかったのだ。
さて、人間はいずれ老いてゆくものである。
バブルの足音を聞いていた時代、明日への希望に満ちて新築マンションを購入した世代も、そろそろ子供との同居、もしくは老人ホームに入居することを考え始めた。
そして去って行く人々、新しく入居してくる人々。
入居者が変わると、リフォームが行われる。
上階の人はどうやらこれまでの渋い灰色の(40年の歳月を経て色あせてもいる)カーペットをやめてフローリングにしたようだ。
なぜそんなことが分かるのか?
響くのである。
椅子を引く音、ものを落とし床を転がってゆく音。
――そして、「てちてちてち」と肉球が床に接する微かに濡れた音を立てて歩き回る動物の足音……
人間の足音はしない。スリッパを履いているのだろうか。
どう考えても施工不良じゃない? 防音材敷いてなくない?
あれか、あの防音性能皆無だけど材料費施工費用ともに安いという噂のフロアタイルとかひいてる?
私は上階の住人に同情した。
フローリングはどうしても音が響きやすい。
が、そのためにマンションのコンクリートと室内のフローリング材のあいだに咬ませる防音材が各種開発されていて、近年のフローリングの防音性はかなり高くなったとも聞く。
まあ、自分で工事代金を値切りまくって、「防音材? いらんいらん!」とケチった可能性もなくはないが、防音工事はそもそもが見えない部分の工事のため、敷設忘れ、もしくは手抜き工事、予定された防音材のグレードを落とした材料の使用、いまどきは何でもあり得る。
自分でDIYで施工したりね。その場合は防音について知識不足すぎたのだろう。
ただ、音が聞こえるからと言って、それが迷惑なわけではない。
(推定犬の)足音が聞こえてくるのは朝から夜十時くらいまでだし、たぶん住人も夜更かしはしないらしく十時くらいになると椅子をひく音も、なにか固いものを床に落とし転がってゆく音も聞こえなくなる(ものを落とす音が頻繁に聞こえるのは、上階の住人が、並外れてうっかりさんというよりは(推定)犬のおもちゃを転がしている可能性がある)。
それしきの音が聞こえていたところで、私はベッドに横になるとスイッチが切れたように寝てしまうため、物音が気になって眠れないということもない。
まあ、このマンション、規約によってペット禁止なんですけどね。
分譲はそのへん、区分所有内のことについては(内装の変更をはじめ)所有者の意向が優先されるので他の居住者が耐え難い迷惑を被っていると、管理会社等に訴えない限りはとくにだれもなにも言わない感じで運用されているから。
というわけで、最近の私はいるはずのない(推定)犬の幽霊とともに住んでいるようなものである。
今日も元気に「てちてちてち」と足音がする。とてもリアルなその足音、姿が見えないのが不思議なくらいだ。
可愛い。
元来、生き物の世話は苦手なので、「音はすれども姿は見えず」の幽霊を飼っていると思えば、ちょっとお得な気もする。
ただし、我が家を出てすぐの共用廊下に、たまにおしっこが溜まっているのはさすがに頂けない。
もちろんこれだってたいした迷惑というわけではない。「大」の方は見かけていない。毎日というわけでもないから塩素を入れた水を流してデッキブラシでこする程度の手間はたいしたものでもない。
幽霊だって、いまどきは現実世界に影響を及ぼして人間を脅かすようなものもおおい。犬の幽霊だっておしっこくらいはしたいだろう。
加えて、この足音の(推定)犬が犯犬とも限らないだろう。
まあ、うちのマンションはオートロックなので「犯犬はこのなかにいる!」可能性は高いのだが。
こちらはマンションの管理組合に話をして、犯犬を特定しないままに貼り紙だけしてもらっている。
貼り紙のあと、おしっこの回数が控えめになったような気がする。
犬の幽霊にも、 「お札」は多少は効果があるようだ。
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